仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

液状化した現代③

2022年01月31日 | 現代の病理

『幸福論――“生きづらい”時代の社会学』(2009/10/31・バウマン著)に掲載されている社会学者の山田昌弘氏が解説の続きです。

 

 

 このような視点で本書を読むと、各所にギデンスの楽観論に対する対抗意識が見え隠れする。本書の原題になっている「人生の技法」もそうである。近代社会になってアイデンティティを「作品」のように自分で構築しなくてはならなくなったことを述べたのはギデンスであり、それを従来の強制的に与えられたアイデンティティからの解放というプラスの側面として描く。それに対し、バウマンは、自分で「人生という作品」を構築しなければならない側面として強調する。それも、職業的アイデンティティにしろ、家族的アイデンティティにしろ、一度構築したら安定的に存続できた固体的近代の時代なら、’著名なアメリカの心理学者エリクソンが言うようなI回きりの青春時代の危機ですむ。しかし、液状化している近代・では、アイデンティティは作ったそばから解体される運命にある。それでも、人は、アイデンティティを作り続けなくてはならない。まるで、地獄の石積みの苦行のようである。

 このように、制度的束縛から解放された愛情、自分で構築できるアイデンティティなど、近代において当然のように賞賛される価値(多分、ギデンスによっても肯定される価値)が、近代に生きる人々に、いかに苦難を生み出すかを明らかにしていくのが、バウマンの特徴である。

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液状化した現代②

2022年01月30日 | 現代の病理

『幸福論――“生きづらい”時代の社会学』(2009/10/31・バウマン著)には、社会学者の山田昌弘氏が解説の文を寄せている。その解説からの転載です。

 

 さて、私も社会学者ではあるけれども、バウマンの名を知ったのは、やはり『リキッド・モダニティ』の翻訳以後であった。社会科学の領域では、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンス、スコット・ラッシュが近代社会の構造転換、つまり、近代社会が深化して、近年新しいステージに入ったとする議論が盛んである。ここでは、便宜的に構造転換する前の近代を近代I、構造転換以降を近代・としておく。各論者とも、近代Iの相対的に安定した社会が変質し、不安定な時代が到来していること、その転換時期が先進国では一九八〇年ごろから始まること、そして、近代・の社会は、近代社会とは全く異なった社会ができているのではなく、むしろ、近代社会の原理原則が貫徹した結果形成された社会であること、つまり、近代の深化した形であることなどが共通した見解としてあげられよう。近代・の社会を特徴づけるタームが、ベックの「リスク社会」、ギデンスの「再帰的近代」であり、そして、バウマンの「リキッド・モダニテイ」なのである。

 

 

ギデンス、ペック、バウマンと、多くの著作を著し社会学理論をリードする大家を三人並べて比較すると、興味深いことに気づく。三人とも、近代社会が構造転換しているという認識で一致し、それが、科学技術の発達、グローバル化、リスク化、個人化、流体化といった近代の原理原則が貫徹している結果生じたという原因論でもほぼ。致し、その結果、近代Iでは考えられなかったさまざまな社会的問題が生じていることでも一致している。職業や家族が不安定となり、規範やアイデンティティや愛情も確圃としたものではなくなっているという見解も同じくする。。

 しかし、その評価となると、三者三様なのである。ギデンスは極めて楽観的で、新しい時代は人間の解放の時代である、と肯定的に評価する。ベックは両義的に見える。そして、バウマンは、最も悲観的である。諦観的といったほうがよいかもしれない。

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液状化した現代➀

2022年01月29日 | 現代の病理

『リキッド・モダニティ―液状化する社会』(2001/6・ジグムント・バウマン著)、『幸福論――“生きづらい”時代の社会学』(2009/10/31・バウマン著)、『リキッド・モダニティを読みとく: 液状化した現代世界からの44通の手紙 』(2014/3/10・バウマン著)、『リキッド・ライフ―現代における生の諸相』(2008/1/1・ジグムント・バウマン著),いつれもバウマンの本ですが、借りてきて飛ばし読みでしたが、どれも読みずらい本でした。

 

バウマンは1925年ポーランド出身のユダヤ人で、ホロコースト論『近代とホロコースト』で注目された社会学者です。欧州では、結婚一つとっても、こうあるべきという一つの固まった形がなくなりつつあます。一つの固まった形がある。これを「ソリッド・モダニティ」というようです。たとえば企業の終身雇用に象徴される「みんながより豊かな生活を実現できる」ことが信じられた社会です。一方、「リキッド・モダニティ」とは、既存の秩序がどんどんなし崩し的に解体していった先にある不確実な社会のことです。日本でも、多様性がもてはやされ男女一つとっても液状化しつつあるように思われます。

近代化以降現代までを、前期近代と後期近代とにわけるとするならば、バウマンは前者を固定的近代、後者を流動的近代と呼んでいる。その違いが本書では5つの概念(解放、個人、時間/空間、仕事、共同体)との関わりで述べられている。

 

少し転載します。

 

われわれの生きる時代は、同じ近代でも個人、私中心の近代であり、範型と形式をつくる重い任務は個人の双肩にかかり、つくるのに失敗した場合も、責任は個人だけに帰せられる。そして、いま、相互依存の範型と形式が溶解される順番をむかえている。

 

