仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

女性と漢字

2023年02月28日 | 日記

昨27日、未明目が覚めるとラジオのスイッチを入れた。『深夜便』明日へのことば、「頭木弘樹(文学紹介者)・〔絶望名言〕 紫式部」を放送中でした。

ラジオのスイッチを入れたとき、丁度、「一」という漢字を書くにも憚った。  そこまで隠さないといけなかったことを紹介していた。

 

この時代、男性が理解できることは立派なことだけれども、女性だとからかいや反感の種になるので、紫式部は屏風に書かれた漢字も読めないふりをしていたという。平安時代に、ひらがなが発明されて、女文字を言われていた。「源氏物語」はひらがなで書いたが、直筆は残っていない。

「兄の式部丞が子供の時分に史記を習っているのを、そばで聞き習っていて兄のよく覚えなかったり、忘れていたりするところを自分が兄に教えるようなことをしたので、学問好きな父は残念なのはこの子を男の子に生まれさせなかったことが、自分はこの一事で不幸な人間と言っていいと常に嘆息をした。」    紫式部

当時の男性貴族は漢文を習得しなければいけない。 女性が学問をすると不幸になると言われていた。  紫式部が漢文を読んでいると、侍女たちが集まって来て以下のことを言うんです。

「奥さんはああした難しいものをお読みになるのが、返ってご不幸なもとになるのですよ。 女と言いうものは全体言えば、漢字で書いた本など読んではいいものではありませんよ。  昔はお経さえもそんな理由で不吉だと言って、女には見せなかったそうですよ。」

「自分の家の侍女たちにさえも読書の気兼ねをする自分ではないか」と、書いています。  (以上放送より)

その話を聞いていて、ふと2017.10.29に書いたブログを思い出した。

年賀はがきで、目の上に人に対しては「賀正」とか「迎春」ではなく、正式に「謹賀新年」と書くべきです。これは一般常識です。しかし、昔、女性は「謹賀新年」を使うべきではないという習慣がありました。

家父長制の建前があった時代は、新年のあいさつは一家の主、男性の仕事であり、また四文字熟語等の漢文はもともと男性向けのものという習慣があったからです。

現在でも、女性の手紙は、漢字を避ける習慣がありますが、四文字熟語等の漢文はもともと男性向けというよりも、仮名文字ほうが、やさしい響きがあるかでしょう。(以上)

 

ふと、この女性と漢字の話を思い出し、「女史だから謹賀新年と使うべきでない」となると、女性差別になる。女性が好んで、カナ文字を使うのであれば良いが。とラジオを聴きながら回想しました。

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ホモ・サピエンスの15万年

2023年02月27日 | 日記

『ホモ・サピエンスの15万年―連続体の人類生態史』(古澤拓郎著)からメモ代わりに、一つ転載します。

 

 

このような原人が進化して、例えば北京原人が進化して現在の東アジア人になり、ジャワ原人が進化してインドネシア人になったという考え方もかつてはあったが、今では否定されている。否定する恨拠となった研究の一つに、カリフォルニア大学バークレー校のレベッカ・カン博士やアラン・ウイルソン教授らによって。1987年に科学誌「ネイチャー」に公表された論文がある。この研究チームが世界中の女性から集めた、ミトコンドリアDNAという遺伝子を分析して比較したところ、女性らは皆、計算上は約二〇万年前にアフリカカにいた一人の女性から生まれてきた、という結論になったのである。この研究に対しては、科学の世界でさまざまな議論が行われたが、考古学や骨形質学などの異分野の研究や、その後さらに発展した遺伝子学の研究においても、おおむね同じ結論になることがわかった。つまり、はるか昔のアフリカの外に出て広まった原人は仏たちに遺伝子を引き継ぐことなく絶滅し、それより後にアフリカに誕生した、新しいごく少数の人間があらためて世界に広まって、今に至るというのである。

 ところで原人が絶滅した原因の一つとして考えられているのは、地球に何ども訪れた氷河期がある。氷河期のアジアやヨーロッパはあまりに寒冷でそこで生存することはできず、アフリカ大陸でのみ人間の祖先は生存し得たという考え方である。私たち人間についても、先に述べたようにアフリカ大陸の外に出だのに10万年前とされるが、ヨーロッパやアジアにたどり着くまでに五万年かかったのは、アフリカ大陸の外の環境に何度も追い返されたためであり、寒冷な気候で暮らしていくための身体と文化を備えるために時間がかかったためであろう。熱帯アフリカや熱帯アジアから、寒冷なヨーロッパや東アジアにも進出できるようになったのは、私たち人間が氷河期でも生きていけるような性質と、衣服・住居・火の使用などの丈化を身に着けるようになったからなのである。(以上)

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欲望の経済を終わらせる②

2023年02月26日 | 現代の病理

『欲望の経済を終わらせる』(2020/6/5・井出英策著)からの転載です。

 

