仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

小朝の落語

2023年10月31日 | 日記
小朝の落語で面白いのがありました。

あるとき東宮御所のなかで蛇がニョロニョロはっていた。侍従が浩宮様に「蛇ですよ。あぶなかから近寄らないで」と、これを陛下がご覧になっていて、学者として先入観でも物を判断することを嫌うそうで「浜尾さん、それはシマヘビといって毒の無い蛇です。子ども達にただ蛇だからといって、余計な恐怖心を植えつけないで下さい。それは安全な蛇です。さあ浜尾さん、あなたから触りなさい」。
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恐怖の正体②

2023年10月30日 | 正しい絶望のすすめ
『恐怖の正体-トラウマ・恐怖症からホラーまで』(中公新書・2023/9/21・春日武彦著)からの転載です。


死はなぜ恐ろしいのか。そこを考察するために、死には三つの要素が備わっていて、それらがわたしたちを脅かすのではないかと想定してみる。すなわち、

① 永遠。
② 未知。
③ 不可逆。

 この三要素である。順次検討してみよう。
 まず〈水遠〉について。死後の世界はおそらく永遠と同義である。死んだ者は二度と戻ってこない。わたしたち生者は有限の世界に住み、死者は永遠の世界に住む。もしも死後悲しみや孤独や苦痛に支配されていたら、それは終わることなく永久に続くわけである。想像しただけでぞっとする。
 
だが死んだ本人にとっては、そこから始まる何か(無といったものも含か)がある筈だ。それは自分独りで、孤立無援の状態で受け止めなければならない。しかもそれは〈水遠〉〈未知〉〈不可逆〉という性質を帯びている。
 得体が知れぬという点においては、死は「不安」を喚起する事象である。掴み所がなく、曖昧で、準備や対応が一切できぬゆえに強烈な不安を募らせる。が、誰もが必ず死を迎えるのは事実そのものであり、その点において死はきわめて具体的であり鮮明である。となれば、死はむしろ「恐怖」を喚起する事象としたほうが良いかも知れない。そして実際のところはヽ不安と恐怖とが混ぜ合わされ倍増されたものが死の放つオーラということになろう。強烈な禍々しさを帯びているのも無理はない。
 ネットを覗くと、死が恐ろしくて仕方がない、だから何も手がつかないし、どのような心構えを持てば気持ちが安らぐのか、といっか質聞がたくさん飛び交ってしる。それに対して、主に僧侶が積極的に返答をしている。どんな答友か示されているのか。
 率直に申せば、答えではなくただ言葉のレベルで体裁よく言し繕っているとしか思えないのである。たとえば「死んでも悔いはない境地を目指しなさい」「だからこそ悔いのない人生を送るべきだ」「いつ死ぬか分からないのだから、せめて今を大切に精一杯生きましょう」としった回答がやたらと目につく。その通りではあるが、質問者は〈水遠〉〈未知〉〈不可逆〉にたじろいでいるのである。そこをスルーしては、「はぐらかし」と思われても仕方があるまい。(死は結局のところ)もとの場所に戻るだけですから、うろたえる必要なんかなしでしよ」といった意味の回答もあった。これはかなりスマートな返答だとは思うが、やはり、ああそうか・なるほど、そんなふうに考えれば、死なんて恐れるに足らないよねえ。いやあ、すっきりしました、ありがとう」とはなるまい。遠回しに輪廻転生を肯定しているようにも思えるのだ、か、どうもはっきりしない。
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恐怖の正体①

2023年10月29日 | 正しい絶望のすすめ
『恐怖の正体-トラウマ・恐怖症からホラーまで』(中公新書・2023/9/21・春日武彦著)からの転載です。

すまな恐怖のケースをじっくり検討し得るのではないか、いろいろな恐怖のありようを特徴づけやすくなるのではないか。そんな目論見から導き出した定義である。
 すなわちー
① 危機感 ② 不条理 ③精神的視野狭窄(しやきょうさく)―これらの3つが組み合わされることによって立ち上がる圧倒的な感情が、恐怖という体験を形づくる。

と、考えてみたい。
 念のために、③の精神的視野狭窄について補足しておく。
 人は追い詰められると、(無意識のうちに)自分が対処しなければならない対象を絞り込もうとする。せめて対象が限定され少なくなれば、どうにか向き合えるかもしれないという「いじらしい」心理が働くわけだ。そこで目の前のことしか認識しなくなる(つまり視野狭窄となる)。だがそれは目の前の事象に圧倒されるといった結果しかもたらさない。精神の余裕や柔軟性か奪われるだけで、逆効果しか生じない。おろおろ浮き足だった状態と精神的な視野狭窄状態は、互いに悪循環のループを形づくっていよいよ恐怖の感情を膨らませていくのである。