「劇場にでかける人間は、複層のそれなりの決まりにしたがって、普段着を異なる服を着る。こうした行動は劇場にでかけること自体を、「特別な出来事」とするのと同時に、劇場にあつまる観客を、劇場の外にいるときとは比べものにはならない均一な集団に変える。昼間の関心や趣味がどんなに違っていても、人びとは夜の公演になると同じ場所にあつまってくる。観客席に座るまえ、人々は外で着ていたコートやアノラックを劇場のクロークにあずける。公演中、すべての目、全員の注目は部隊にそそがれる。喜びに悲しみ、笑いに沈黙、拍手喝采、賞賛の叫び、驚きに息をのむ状況は、まるで台本に書きこまれ、指示されているかのように一斉におこる。しかし、最後の幕が降りると、観客たちはクロークから預けたものをうけとり、コートを着てそれぞれの日常の役割にもどり、数分後には、数時間まえにでてきた町の雑踏のなかへ消えていくのである。
 クローク型共同体はばらばらな個人の、共通の興味に訴える演目を上演し、一定期間、かれらの関心をつなぎとめておかなければならない。その間、人々の他の関心は一時的に棚上げされ、後回しにされ、あるいは、完全に放棄される。劇場的見世物はつかのまのクローク型共同体を成立させるが、個々の関心を融合し、混ぜあわせ、「集団的関心」に統一するようなことはない。関心はただ集められただけで、新しい特性を獲得することもなく、演目がつくりだす共通の幻想は、公演の興奮がさめると雲散霧消する。

(つづく)

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ことばは自己中心で…

2022年01月28日 | 日記

『よくわかるメタファ― 表現技法しくみ』(瀬戸賢一著)からの引用です。

 

 自己中心的は悪いか

 「自己中心的」ということばは評判が悪く、しばしば「自己チュー」ともいわれる。しかし、道徳面を別にすると、ことばはまぎれもなく自己中心的である。

 ことばが自己中心的でなければ、そもそも「私」という表現が成り立たない。もちろん、「あなた」も意味をなさなくなる。私とは、いま話している本人が自分を指して使うことばである。あなたとは、私かいま話しかけている相手のことである。私とあなたのような表現ほど、ことばの自己中心性をよく示すものはない。

 これ・それ・あれ・どれのようなコソアレも、ことばの自己中心性をよく示す。「そこのところをなんとか」と言って相手にすがりつく。「そこのところ」は、空間的な理解を前提とする。コソアレも、私の認識を度外視しては成り立たない。

 では、時間はどうだろうか。たとえば、「いま」とはどのようなときか。この問いも、やはり私ぬきには考えられない。いまとは、私かこの場にいるときである。過去と未来は、いまを原点としてその前後に位置づけられる。前後とは、「以前」と[今後]であり、「十年前」と「十年後」のように前と後という空間のことばを使う。空間のことばを使って、時間的な位置を示す。(以上)

 

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「母」にまつわる言葉の用法

2022年01月27日 | 日記

『いつもの言葉を哲学する』 (2021/12/13・古田徹也著)から一つ転載します。

 

「母」にまつわる言葉の用法

  ―性差や性認識にかかわる言葉をめぐって

 


(前略)、コンビニ大手のファミリーマートが販売する総菜のシリーズ商品が「お母さん食堂」と銘打たれたことに対して、「食事は母親が担当するものという意識が社会で強化されてしまう」という類いの批判が出たこと1そして、実際に高校生有志が、名称変更を求めるオンライン署名活動を行ったことは記憶に新しい。

 それから、一九五〇年代から続いている「おかあさんといっしよ」というNHKのテレビ番組も、その名前が「育児は母親が担当するもの」という性役割の固定化に一役買っているという指摘は以前から見られる。二〇一三年からは「おとうさんといっしょ」という名前の派生番組が同局で始まり、時代や人々の意識の変化に即している面もあるが、ほぼ毎朝放映されている「おかあさんといっしょ」という番組名自体に変更はない。

 

「毋」のつく熟語をめぐる問題

 ジェンダーバイアス(社会的な性役割についての固定観念)をめぐる問題に関しては、「お母さん」という言葉以外に、「母」というこの一語自体が社会で含みもってきた特定の意味合いも無視できない。

 たとえば、「母語」、「母国」、「母校」といった言葉は、文字通り母体のなかで受精卵が子へと成長して生まれ出てくるという自然的事実や、その後の育児を行う役割を主に母親が担ってきたという社会的事実が基になっていると言える。つまり、言語であれ、国であれ、学校であれ、自分を産み育てた根源や基盤の比喩として「母」が機能しているということだ。そのため、たとえば先の「母語」という言葉を「第一言語」等の言葉に置き換えると、「母語」のもっているいわば「根源的な言語」というニュアンスが希薄になるだろう。すなわち、生まれた後にいつの間にか身についており、以来そこから完全には離れることができず、自分自身をかたちづくる大きな基盤となっているもの、というニュアンスである。(中略)

 

しかし、当該の論文で直後に「今のところ一般的に用いられる適切な代案がない」とも言われているように、「母語」を「親語」に言い換えることは(少なくともいますぐには)不可能だ。なぜなら、先に確認したような「母」という言葉が含みもつ意味合いを、「親」という言葉は歴史的に備えていないからである。また、「母」の比喩的意味が通底している言葉は、「母国」、「母校」、「母語」のほかに、「空母」、「母船」、「母屋」などさまざまなものがある。このように無数の言葉が相互に浸透し、つながり合っているなかで、「母語」という言葉だけ「親語」などに置き換えたとしても。それは不自然で浮いた言葉であり続けるだろ。う。(以下省略)

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