本書、最後の提案は、弱者の自由の条件をかたる、旧未型の「レトロリベラル」から、すべての人たち自由の条件をかたる、末末志向の「プロリベラル」へとリベラルの思想を転換することである、それは、繰りかえし述べたように、「批判」を目的化するのではなく、新自由主義を「無効化」するための戦略である。

 

これまでに述べてきた議論をもとに、プロリペラルの指針を図式的にしめしておこう。

1)「自己責任」⇒「満たしあい」

 プロリベラルは、格差是正や弱者支援を第一義的な目的とはしない。経済成長によって自己責任で生き、一部の弱者を救済すればよい時代は終かった。ベーシック・サービスをつうじたすべての人びとの「尊厳ある生活保障」を柱に「品位ある命の保障」を組みあわせ、人間が生きていく、くらしていくうえで、みなが必要とする//必要としうるニーズをたがいに満たした時代をたぐりよせる。「だれかを救う社会」から「ともに生きる社会」への転換をはかる。

 

(2)「勧善懲悪」⇒「痛みの分かちあい」

 嫉妬の情から富裕屑や大企業をねらい撃ちにし、税負担を彼らに押しつけるだけでは、公平な社会は実現しない。消費税をつうじて所得の少ない人たちも負担するからこそ、貧困者は救済の対象から権利を行使する主体にかわる。同時に、彼らが税を負担する社会では、不労所得によってうるおっている富裕者にも応分の負担をもとめる権利を持つ。また、教育投資をつうじて技術開発や労働者の質の向上を実現し、その恩恵にあずかる企業に応分の負批をもとめる権利も持つ。痛みの分かちあいによって、税を取られるものから、連帯のの象徴へとかえていく。

 

(3)「官対民」から「公・共・私のベストミックス」へ

 危機の時代に対立をあおりたてることは、社会的に多くの損失を生む。むしろ21世紀はニーズのための総力戦の時代となる。政府は税をつうじて公的な財政責任をはたす一方、地域のなかに存在するさまざまな主体・担い手と連携しながら、地域課題の解決にのりだす。そのさいそれぞれの主体・担い手をつなぎあわせる「接着剤」のような役割をはたす「ソーシャルワーカー」の活用が不可欠である。ライフ・セキュリティの先にある、「よりよい生」を追い求める自由をすべての人たちが手にできなければならない。

 

(4)「経済の効率化」⇒「社会の効率化」

 経済の効率性を唯一の基準であるかのごとくさけび、規制緩和や支出削減で政府を切りきざみながら財政再建や経済成長を実現しようとするモデルは終わりをつげる。ライフ・セキュリティをつうじて痛税感をやわらげ、財政債権に不可欠な増税の実現可能性を高める。さらには、社会的分断を阻止し、行政サービスの質を高め、疑心暗鬼を相互信頼にかえていく。以上をつうじて、課題を自ら効率的に修復する自治能力、社会の効率性を高めていく

 

(5)「欲望の経済」⇒「人問の顔をした経済」

経済成長を自己目的化し、その実現のために、人間に非人間的な労働を強いることを僕たちはみとめない。互酬と再分配という経済の基本機能を再構築することで、経済成長に依存した社会を終わらせる。将来不安から人びとを解きはなつことで、片痛に満ちた労働から人びとは自由になる。経済は人間を幸福にするための「目的」から「手段」のひとつへとすがたをかえる一方、金融機関に塩づけになっている資金を税をつうじて引きだし、サービス給付にもちいることで、結果的に経済の成長トレントを底あげする。

(以上)

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欲望の経済を終わらせる①

2023年02月25日 | 現代の病理

来年、ビハーラ全国集会で慶應大の井出英策先生をゲストとするとのことで、図書館から『欲望の経済を終わらせる』(2020/6/5・井出英策著)を借りてきました。

 

承認欲求と自由

 人間の基礎的な生存・生活保障、そして「よりよい心」を追いもとめる自由、これらが形づくる「頼りあえる社会」のベースにあるのは、人間である以上は、すべての人が他行から承認されたと感じられなければならないという信念である。

 政治哲学者アクセル・ホネット(1945~)は、人間の「承認欲求」を3つの領域に分類した。『アクセル・ホネット承認をめぐる闘争』)。

 ひとつめは、「愛」「ケア」の領域である。この領城では、家族や友人の関係にみられるように、おたがいの欲求やニーズをみとめあい、たがいが依存しあうなかで、それぞれが個別のニーズを持った存在として承認されなければならない。

 ふたつめは、「法」の領域である。すべての個人が法のもとで平等にあつかわれ、他者と同じように責任能力を持つことで、自分を道徳的に責任ある自由な人格とみなせるようになる。不当な差別を受けていないということは、他者からの承認の前提となる。

 3つめは、「連帯」の領域である。この領域では、業績や能力を他者から評価され、自分が社会的に価値を持つと感じることのできる経験とかかわっている。相互の評価は、他者にたいする感受性をはぐくみ、他者のうったえを受けとめる寛容さ、いわば連帯の土台となる。

