比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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満蒙開拓青少年義勇軍③・・・今日も暮逝く異国の丘で

2010-08-12 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
満蒙開拓青少年義勇軍、私のふるさと長野県第7次斉藤中隊213名のお話しです。
15歳、年端もいかない子どもたちが鍬と鉄砲を担いで満州の奥地をさまよいます。

1944年3月 長野善光寺横の城山公園で結団した斉藤中隊は
1944年10月 興安、
1945年8月13日 ソ連軍に追われて逃避行開始・・・9月5日 降伏してふたたび興安(王爺廟・・・ウランホト)に。

    ここはお国の何百里 離れて遠き満州の
     紅い夕陽に照らされて 友は野末の石の下

                     (戦友・・・作詞・真下飛泉 作曲・三善和気・・明治38年)
この歌のとおり友が次々と野末に重なっていきます。



ウランホトで虚弱者60人が開放(このうち36人が生きて帰らなかった)。
1945年10月 残る118名はチチハル(斉斉哈爾)に護送。子どもですが武装集団でしたからシベリア行きです。年齢を14歳に偽ったり、体格の劣るものは外されました。
1945年11月 チチハルからホロンバイルの草原のマンジョウリー(満州里)に向かって列車が発車するが関東軍の将校、中隊の先生方の必死の懇願で子どもたちだけはふたたびチチハルに逆送。シベリア抑留は免れたが強制労働が待っていました。

ノルマによる重労働、極寒の中で夏服に近い衣服、疲労、衰弱、飢え、シラミ、発疹チフス、精神異常、次々と友が冷たくなっていきます。

テレビインタビューの中での言葉です。
 
死んだ友達の衣服は剥いで街で売り少しは腹の足しになるものを買います。凍った大地を掘って遺骸を埋めますが多くの土をかけられません。春になると凍土が溶けて風が土を飛ばし遺骸が剥きだしになり野豚、野犬が食い散らします。体の特徴で食い散らされていく友が確認されます。
地獄を見ています。

     今日も暮ゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ
      我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る春が来る

                                 (異国の丘・・・作詞・増田幸治 作曲・吉田正)
シベリアでも飢えと寒さで多くの抑留者が亡くなっていきますが、ここでは信じられないような死亡率です。荒廃した戦後混乱期(ソ連軍、国府軍、八路軍が入り乱れて)の収容所の管理が万全でなかったこと、子どもの体力では対応しきれなかったこともあるでしょう。八路軍(現在の中華人民共和国の人民解放軍の前身)の統治下になってようやく落ち着き、体力も回復に向かうものが多かったようです。現地人に雇われて仕事をするもの、八路軍に入隊するもの、とにかく食っていかなければなりません。

1946年8月 中国人民解放軍統治下の日本人引揚げ命令が発表。
1946年8月30日 チチハル駅を出発、このときチチハル関係の斉藤中隊49名(59名が帰らぬ人に)。八路軍に入って10年以上帰らなかった人もいます。
1946年9月30日 錦州、10月2日 博多港に投錨。
1946年10月15日 長野県庁にて帰還報告、かくして満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊は2年7ヶ月をもって解隊した。

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