仏教を楽しむ

仏教ライフを考えるコラムです。浄土真宗本願寺派僧侶

盲ろう者として生きて

2016年06月29日 | 日記
『盲ろう者として生きて―』の続きです。
著者は、光と音を失ったただ中で

盲ろうの世界は宇宙空間に一人だけで標っているような状態だと言いました。しかし、それは単に見えない聞えないという状況を説明しているだけでなく、自分の存在さえも見失い、認識できなくなるような状況で生きていることをも意味しています。(以上)

と語っています。私たちは福島智さんの〝盲ろうの世界は宇宙空間に一人だけで標っているような状態〟は普通ではないという思いを持ちます。しかし本を読んで思ったことは、お釈迦さまの縁起の世界の道理から言えば〝盲ろうの世界は宇宙空間に一人だけで標っているような状態〟が人間本来のベースであり、そのベースの中で因と縁によって現実がととのっていると見るべきなのではないかということです。

『盲ろう者として生きて―』のあとがきに次のようにあります。

 次に、盲ろう者に典型的に見られるこうした他者との関係性を、人間一般に広げて考えてみる。すると、人は他者との関係件の中でのみ存在しうる、という認識に到達する。


人はみな、それぞれの「宇宙」に生きている。それは部分的には重なり合っていたとしても、完全に一致することはない。時にはまったく交わらないこともある。このように、ばらばらに配置された存在であるからこそ、その孤独が深いからこそ、人は他者との結びつきに憧れるのではないか。
智(筆者)の盲ろう者としての生の本質は、この根元的な孤独と、それと同じくらい強い他者への憧れの共存なのではないだろうか。(以上)

私たち健常者が感じ取っている「普通」が、実は特殊(自己中心)なのであった、宇宙にただよう存在がとしての自覚が、お釈迦さまの目から見れば「普通」なのではないだろうか。

してみれば仏教の目指すところは「普通という特殊性への気づき」だとも言えます。平たく言えば、凡夫性への気づきです。
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普通という異常性

2016年06月28日 | 日記
『読売新聞』夕刊「よみうり寸評」(28.6.25)の初頭に次のようにありました。

乳がんを患った当時を振り返り、向田邦子さんか記している。▽厄介な病気を背負い込んだ人間にとって、一番欲しいのは[普通]ということである▽と◆『父の詫び状』のあとがきにある。ただでさえ先の見えない不安に心を乱される中、周囲にまで浮足立たれては、やりきれなくもあろう。黙って見守ることも気遣いなのだと教えられる(以上)

最近の研修会で「普通という暴力」について話すことがあります。普通でない状況にある人は、普通ではないという他者からの言葉が、突き刺さります。また普通であった人が普通でない状況に至った時、普通でありたいという思いが、自らを苛(さいな)む。また「普通」でありたいという普通の思いが、自身の現状を否定して、自分は不幸であるという思いをつくることもあります。

しかしこの「普通でない」ということが、存在の奇異性でなく「普通という暴力」の異常性を暴(あば)いていくということがあります。「普通という暴力」のもっている特殊性を明らかにしていくのです。

過日、『ぼくの命は言葉とともにあるー9歳で失明18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと』(福島 智著)を紹介しました。

1962年兵庫県生まれ。3歳で右目を、9歳で左目を失明。18歳で失聴し、全盲ろうとなり、58年東京都立大学(現・首都大学東京)に合格。盲ろう者として初の大学進学。
金沢大学助教授などを経て、2008年より東京大学教授となった人の書いた本です。
した。

図書館から『盲ろう者として生きて―指点字によるコミュニケーションの復活と再生―』(2011/8/10福島 智 著)を借りてきました。飛ばし読みですが、上記の本を読んだ感想です。 この本は、福島 智氏が、大学の博士論文に、加筆したものです。

内容紹介
幼くして視覚を、ついで聴覚を喪失し、深い失意と孤独の中に沈んでいた著者が「指点字」という手段によって他者とのコミュニケーションを回復し、再生するに至るまでを綿密にたどり直した自伝的論文。人間にとって他者とのつながりがいかに大切かが分かる本。(以上)

(続く)
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植物の形には意味がある

2016年06月27日 | 日記
「雑草という草はない」、有名な昭和天皇の言葉です。

昭和天皇が留守中に、お住まいの庭の草を刈った侍従の入江相政に天皇は尋ねられた。
「どうして草を刈ったのかね?」
入江は、ほめられると思って、
「雑草が生い茂って参りましたので、一部お刈りしました。」
と答えた。すると天皇は、
「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所
で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決め付けてしまうのは
いけない。注意するように。」
と諭された。                   (入江相政「宮中侍従物語」)