 繰りかえし論じてきたように、「頼りあえる社会」では、財政を起点として、社会の報酬や再分配の関係をつくりかえる。人びとの共通のニーズ、そして個別の「こまりごと」を「ケア=気にかける」ことのできる社会をめざす。

 また、人間を徹底してひとしく取りあつかう。たとえ低所得者であれ納税という社会的責任をはたし、一方、ライフ・セキュリテイをつうじて、救済される領城を最小化しつつ、品位ある命の保障でこれを補完し、だれもが誇りを持って人間らしく生きていく権利をみとめる。

 以卜は、公正な競争の土台をつくり、他者からの正当な評価を手にいれるための出発点となる。つまり、「頼りあえる社会」がめざすのは、承認欲求を満たしあう社会、おたがいがおたがいの存在を認めあう社会なのである、 むろん、「汗をかいた人が報われる」ことは大切である、それを否定する必要はいっさいない。だが僕たちは、「人びとがともに汗をかく」領域を切りひらき、人間が自由に生きていくための条件を考える。「汗をかこうにもかくことのできない人たち」への想像力と、人ひとりの幸福の調和--いわば、社会全体の幸福と個人の幸福の一致こそが、「頼りあえる社会」のめざすゴールである。

 政治哲学者アンナ・アーレント(1906~1975)はこう述べた。

 

 

 「自由であるためには、人は、生命の必要から自ら自身を解放していなければならない、しかし、自由であるという状態は解放の作用から自動的に帰結するものではない。自由は、たんなる解放に加えて、同じ状態にいる他行と共にあることを必要とし、さらに、他者と出会うための共通の公的空問、いいかえれば、自由人誰もが言葉と行ないによって立ち現われうる政治的に組織された世界を必要とした」(アンナ・アーレント『過去と未来の間』)

 

 生きる、くらすための「必要(ニーズ)」から人問を解放する、そして、運や不運が生きかた、命のありかた、そして「欲望の経済」での勝者を決定する「経済の時代」を終わらせ、だれもが人間らしく生きる権利を手にいれる。自治の力をはぐくみ、人と人とがつながりあい、ケアしあう「頼りあえる社会」は民主主義がつくりだしものであるのと同時に、民主主義夫を形づくる財政や自治のありかたを変え、連帯の土台をはぐくむための社会構想なのである。

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利己的な遺伝子

2023年02月24日 | 現代の病理

物行動学者リチャード・ドーキンスの、『利己的な遺伝子(The Selfish Gene)』(1976)、『生物個体は、利己的な遺伝子を永続的に継承させていく“遺伝子の乗り物”であり、遺伝子保存を究極目的として盲目的な行動をとるプログラムされたロボットである』、古い本ですが一応、借りてきました。少しだけ転載しておきます。

 

 動他物は多細胞体に進化し、あらゆる細胞に全遺伝子の完全なコピーが配分された。いつ、なぜ、独立に何度、このようなことが起ったのかはわからない。ある人々はコロニーにたとえて、体を細胞のコロニーだという。私は体を遺伝子のコロニー、細胞を遺伝子の化学工場として都合のよい作用単位、と考えたい。

 

 

 あるものが、友のために生命を捨てることが利他的であることはあきらかだが、友のためにわずかな危険をおかすこともやはり利他的である。多くの小鳥は夕力のような捕食煮か飛んでいるのをみると、特徴的な「警戒声」を発し、それにょって群全体が適当な逃避行動をとる。警戒声をあげる鳥は捕食者の注意を自分にひきつけるので、ことさら身を危険にさらしているという間接的な証拠かおる。それは仲間より多少危険が増すということにすぎないのだが、やはりこれは、すくなくとも一見した限りではわれわれの定義による利他的行為に含められるようにみえる。

 動物の利他的行動のなかでもっともふつうに、もっとも顕著にみられるのが、親、とくに母親の子に対する行動である。彼らは巣の中か自分の体内で卵を加えし、多大な犠牲を払って子に食物を与え、大きな危険に身をさらして捕食者から子をまもる。一例をあげると、多くの地上営巣性の鳥はキツネのような捕食者が近づいてきたときに、いわゆる「擬傷」デ″イスプレイをおこなう。親鳥は片方の翼が折れているかのようなしぐさで巣から離れるのである。捕食者は捕えやすそうな獲物に気づいて、おびきよせられ、雛のいる巣から離れる。最後に親鳥はこのしばいをやめ、空中に舞いあがってキツネの顎から逃がれる。この親鳥はたぶん自分の雛の生命を救ったであろうが、そのために自分自身をかなりの危険にされしている。(以上)

 

個体の行動は、その個体の中にある遺伝子によって支配されている。ある利他的行動が集団の中で増えるということはその行動を支配する遺伝子が増えたことを意味する。ここでいう遺伝子とは、個々のDNA片のすべてのコピーのことである。遺伝子の目的は、自分のコピーを遺伝子プール内に増やすことであり、遺伝子は他の個体を助けることによって、その個体の中にある自分のコピーを助けることが出来る。これは、個体のレベルで見れば利他的行動だろうが、実質的には遺伝子による利己的行動である。(以上)

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