仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

僧侶派遣サービス

2023年06月30日 | セレモニー
『産経新聞』(2023.6.30朝刊)に<法人買収「即席僧」派遣―葬儀会社主導ビジネス>という記事が出ていました。

東京近郊の葬儀会社の一室に低い声が滔々と響く。「ハンニャーハーラーミーターシンギョウ・」。カセットテープに録音された般若心経を聞きながら読経の練習に励む男性ら。多くは、葬儀会社の広告に応募し1週間ほど、修行しただけの「即席僧侶」だ。大手宗派が認める僧侶の資格はない。どこの宗派にも属さない「単立宗教法人」の認定僧侶として、各地の葬儀などに派遣される。
 最初は先輩僧侶について回るが、じきに一人で読経するようになる。葬儀が終われば依頼者からお布施を受け取り、そそくさと現場を立ち去る。「ボロを出すな」と葬儀会社から厳命されているからだ。
 「彼ら『えせ僧侶』の頭にあるのはいかにお金を楽に稼ぐか。一般人にお経の違いは分からないと高をくくっている」。こう語るのは関東圈に住む僧侶、加藤泰明さん(65)―仮名。大手宗派の僧籍を持つが、この単立宗教法人の寺院に一時所属し、葬儀や法事などに派遣された経験がある。
 この法人は宗派から離脱後、葬儀会社に脱法的に買収されたといい、今も支配下にある。宗派の系統を名乗りつつ、独自プログラムで僧侶を育成する。彼らは本山の歴史を語れなければ、読経もおぼつかない。
塔婆や位牌の書き方も乱雑で、加藤さんは「メジャーリーガーと草野球くらいレバが違う」と語る。
  お布施中抜き
「葬儀・葬式のお布施は5万円ボッキリ(戒名料も込み)」
 近年、テレビCMやネッ卜広告などで散見されるようになった「僧侶派遣サービス」。定額のお布施で僧侶を呼べるサービスとして浸透している。宗教離れが顕在化する中、葬儀や法事を依頼する先祖代々の「菩提寺」を持たない人たちのニーズと合致した。
 僧侶派遣サービスの展開業者は全国で数十社以上。買収した宗教法人を利用し、僧侶が受け取るべきお布施を巡り不透明なやり取りをする業者も一部ある。
 前出の葬儀会社もこの一つ。会社は取材に「付き合いのある寺(宗教法人)の僧侶に、葬儀や法要を担当してもらっているだけ」と主張するが、実際は宗教法人と葬儀会社の役員が一部重複。「付き合い」程度の関係には見受けられない。
 所属するのは即席僧侶だけではない。加藤さんのように僧籍を持ちながら檀家が減り、生活が苦しくなった寺の住職も多いという。
 加藤さんの場合、報酬は月給十数万円のほか、お布施の一部が出来高払いされるだけだった。現場で数万円以上のお布施を受け取りながら、宗教法人から渡されるのは法事なら1回約5千円、葬儀なら1回約1万円だったという。
 加藤さんは「(お布施の残りは)紹介手数料として宗教法人に中抜きされていた」と証言。これに対し、葬儀会社は「法人が決まった給料を僧侶に支払っただけだ」と真っ向否定する。

  「信仰心ない」
 関係者によると、東京のある葬儀会社が運営する僧侶派遣サービスでは、告別式と火葬のみの「1日葬」の場合、お布施が定額で約20万円。僧侶の取り分は約4万円だが、配分は依頼者に明かされない。
 日蓮宗僧侶で弁護士の長谷川正浩氏は「依頼者はお坊さんに葬儀のお礼としてお布施を渡していると思っているが、中抜きの実態を知れば違和感を抱く人が多いのではないか」と語る。
 加藤さんがこうしたサービスで感じたのは国民の宗教離れ、僧侶たちの苦境、そして売買された宗教法人などを利用した「ビジネスありき」の姿勢だ。自身は喪主や故人への申し訳なさがら半年ほどで辞めたが、苦渋の表情で語る。 
 「全ては金もうけのためだった。宗教心も信仰心も何もない」(以上)
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日本社会の家族的構成

2023年06月29日 | 日記
『日本社会の家族的構成』 (岩波現代文庫・2000/3/16・川島武宣著)、この本の第1刷は1948年です。日本の家族論領域での人文・社会研究による論文数本を一冊にまとめたものです。原稿で、孫引き引用と思っていましたが、一応、原書を借りてきました。引用したい部分のみ転載します。原稿の内容は、浄土真宗のみ教えは多様性の尊重ですが、教団を支える門徒制度によっている。門徒制度は「家」制度を背景としていて、多様性の尊重とは、真逆の考えたかであるといったものです。


 「家」は次のような意識(信念体系・価値体系)によって支えられている。第一に、血統連続に対する強い尊重- 特に旧武土居においては、父系血統に対する強い尊重、女性の蔑視、および祖先と子孫が一体であるという信念。第二に、その結果、多産の尊重、子を生まない妻の蔑視。第三に、祖先の尊重。第四に伝統の尊重。第五に、個人に対する「家」の優位。第六に、家の外部においては個人をその属する家(特に「冢格」)によって位置づけること(「毛なみ」の尊重)。--しかし、それらの諸点についでの意識の強弱は、必ずしも一様ではない。
 家という集団の大きさは固定しておらず、核家族のみでなく、ある場合には本家・分家を含む同族集団、また或る場合にはその中の親家族・子家族の集団が、「家」として意識されている。現実の社会集団としての「家」を定着することの困難の一つけ、この点にある。

