今日は下町のうたごえ 本所地域プラザでの開催である
その本所のスタッフから 電話が来た 午前11時から すいとんの会があると言う
すいとんは 戦後すぐの主食であったが 今のように豪勢では無い 肉も無ければ野菜も少ない
昨年はこの会館で 東京大空襲の生き残りの方たちが体験談を語る映像を見た
その時も ランチは すいとんである 出演していた方も 同じテーブルを囲んで食べる
あの東京大空襲は 終戦真近の昭和20年3月10日の深夜であった
むごい焼死体の写真などあるが現実を伝えるために掲載します
気分が悪くなりそうな方は ここからスルーしてくださいね
私はその日の夜中 あの予科練の基地がある土浦郊外で 母と外に立っていた
5歳の記憶であるが 東京方面は真っ赤な夕焼けのように見えていた
東京が燃えいる この一言だけ消えずに頭に残っている
本当は浅草の小島町と言うところに住んでいて いよいよ空襲で危なくなって ここに疎開した
もう一つの理由は 食べるものが無くなって 私が道に落ちていた何かを拾って食べたと言う
これが惨めで引っ越したが おかげで今日のいのちはあるから運命は不思議だ
その土浦も航空隊があるので 年中B29が襲い 防空壕で機銃掃射の音も聞こえた
間に合わなかった人を容赦なく 機銃で狙うのである 母の知人もそれで死んだ
ここは半年くらいで 今度は信州の岡谷に 更に間もなく 親の故郷近く高遠の山奥に住んだ
話は戻り 325機のB29大編隊は 夜中の東京を大量の焼夷弾で焼き尽くした
その被害 犠牲者は この本所あたりを中心として 下町一帯を地獄図絵にしたのである
時間にして2時間だが 焼死した人の数は10万にも及ぶ
日本の家屋が木造主体であることから アメリカ軍は 焼夷弾の開発を急いだ
空中で爆発させて 石油系の材料を浸みこませたものを 細分化して発火させ巻き散らす
ひとたび燃え出せば 水をかけても消えない粘着質だ 家も人も焼き尽くすのである
広島・長崎の原爆も同じだが 一瞬は助かっても全身燃えて行き 苦しさに水のある川に飛び込む
スカイツリー周辺 浅草辺りの隅田川 私の地元の旧中川には 累々と焼けた死体で埋まった
数日の後の上野公園 墨田公園 錦糸公園は今も賑わうが ここは焼死体の仮置き場処理場だ
川に累々と浮かぶ死体を引き上げる
東京を焼き尽くすが目標だから まず 大きな区画に焼夷弾を落とす
逃げ惑う人々も助からないように 網の目のように残酷に火の海と化して行った
人類の一般人を巻き込んだ 戦争の大虐殺でもある
しかし 敗戦国であれば 虐殺報道は語れない 戦勝国の倫理が成り立ってしまうのだ
政治も報道も 教科書も芸能も全て管理下に置かれ誘導されて行く
日本は 戦争を仕掛けた責任のみ問われ 自虐心だけが埋め込まれていく
大正12年の関東大震災の犠牲者と 東京大空襲の犠牲者を祀る
ただ 戦争は世界から消えて欲しいと願う このように人が人を殺すことは避けねばならない
現代で もし戦争が起きれば 全人類が生き残れるか その保証もない
平和のために 憎しみの連鎖は絶ち 他国の方たちとも手を携え 心を一つにして行くことだ
浅草寺境内に空襲でも焼け残ったイチョウの樹 水分が多く助かったらしい
明日の東京スカイツリーは 鎮魂と平和のために 祈りを込めて 白い照明に変わるだろう
焼野原であった この下町の写真や 戦争の悲惨さは どこにも感じられない平和がある
今日は その平和を喜び合うような 下町のうたごえ 生き残った方たちも仲間に多く居る
最後までお読みくだ-さいまして有難うございました m(_ _)m
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快晴の名古屋です。
今、私たちが幸せな生活を営んでいけるのは
戦争で多くの小さな命 若い命を失くしたあの時
の犠牲を決して忘れてはならないと。
この幸せな時代に子供の頃から軍国主義のような
教育があることに怒りを覚えています。
子供は子供らしく生きてほしいなと。
私は戦争を知らない世代ですが、この残酷さを語り続けないといけませんね。
日本人の多くは戦争を体験していません。
一人一人の命。その一人には親がいて、兄弟がいて、子供がいて・・・。
大きな視界で考える戦争も学ばなければならないですが、一人一人の命の大切さを考えると、いかに戦争が虚しいことなのか気がつきます。
学ばなければ。
そう、思います。
いた時に
母は東京大空襲に遭遇しました
瞬間どちらに逃げようか躊躇した母
左に逃げた母達は助かり
右に逃げた人達は焼夷弾をあび亡くなりました
母の目の前に不発弾が落ちた事も…等々
のびたさんが書かれていることを 母からすべて聞いて
文集に載せる為に 草稿を手伝った記憶があります
『人の命は地球よりも重い』と
赤軍事件にからみ 当時の首相の福田さがおっしゃいました
この地球上に生きる全ての人に宿る言葉であってほしいです
戦争の恐ろしさは実体験していないのでわかりませんが、
中学生の時に社会科の先生からききました。
当時、中学生も学徒動員されていて工場で働いていましたね。
ちょうどお昼休みに焼夷弾が降ってきて同級性が亡くなったと
聞き、平和の尊さを知りました。
子供の頃にはお昼ご飯として「すいとん」は食べましたよ。
食料不足だったのですがマアマアの味でした。
それから昨日のふろふき大根の話しですが片手間に
台所をしていると鍋を焦がしてしまいます。
火事になったら大変なので片手間に台所仕事は
禁物ですね。
思い最後まで拝読しました。
他国と憎みあっているばあいでは
ないですね、第三次世界大戦が
おこらないよう、なんとかしなければと
思いました。・・。
戦争を知らない世代です。能登の育ちですので、
空襲も受けずに終戦を迎えた家族からは聞く事の無い話でした。
母は5人の子供を抱えて随分苦労したようです。
子供の頃広島の原爆の映画を観た事ありますが
むごい場面が脳裏に残ってます。
戦争は駄目です、
忘れることのないよう 生きている間は体験していなくても語り続けてほしいです。
恐ろしいことを現実として目の当たりにされた方はその後の心にひどい傷跡を抱えているのだと思います。
それでも生きることが使命とかたく心に決めているでしょう
誰も傷つくことのないよう平和で誇らしい世界であったらと切に願います