仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

念仏でタバコを止めました

2010年09月30日 | 浄土真宗とは?
明日(22.10.1)からタバコの値上がり、ワイドショーでは禁煙やタバコの買いだめの映像が流れている。ワイドショーのキャスターの一人が「明日からタバコを止めます」と宣言していた。

テレビを見ながら“うまいことをやる”と思った。うまいこととは、ミヤザキホスピタルの宮崎さんが会食の席で、次のことを話していたことを思い出したからだ。

タバコを止めるためには、レントゲン写真で肺の現状を見せて、タバコを止めたと周囲に人たちに宣言をする。そして他人にも禁煙を勧めて歩く。人に勧めることによって、自分がまた吸い出すという無責任な行動がとれなくなるのだそうです。

私はその話を聞いた時、新宗教の布教戦略と同じだと思った。信仰を人に勧誘することによって、「自分は止めました」という無責任な行動が取れなくさせる戦略です。

キャスターがテレビ放映で禁煙を宣言することは、かなりの縛りになるはずです。それで「うまいことをやる」と思ったのです。

 私は念仏によってタバコを止めたという経験があります。それは学生の頃、「隠れ念仏」の本を読んでいたときのことです。その本のには、拷問による死の間際、許され念仏を称えて死んで逝った人。海に舟を出し、荒波の中で念仏した逸話。また禁制の中、決死の覚悟で布教伝道した僧の史実などが綴られていました。念仏を申すことが許されない状況の中で念仏を称え続けた人たちの記録です。

その史実に接していたら、自由に念仏を称えることの出来る有り難さがこみ上げてきました。浄土真宗の念仏は、念仏として私に届けられている阿弥陀如来の慈しみに触れる営みです。その念仏を称えることを禁じられたのです。念仏を申せずに必死に耐え忍んだ人たちの苦渋は想像を絶します。

 その途端ふと、タバコの煙を出すことを我慢する事のたわいのなさ思われました。それから1,2ヶ月は、タバコのことが思いにかかると、念仏を申すことの喜びを噛みしめて過ごしました。そしたらいつの間には禁煙という思いのないまま、タバコから解放されていたのです。

上記の信仰体験は、その後、6年くらい、人に語ることができませんでした。その事実は、あまりにももったいなく、私に口で人に言うと、煩悩の汚れが付くようで、語ること自体が恥ずかしく思われたからです。

その体験は、拙著『親鸞物語―泥中の蓮花―』の中で、聖人の妻恵信尼さまの体験として、ダブらせています。

恵信尼さまは、常陸に入り下妻の境の郷という在所で筑前は夜中に夢を見ます。長くなりますが小説の中から引いて見ましょう。

その夢は、厳かに堂供養が行われている堂前の鳥居の横木に、二幅の絵像本尊が掛けられていた。一幅の尊形は明らかに拝せられたが、もう一幅は、ただ金色に輝いて尊容が分からなかった。傍の参詣の者に、「あの光り輝いている方はいかなる仏にござりましょう」と訊ねると、「あの光ばかりであられるのは勢至菩薩で、今日の源空上人にござります」と言う。「では、もう一幅の尊形は」と問うと、「大悲観世音菩薩で、あれこそが善信の御房、親鸞聖人にござる」と告げられたところで目がさめた。

 翌朝、筑前はその夢を夫に告げた。
「夜前(ようべ)、わらわは夢を見ました。堂供養が行われている鳥居の横木に、ただ金色に輝く尊容が分からない絵像のご本尊が掛けられていましたので、参詣の者に〝あの光り輝いている方は何仏でござりましょう〟とお訊ね申しますと〝あの光ばかりであられるのは勢至菩薩で、今の源空上人でありまする〟とのことにござりました」

親鸞は、妻の夢の話を頷きながら聞いていたが、筑前が話し終わると、嬉しそうに言った。
「夢には色々あるが、それは正夢でござる。法然殿は勢至菩薩のご化身に間違いござらぬ」
「あな尊し…」
筑前は、次の言葉を呑んだ。
筑前は、夫が観世音菩薩の化身であるとのお告げは、あまりにも尊くすぎて口にすることができなかった。その尊い夢のお告げを口に出してしまうと凡夫の手垢がつくような恥ずかしさを覚えた。尊いことは尊いままにしておきたいと思った。(以上)

