比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

秋の秩父路・・・椋神社から石間へ・・・困民党の影を追って

2010-11-22 | 秩父事件を追って
11月19日秩父吉田で万葉碑を見てから椋神社へ。
いまから126年前の1884年(明治17年)11月1日、秩父で起きた近代になっての百姓一揆・・・秩父事件・・・その総決起集会が開かれたのが椋神社。その日も銀杏がこのように黄葉していたことでしょう。
《秩父事件については下記の過去ログで》
2008年5月10日のブログ  秩父路を行く・・道の駅「龍勢会館」・・『草の乱』  
2008年11月20日のブログ  秩父路を行く・・・椋神社・・・秩父事件の原点


下吉田から吉田川に沿って上流に、さらに石間戸という耕地から石間川に沿って石間(いさま・・・明治の合併までは石間村)に。Ⅴ字谷の狭い道を行きます。このへんは車のすれ違い注意。

道路際に秩父事件・・・秩父困民党の副総理加藤織平の墓が。台石に右から「志士」と彫ってあります。
秩父困民党総理田代栄助に次ぐ№2。石間村の上層の百姓、金貸しもやっていたようです。侠客気質(家の土蔵で博打を開帳して元締をやってたらしい)で舎弟の落合寅市の要請で困民党に参加、自ら貸し付けていた150円の証文をすべて破り捨てたといいます。捕らえられて死刑、37歳。
墓は別の事件で捕らえられていた落合寅市が1889年の憲法発布恩赦で出獄後、同士を募って建てたもの。「志士」の文字は遺された人たちの心意気が感じられます。
墓に多くの欠損があるそうで、戦前、天皇に歯向かった暴徒であると教育された児童によって投石された痕といいますが真偽は知りません。
この谷には困民党の落合寅市の墓と家、高岸駅蔵の宅跡がありますがここでは省略。


川に沿ってさらに登っていくと石間交流学習館・・・旧石間小学校。


交流学習館・・・1階は地域の食、文化(木工品、藁細工、蕎麦、うどん)の研修など。2階は秩父事件の資料、農山村の移り変りなどの陳列。


館長さんに秩父事件の背景、農山村の生活と経済について説明してもらいました。
日本近代史上、唯一といえる民衆による武装蜂起・・・秩父事件はなぜ起こったか。秩父地方には水田はほとんどありません。常食は雑穀、蕎麦。いまは杉林になってますが人が登るにも困難な急傾斜なところもむかしは桑畑だったそうです。商品価値のある生産物は蚕だけ、それを現金にして食料を得ていたといいます。そこに生糸暴落、金融利子の高騰、すべてが悪いほうに傾いて事件が起こりました。詳細は上記の過去ログをご覧ください。

椋神社に「秩父事件百年の碑」が秩父事件百周年吉田町記念事業推進委員会、秩父事件顕彰実行委員会によって建立されたのは事件から100年経った1984年のこと。「天皇に歯向かった暴徒」として長い年月認識された人たちは、ようやくその汚名を晴らすことができたといえます。写真はその碑の横に立つ「狼煙を持って決起する農民」のブロンズ像です。


※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