*『イデオロギーとしての家族制度』『世界』115号(1955年)岩波書店、一九五七年。川島武宜著作集い第一〇巻。
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限界状況②

2023年06月28日 | 苦しみは成長のとびら
『哲学入門』(新潮文庫・草柳正夫訳・昭和29年発行)から子少し転載します。

 挫折め経験と自己となることの経験 
 これらの限界状況‐死・偶然・罪・世界が頼りにならないこと―-は私に挫折を示すものであります。私がこれらの限界状況を正直に見るかぎり、私はこの絶対的な挫折を認めないわけにはいかないのでありますが、それではこのような絶対的な挫折に当面して、私はどうすればよいのでありましょうか。

 限界状況のうちには、無が現われるか、それともあらゆる消滅する世界存在に抗し、それを超越して、本来的に存在するものが感得されるようになるか、のいずれかであります。絶望でさえも、それが世界内で可能であるという事実によって、世界を超え出ることの指示者となるのであります。
 換言しますと、人間は救済を求める。ところで救済は多くの一般的な宗教によって提供せられるのであります。宗教の特徴とする点は、救済の真理性と現実性に対する客観的な保証にあるのであります。宗教の道は個々人の回心という行為へ通じている。しかし哲学はそういうものを与えることはできない。それにもかかわらず、あらゆる「哲学すること」は一種の現世の超克であり、救済の一類比物なのであります。
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限界状況

2023年06月27日 | 苦しみは成長のとびら
依頼された原稿で、下記の文言を転載してかこ書こうと思った。

哲学用語で「限界状況」という語がある。ドイツの哲学者カール・ヤスパースの用いた哲学概念だ。『哲学入門』(1950)では、死、苦悩、争い、偶然、罪などが限界状況として考えられ、これら限界状況の経験はわれわれを絶望のなかに突き落とすが、しかしわれわれは絶望に直面したときに初めて真の自分となることができる」とある。私たちは希望に支えられて生きている。しか希望は、許された時間の中に成立する。死は、希望を向って生きる事が許されない時だ。この希望のむかって生きる生き方を、どう断念するか。ここに絶望の果たす役割がある。(以上)


ヤスパースの『哲学入門』(1950)内容は、ネットの哲学事典からの引用でした。やはり翻訳でも原文を押さえて置いた方が良いと思い『哲学入門』(新潮文庫・草柳正夫訳・昭和29年発行)を購入してきました。昨日、午前中、京都で会議があったので、新幹線の中で読みましたが、やはり翻訳者によって、訳し方が違うので、上記の文面はありませんでした。似た表現の所を転載しておきます。

私たちは常にいろいろな状況のうちに生きているのであります。これらの状況は変化し、いろいろな機会が現われてきます。これらの機会はそれをこらえそこかうと二度とやってこない。私は自ら努めて状況を変化させることができます。しかし私は死なねばならないとか、私は悩まねばならないとか、私は戦わねばならないとか、私は偶然の手に委ねられているとか、私は不可避的に罪に巻きこまれているなどというように、いたとえ状況の一時的な現象が変化したり、状況の圧力が表面に現われなかったりすることがあっても、その本質においては変化しかいところの状況というものが存在します。私たちはこのような私たちの現存在の状況を限界状況(Grenzsituation)と呼んでいるのであります。すなわちそれは私たちが越え出ることもできないし、変化さすこともできない状況が存在するということであって、これらの限界状況はかの驚きや懐についで、哲学のいっそう深い根源なのであります。私たちはあたかもこれら限界状況が存在しないかのように、目を閉じて生活することによって、これら限界状況から逃避して、単なる現存在の状態において生きるという場合がしばしばあるのです。私たちは、自分が死なねばならないということを忘れる。自分が罪を負っていること、偶然の手に委ねられているということを忘れる。そこで私たちは自分の現存在的関係から駆り立てられ、具体的な状況にのみかかおりあって、それらを自分のために支配したり、世界内において計画や行動によってそれに反応的に対処したりするのです。しかし私たちが限界状況に対していかなる態度をとるかといえば、それはこの限界状況を糊塗(こと)するか、あるいは私たちが限界状況を本当に把握するかぎり、絶望と回生によってそれに対処するかの、いずれかであります。後者の場合私たちは、自分の存在意識を変革することによって自分自身になるのであります。(以上)
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仏さまはさびしいの。

2023年06月26日 | 浄土真宗とは?
24日の「ちひろコンサート」で、金子みすゞさんの下記の歌について。言及していました。

さびしいとき

私がさびしいときに、
よその人は知らないの。

私がさびしいときに、
お友だちは笑うの。

私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。

私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。(以上)

言及していたというのは「仏さまも」でなく「仏さまは」とあることです。これは法話でも、良く語られるという事でした。
「も」とした場合、文法的な意味は「添加」となり、仏様も私と同じようにさびしい、「〜同様に」という意味になります。
「は」の場合には、ほとけさま「は」、となるので仏さまが「主語」となります。ほとけさまが主語になるとは、ほとけさまが中心となる表現という事でしょうか。
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