仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

みんな、忙しすぎませんかね

2019年09月30日 | 日記
釈さんの講演会で、『みんな、忙しすぎませんかね?~しんどい時は仏教で考える。』(釈 徹宗・ 笑飯 哲夫・ 2019/8/3)を販売していました。その本の中に、良く聞く話ですが、白隠禅師の話が掲載されていました。


白隠禅師にはこんなエピソードもあります。あるとき白隠禅師のもとに、侍が訪ねてきて「地獄や極楽はあるのでしょうか?」と質問します。白隠禅師は「そんなことが気になるとは、お前はそうとうな腰抜け侍じゃな」と言うんです。侍はものすごく怒って白隠禅師を刀で切ろうとします。まさに刀が振り下ろされようとする瞬間、「それっ!・ そこが地獄じゃ」と白隠禅師は気迫のこもった声で言います。侍は、はっと気づいて、あわてて刀をおさめ、その場に膝をついて「ありがとうございます」とおわびとお礼を述べます。白隠禅師は「それ、そこが極楽じゃ」と、にっこり笑ったそうです。
 このように、現在の社会や自分の心にも地獄を見るわけです。(以上)

それと本の中に『「バチが当たる」のバチは、罰の呉音読みだそうです。仏教用語は、漢音ではなく、呉音で読む場合が多いんですよ。』とありました。家に帰って漢和辞典を引くと、罰の呉音読みは「ボチ」で、バチは罰の慣用音だとありました。慣用音とは、 呉音・漢音・唐音のいずれでもなく、日本で広く使われている漢字音で、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「情緒」の「緒(しょ)」を「ちょ」と読むことです。
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幽霊飴の話

2019年09月29日 | 正しい絶望のすすめ
昨28日は、柏市市民ホールで公開仏教文化講演会でした。ご講師は、釈徹宗先生、テーマは「歌う親鸞聖人」でした。話の中から一つお裾分けです。京都の幽霊飴の話です。

親鸞の荼毘所がある東山の鳥部野は、人を葬る場所で、今よりも広く、その境に「六道之辻」という石塔が京都・東山松原にあります。『幽霊子育飴』と書かれた幽霊の子育て伝説がある「みなとや幽霊子育飴本舗」についての話題です。ネットからの引用(http://kyoto.wakasa.jp/detail/27/967/)も加味して紹介します。

今から412年前の慶長4(1599)年に、鳥辺山(とりべやま)から夜な夜な飴を買いに来る女性が現れました。この女性は、毎回1文ずつ手にして飴を買いに来ていたそうです。ある朝、銭函の中を見てみると、しきみの葉(お墓にお供えする花)が入っていました。不思議に思った店主は、その夜、買いに来た女性の後をつけていったんです。すると、鳥辺山にある墓地の前ですーっと姿を消し、お墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたそうです。翌日、お寺の住職と一緒にお墓を掘ってみると、中から飴をくわえた赤ん坊が出てきました。
その幽霊は赤ん坊をみごもっている時に亡くなり、土葬された女性だったのです。しかし、亡くなったあともお腹の中では子どもがすくすくと成長し、お墓の中で赤ん坊が誕生しました。母親は自分が母乳を与えることができないため、幽霊となってうちに飴を買いに来た。 
赤ん坊はお墓の中から出され、8歳になるまでうちでその飴屋で預かり、8歳で仁和寺近くにある立本寺に引き取られた後、お坊さんになり、立派に68年の生涯を終えた(以上引用)
 
 講演では、そのお坊さんは、「われ称え われ聞くなれど南無阿弥陀仏、 つれてゆくぞの親のよび声」と詠われた原口針水和上の歌の元となった真宗の学僧大厳師であるという伝説があるという話でした。

大厳師は、異安心を疑われ調査のおりに、「罔極(もうごく)の仏恩報謝の情 清晨幽夜ただ称名 歓びにたえたり、われ唱えわれ聴くといえども これはこれ大悲招喚の声」という歌を添えて、自分の思いを原口和尚に伝えたという逸話のある方です。

時代が合いませんが、興味深い話でした。
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僧侶の課題

2019年09月28日 | 現代の病理
本願寺派の宗門から毎月送られてくる『宗報』(2019.9月号)に「第6回六条円卓会議開催報告―寺院・僧侶からの発信を考える」という記事があり、その中に冨金原真慈さんの発言が紹介されていました。

冨金原真慈氏のプロフィール次の通りです。

山陰教区江津組蓮敬寺住職。本願寺派布教使。本堂の隣にカフェを営業。地域の憩いの場として、ニュースなどでも紹介「ニュースシブ5時」(2017年11月26日放送)。カフェでは、「産後ケアのバランスボール」「ワークショップ」「坊主バー」などの他、教区主催の「婚活イベント」や「まちづくり会議」の会場提供など、多様な寺院活動を展開している。(以上)