私も先の禁煙の話を人に話してしまうと「凡夫の手垢がつくような恥ずかしさを覚えた」のです。
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日本政府よ、大きな物語をもて

2010年09月29日 | 日記
産経新聞一面に「ひなちゃんの日常」というマンガが掲載されている。今日(22.9.29)の
マンガは6コマで次のようなものです。

① コマ
子どもが子どもから「よこせ」とボールを奪われます。
② コマ
取られた子どもは「ゲンくん…」と小さな声でつぶきます。
③ コマ
それを見ていた女の子がが「かえしてっていえないの?」と大声で言います
④ コマ
そこにひなちゃんが現れ「いわなきゃダメです」というと、先の女の子が「ねー」と反応します
⑤ コマ
ひなちゃんが「わるいことをするとオニがくるって」という
⑥ コマ
続いて「おしえてあげないとゲンくんがたべられちゃいます」という

意味深なマンガです。題材は大阪地検の騒動か尖閣諸島の問題か、どちらでも物語になり得ます。

私は、尖閣諸島の日本の対応について思いを馳せました。男の子がはっきりと主張することは、ボールを奪った子が不幸にならないためである。その部分が中国への対応とダブりました。


中国に対して毅然としてものを言う。それは日本の利益と言うよりも世界の秩序を守るためであり、中国が自らの驕慢ゆえに世界から孤立する難に陥ることを防ぐためということです。日本の利益と言うよりも、より大きな理想を持つことの大切さを読みとりました。

日本は自己の利益だけでなく、大きな物語をもって諸外国と対応する。そうした視座を持つべきです。
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タバコの値上げ

2010年09月28日 | 日記
柏駅前はダブルデッキという2層のターミナル広場になっている。そのデッキ広場を歩いていると「柏駅のスモーキングスポットはすべて廃止されました」という放送が聞こえてきた。駅前広場にあった喫煙所が廃止され、すべて禁煙となったということです。

この10月1日からタバコ料金が値上がると話題にもなっている。片や“吸うな”といい、片や“税金を徴収する”という。税金の対象とするならば喫煙所くらい設けて権利を守ってあげるべきだとおもう。ちなみに私はタバコを吸わない。もっぱら吸うのは線香です。

極端なはなし泥棒を戒めておいて、その泥棒から税金を取るようなものだ。「小利をむさぼって大利を失う」とういうことわざがあるが、潔癖に偏り過ぎの危惧を持つ。吸うことを許し税金を取るならば、それなりの処置が必要だと思う。

何かこれはタバコだけの問題ではなく、1つの正義にみんなして偏(かた)る日本人の性癖を感じる。もっとダイナミックに少しの悪くらいなら許容するゆとりが欲しい。
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あるべき国の姿を示せ

2010年09月27日 | 日記
坊守いわく「中国って、人の弱みに付け込んで要求を高めていくやくざのようだ」。言えてると思った。尖閣諸島の問題で、中国と日本が対立している問題です。

それにしても日本の対応は、その場しのぎでアマチュアの政治指導を見ているようで心もとない。

サイコセラピー(心理療法)という分野がある。目標は日常生活への適応です。日本の政治も、現実への適応を目標とするばかりで、政略や、戦略の大本になる国家目標が欠落している。その先は、私も国家戦略を描ける力量を持ち合わせていないので言葉をもたない。

心理療法と仏教との基本的な相違は、心理療法は日常生活への適応を目標としているのに対して、仏教は私が私であることに満足する、ま逆の表現をとると、私が私であると受け入れる阻害要因(自我)から解放されることを重要視しています。

“私が私であることを知る”ってややこしい表現です。カウンセリングなどでも、相手を理解する前提として“自己理解”が要求される。この自己理解の手段として簡単に用いられるものに交流分析というものがある。面白いのは、相手(私)のしぐさから、相手(私)の状態を知ることができることです。