過般『植物の形には意味がある』(園池公毅著・ベル出版2016.4.25刊)を読みました。

葉の平たい目的な何か。葉は光とに二酸化炭素と水で光合成をします。光を一番有効に集めるためにメガソーラーのように広い面積を利用します。

逆に、光がいっぱいあって水が少ない砂漠地帯では、水をためていく部分を増やします。葉の裏側は、表の部分と違って細胞が密ではなく、まばらな細胞を利用して、光を乱反射させて、裏に光がとおりくねることを防ぐ。

櫻の葉っぱは、葉の周りが開いた傘の周りに芯が何本の突き出ているように、とがった峰状の先端をもっています。それは水滴が葉に留まると、気功をふさいだり、光の乱反射による害を防ぐために、水滴を外へ逃がすためにその形状をしている。

「根はなぜもじゃもじゃなのか」ー水や栄養分を取るために表面積を確保するためであり、実際にアメリカの研究者が(1937年)ポットに植えたライ麦の地中の根の総延長を調べたら、数百kmあった。根は水を求めて深く張る必要があるが、栄養は動物のフンや枯葉など地表面に近いところの方が多い。そうした複合的な理由で、根の形は多様化している。


等々。植物の形に込められている意味を知ると、雑草はないどころか、雑草の一つ一つの形に、神秘的な生命体の工夫が思われます。
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オペラ「恵信尼さん」

2016年06月26日 | 都市開教
昨(28.6.25)25日は、近隣の真宗寺院共催の公開講演会、〝オペラ「恵信尼さん」〟でした。柏クリスタルホール(キャパ400席)で370人ほどの来客で開催されました。

出演 台本・作曲・演出・指揮 仙道作三
恵信尼さん(ソプラノ)柏原奈穂

ピアノ松本隆彦 パーカッション斎藤裕子 ナレーター奥田富子

主役の柏原奈穂が恵信尼を演じ、恵信尼文書すべてに曲がついて、お手紙の言葉をすべて暗記してソプラノの歌われていました。さすが一流のプロ。上演時間は1時間5分。


台本・作曲・演出・指揮をとられた仙道作三さんは、全国のお寺で演じたいと、慰労会のお酒の席で熱く語っておられました。


作曲 仙道作三(せんどうさくぞう)
手賀沼讃歌の作曲家。1945(昭和20)年生れ。秋田県羽後町出身。音楽理論と作曲を文化功労者で作曲家の故柴田南雄氏に師事。他に仏教哲学とインド美学を学び、ニューヨークやパリに遊学し研鑚を積む。日本の古典文学や芭蕉・一茶の俳句、一葉・晶子・牧水などの和歌・短歌に多数の曲付けをしている。他に水の交響詩に、「利根川」「多摩川」「荒川・隅田川」、著書「わがオペラの幕が上がる」「東北・大地をゆく」(春秋社)、「ちばの音風景」(崙書房)がある。第3回宮沢賢治賞奨励賞、自治大臣賞など受賞多数。現在、東京都荒川区顧問。千葉県松戸市在住。


ソプラノ 柏原奈穂 (かしわばらなほ)
千葉県柏市出身。東京藝術大学声楽科卒業。同大学院修士課程オペラ科修了。藝大卒業時にアカンサス音楽賞受賞。文化庁海外派遣在外研修員としてイタリアへ留学。F.モルラッキ国立音楽院(ペルージャ)を称賛付き最高点の成績で修了。第11回世界オペラ歌唱コンクール「新しい声2005」で優秀者として、ドイツでの本選に出場。二期会会員。日本声楽アカデミー会員。

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お寺で婚活

2016年06月25日 | 都市開教
「築地でご縁結び in 築地本願寺 夏の夕べ・一足早い七夕前夜の盆踊りで素敵な出会いを。」築地本願寺は、7月6日に築地本願寺で婚活イベントを開催するという。
過去、2016年3月12日(土)にも、定員:60名程度(男女各30名程度)で開催しています。

過般、築地本願寺の職員との会話で、この婚活イベントの話題となりました。「女性枠は瞬時に埋まるが、男性はぼちぼち」だという。

男性が草食化していることは、以前から言われていますが、どうもこの草食化は、すでにこの傾向は戦後から始まっているようです。というのは図書館から借りてきた昭和50年刊『暮らしの中の日本語』(池田弥三郎著)に次のようなことが書かれていました。

〝男の名に「ヲ」を付ける命名は、かなり長く続いた。…しかし、戦後はどういうわけか、社会の風潮を反映してか、夫・雄・男ともに少ないという。男性が弱くなってきた象徴かもしれない〟
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