注目したい発言は次の部分です。

お寺カフェで気づいたことを少しお話しします。カフェの営業をしていますと、常連さんみたいな方ができてくるんです。それで話をしていると、若い方というのは独自の死後の感覚を持っていると感じています。どういうことかと言ったら、べつに浄土に往生しようがしまいがどうでも良いという考え方です。こういった方たちに、どういうふうにアプローチをしていけばいいのかということを考える必要があると思います。
 そして、生き方に迷っておられる方が非常に多いなと思っています。人間関係、あるいは会社、仕事のことで、迷っておられる方がいらっしゃいます。そういった方々が、わざわざお寺のカフェにきて僧侶に相談するということは、やはり僧侶が持つ独自の視点で、自分の悩みに対して、どういうふうに答えてくれるんだろうかというような期待感があるのではないだろうかなと思います。(以上)

平均的な若者の現状でしょう。「べつに浄土に往生しようがしまいがどうでも良いという考え方」「生き方に迷っておられる方が非常に多い」、この2点にどう答えていけるかが、現代僧侶の課題でしょう。
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仏の世界

2019年09月27日 | 仏教とは?
お彼岸が終わりましたが、特段、お彼岸の出勤があるわけではないので、普段と変わらない日常でした。ただ、当寺を含めて4会所で法話をしました。

昨26日は、2会所、昼と夜の法話でした。何回か話した話ですが、頭の部分です。

「彼岸」とは、仏さまの世界のことです。この世界の“界”は、仏教用語で「たもつもの」という意味です。たとえば財界や芸能界といった場合、そうした世界が宇宙空間のどこか特定の場所にあるというわけではありません。財界は、財に対する優れた実績と思いを持った人の集まりということです。私の世界は、私の経験や価値観によって保たれている世界のことです。ですから子どものころの私の世界と、今の私の世界では、同じ私の世界でも、まったく違っています。

古典落語に「目玉違い(めだまちがい)」という演目があります。こんなストーリーです。
男が両目をわずらい、友人から紹介を受けて医院に駆け込む。すると医師は「これは手遅れだ」といい、男に皿を渡して目の下で持っておくよう指示をする。男が「目玉を洗うのですか」と訊くと、医師は「くり抜きます」と告げ、男は驚く。医師はすばやく男の眼球を顔から引っこ抜き、助手の小僧に「薬液に浸けておくように」と指示をする。その後、医師は男の眼球を元どおりにはめ込もうとするが、うまくいかない。医師は「液に浸けすぎて、ふやけてしまったようだ。少し縁側に出して、陰干しにしておきましょう」といい、助手に運ばせる。しばらくすると小僧が医師を縁側へ呼び、「目が見えなくなりました」と告げる。「お前もか、すぐに治してやる」「いえ、そうではなくて、干していた目玉がどこかへ行ってしまったのです」。ふたりが庭先を見ると、隣家の飼い犬が舌なめずりをしながら体を横たえている。医師は「犬が目玉を食ってしまったようだ。しかたがない、こいつで間に合わせよう」と言って、犬を取り押さえ、その目玉を引っこ抜いて、診察室で待つ男の元へ持って行き、何食わぬ顔ではめ込む。「今日は帰って安静にして、1日おいて、あさってまた来なさい」と。2日後、医院を再訪した男は「今までの目玉より、はるか遠くが見えます。夜でも昼のように明るく見えます」と経過を喜ぶ。医師は「それは良かった」と応じつつ、胸をなで下ろす。しかし男は、「でも、ひとつ困ったことが起こるのです」と。「それは何?」「電柱を見ると小便をしたくなるんですよ」。
 犬に見える光景は、犬の認識によって保たれている世界なので「電柱を見ると…」となります。

さてお彼岸の話ですが、「彼岸」は、仏さまのおさとりの認識によって開かれていく世界のことです。お彼岸という時節は、彼岸があるか、ないかではなく、仏さまに見えているお覚りの世界を聞かせていただくことが大切です。(以上)


 

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苦しみに寄り添う

2019年09月26日 | 現代の病理
宗教業界新聞『中外日報』に「いのちの現場から」という企画シリーズがあります。2019.9.20日号に「自死相談センター①」の記事が出ていました。中外日報のホームページに全分掲載されているので、内容はそちらに譲りますが、その記事の中に、相談員のコメントが出ていました。

全分は下記で見てください。
https://www.chugainippoh.co.jp/article/rensai/muen/20190920.html


和歌山県橋本市、浄土真宗本願寺派教善寺の中田三恵住職(44)は、故人を偲び、そう言う。京都自死・自殺相談センターに所属して自死念慮者や遺族の支援を続ける。
中田住職も含め自死問題に取り組む宗教者の多くは、相手に「死んでほしくはない」との気持ちを持ちながらも、必ずしも「自死防止」だけを目的としないという。「本当は生きたいのに死にたくなるほどの苦悩と孤独。その苦しみに向き合い、最終的には本人がどの道を選んだとしてもその気持ちにとことん寄り添うのです」(以上)

“最終的には本人がどの道を選んだとしてもその気持ちにとことん寄り添うのです”という思いに辿り着くまで、相談を受けながら自死を選んで行かれた苦渋の体験があったことでしょう。死んでいく人の苦しみに寄り添うという事は、そういうことなのでしょう。
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