なお、興味深いことに①の「危機感」が実在してしなくても、人は恐怖に駆られることがある。いわゆる恐怖症、精神科領域に属するとされる症状である。たとえば高所恐怖、尖端恐怖、視線恐怖、対人恐怖、広場恐怖、自己臭恐怖、醜形恐怖、不潔恐怖など。(つづく)
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行動を数字化する

2023年10月28日 | 日記
『ひっかかる日本語』(2012/10/1・梶原しげる著)からの転載です。


認知行動療法などでも使われる「スケーリングクェスチョン」という技法がある。最近は、学校の先生が生徒の相談に乗るときにも使っているそうだ。
 例えば、こんな具合。じっくり話を聞いて、相談者の硬い心が開いてきたところでこんな質問をしてみる。
 [最悪だった時の気分を1として、悩みなんか全部なくなっちゃった時の気分を十とすると、今は何点ぐらいかなあ」
 「うーんと。四点ぐらいかなあ」
 「一点だったのが今は四点になったんだ。 凄い。三点も増えたのはどういうところからそう感じられたのかな?」
 「ここにこうやって来られたし、うーんと、前は学校に全然行かなかったけど、今は午前中は保健室まで行っているし、先生もほめてくれることがあるから」
 「凄いねえ! ほかには?」
 [給食も少し食べられるようになった。宿題も保健室の先生と一緒にやってる、かな] 「わー、えらいねえ!それで四点なんだ。じゃあね、その今の四点を〇・五上げて四・五点になったら、どうなっているかなあ?」
 「えーと。みんなのいる教室に行けるようになっている、かなあ。この間ちょっと授業中外から覗いた」
 「すごいねえ。そのとき、どんな気持ちがするかなあ?」
 こういう会話をするうちに、生徒が「何もできないダメな自分」から「結構できている自分」に気がっくと気持ちはぐっと前向きになる。
 このように、思考を変えるときに活躍するのが、気分を数量化(数値化)する「スケーリングクェスチョン」。具体的な「見える数字」を提示しながら「できている自分」「解決している自分」という面に焦点を当てる。実現可能な小さな目標をクリアしていることを数字の上昇で実感させる。
 これを小刻みに何度も繰り返し、達成感を体験させる。その中から徐々に解決のイメージが見えてくる。これを粘り強く行っていくうち、気がついたら大きな目標に向け前進していた。これが理想的だ。ここでのポイントが具体的な「数字」を上手に使うことだ。(以上)
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目線

2023年10月27日 | 日記
『ひっかかる日本語』(2012/10/1・梶原しげる著)からの転載です。


「上目線な会話」「上目線な態度」が何故こんなにも嫌われるのか。その前に「上目線」の「目線」つて、一体何なのか? 「目線」がこんなに一般的に使われるようになったのは、実はそんなに古くない。
 「目線」はもともと「演劇・テレビの世界の専門用語」とみられていた。そういえば、言葉に厳格な先輩はかつて若かった私にこう教えてくれた。
 [素人さんに『カメラ目線でお願いします』と言うのは俗で下品な表現だ。『視線をカメラに向けてください!』というのが正しいのです。『お茶ください』の代わりに『大将、あがり一丁』なんてお寿司屋さんで通ぶる愚かな客がいますね?・あれと同じです」
 そう話してくれた先輩の苦々しげな顔が忘れられない。その後遺症か、私は今でも「目線」という言葉を口にするとき、若干のためらいを感じる。とはいうものの、ケータイやスマートフォンを含め、日本国民の大多数がデジタルカメラを持ち歩く今日、「目線こっち、こっち!」という表現は、街じゅうにあふれている。
 「視線をこちらのレンズに向けてくださいね」は、古い写真館ぐらいでしか聞くことができないだろう。「目線」は「カメラ目線」や前述の「上目線」だけでなく、「男目線」「女目線」「客目線」のように使用範囲も増殖している気配だ。
 NHK放送文化研究所が『三省堂国語辞典』での「目線」の変遷を検証している。それによると一九七四年に出た第二版の「目線」の項には「(演劇・テレビなどで)視線」としか記述がない。この時点では、目線は単なる業界用語との認識だ。
 これに一九九二年の第四版で新たな意味が加わった。「公開された写真などに、写された人がだれであるかはっきりわからないようにするため、目の部分に引く太い線」。要は容疑者などの目を被う黒い線のことである。
 一般の人がごく普通に「上目線」とか「男目線」「女目線」「客目線」と、「目線」を「見方」という意味で使い始めたのは比較的新しい。同辞典では二〇〇一年第五版でようやく「ものの見方、とらえ方」の意味が加わった。同研究所の二〇〇八年の調査によれば、「庶民の目線で考える」という表現について「おかしい」と感じる人はわずか十二%。「おかしくない」と答えた人が七十二%に達している。
 そこから今日に至るまでほぼ同じような傾向が続いていると見るのが自然だ。したがつて、現在「目線」は「ものの見方」として認識されている。(以上)
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