いま手にしている『電話相談の実際』(双文社刊)より転載してみます。

交流分析を簡単に言えば、自我のありようを

父性的自我・・・・対人関係における厳しさを示す
母性的自我・・  対入関係における優しさを示す
理性的自我・・・・対人関係における合理的対応を示す
幼児的自我・・・・対人関係における自己主張を示す
抑制的自我    対人関係における配慮性を示す

そして「父性的自我」ならば、

言語的診断―●~すべきである●~する義務がある●~しなければいけない●~してはいけな い●当然でしょう●だめねえ

行動的診断―●拳で机をたたく●人を鼻であしら う●相手をさえぎって、自分の言葉をはさむ●押しつけ調で話す●額にしわをよせた厳しい顔つき

社会的診断―●相手の挨拶に応えない●意見を異にする人を排斥する●ことさら相手のミスを指摘する●特別扱いを要求する●相手の従順さをたたえる

生活史的診断―私の几帳面さは 父から受けついだものです●これは父がよく使った言葉です●これは私の家のやり方で、変えるつもりはありません

とあります。まるで今の中国です。交流分析は、上記の5パターンについて分析してその人(私)の自我の状態を見ていきます。この交流分析は、国についても適応できるようにも思われます。


母性的自我にはー

言語的診断―●~してあげよう●よくできたよ●あなたの気持ちわかるわ●可哀そうに●まかせておきなさい●がんばりましよう
行動的診断―●背中をさする●手を差しのべる●気配りがゆきとどく●抱いてあげる●握手で相手を迎える●愛撫する
社会的診断―●相手の世話をやく●ゆっくり相手の話に耳を傾ける●泣く相手ににティッシユ・ペーパーをさし出す●相手の面子をつぶさぬ形で忠告する
生活史的診断―●頼まれたら断れないのが、私のたちなのです●私のこんなところは母とよく似ています●そんな冷たい態度は私にはとても取れません

とあります。なんだか日本の国の現状をいっているようです。

国際関係でも、まずは“自己理解”を明らかにすべきでしょう。そして欠けている部分を直視して外交に当たっていただきたい。

日本は経済的利益に重きを置きすぎている観があります。経済重視の現実、はたしてそれでいいのかといった目標設定の再検討、そして新しい国のかたちを明らかにすべきでしょう。

仏教徒は仏教徒で、同様に国のあるべき姿を発言する責任もあります。こうした提言も1つの果たすべき役割でしょう。
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女子も騎馬戦

2010年09月26日 | 日記
早朝、月命日に出勤すると「今日は小学校の運動会」だという。6年の女子の子が騎馬戦にでるという。「えー、女子も騎馬戦があるの」と聞くの、昨年までなかったが今年からだという。ジェンダーフリー(性による社会的、文化的差別をなくすこと)の考えが小学校まで浸透してきたと思った。

そう言えば昨夜、夜の研修会の講義で目黒区まで行き、仕事を終えて柏駅に着き、駅周辺を歩いていると、立ち食い飲み屋が数件あった。中を見ると若い女子が数組盛り上がっていた。草食系男子と考え合わせると、女子が強くなってきたことは事実だろう。

昨日午後、市民ホールで地区の真宗寺院が主催する仏教講演会、中身は企画、司会、挨拶まで、みな門信徒の手による講演会です。講師はお東の近田昭師、迫力のある講演でした。

話しの中で、いつも帰敬式を受けた方へ話すと、次のような話をしてくれた。

あなたたちは今日から念仏学校の一年生、今までは墓参や法事など真宗とのご縁はあったが、学校の校庭にいた。しかしこの度は、学校に入学して校庭から校舎に入った。校舎に入ると何が違うか。今まで見ていた景気が違ってくる。今までは校庭から校舎を眺めていた。これからは校舎から校庭を眺める。…浄土がわかるとは娑婆の事がよくわかることです。仏さまの事がわかるとは、経典に「値遇」(ちぐう)とあるが、正札通りの自分にであうことです。(意趣)

講演会が終わってから20人ぐらいの門信徒で、いつものように勝ち戦の祝杯です。私は残念ながら夜の研修会で目黒区へ。
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