比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

8月23日(月曜日)PM9:00~・・・NHK BSプレミアムで「大地の子」が最終放映

2021-08-23 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
,
今から76年前の1945年8月9日未明、ソ連軍が150万人の兵力で満州国(現在の中国東北部)に進攻。
これに対して大日本帝国陸軍の関東軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦であったといわれます。
哀れをとどめたのは奥地に取り残された開拓民、老人・女・子ども(成人はほとんど現地応召)。
軍の庇護を受けられず徒歩で南に逃避行が始まり、数々の悲劇が起きます。

この悲劇を描いた山崎豊子の大河小説「大地の子」(文藝春秋1991初版)はベストセラーになり・・・中国残留孤児・・・の存在を知らしめました。
1996年に「大地の子」は日中共同制作でテレビドラマ化・・・
いまNHK BSプレミアムで再放映されています。現在、第1回から9回まで放映終了・・・

8月23日(月曜日)・・・NHK BSプレミアムPM9:00~11:00・・・10~11回・・・最終放映・・・必見。

前回までの放映・・・
長野県信濃郷満蒙開拓団・・・松本耕次一家・・・父は現地応召、残された祖父耕平、母タキエ、勝男8歳、妹あつ子5歳。
逃避行中に祖父耕平、母タキエの死、妹あつ子との別れ・・・

ソ連軍に襲撃された佐渡郷開拓団跡で生き延び中国人の養子に、
逃げ出して市場で売られているところを陸徳志に救われ、養子に。

陸一心と名付けられ養父母の下で成人、文化大革命で下放、内蒙古の労改に・・・
破傷風で苦しんでいるとき巡回看護師江月梅に救われる。

妹あつ子との再会・・・陸一心(勝男)42歳、張玉花(あつ子)39歳・・・
永遠の別れ.・・・

父松本耕次との出逢い・・・

最終章・・・松本耕次陸一心(松本勝男)親子は長江三峡下りの船旅にでます。
二つの祖国、二人の父・・・の狭間で揺れる一心・・・
夜明けに・・・陸一心は日本の父松本耕次に語りかけます・・・

一心の両眼から涙が滴り落ち、父の顔を見つめた。
「大地の子・・・・・・」
山峡から吹き渡って来る風に、語尾がかき消された。松本は訝しげに一心を見返した。
「私は、大地の子です」
峡谷の江面と巌に、一心の声が谺すように響いた。大地の子ーー、
それは日本の父に対しる惜別であり、自分自身の運命に対する無限の呼びかけに他ならない,
・・・中略・・・
船は滔々たる長江を下って行った。


中国残留孤児・・・あの大戦の敗戦で中国東北部に残された在満日本人155万人、シベリア抑留60万人。生きて日本に帰れなかった人17万6千人・・・うち開拓農民の死者8万人。中国残留孤児8000人~10000人・・・13歳以上を残留婦人というのだそうです・・・詳しい数字はわかりません。
もう76年も経ちました。遠いむかしの話です。わたしたち日本人が二度とあんな戦争を起こさないように、歴史として学んでおきたい・・・そんな一ページです・・・前事不忘 後事之師
わたくしたちには語り継ぐ責任があります。

井出孫六著「終わりなき旅」(岩波書店 18986年初版)より》
小説「大地の子」に登場する長野県信濃郷開拓団慰霊会の世話役を務める狭間信一さんのモデルになった方.・・・斉間新三さん(埴科郡五加村・現千曲市)は埴科郷開拓団の先遣隊長として満州に、奥さんと0歳半の長男剣佳志さんを置いて現地招集、南方戦線におくられるため宮崎県で待機中に終戦、松本耕次と重なっています。長男剣佳志さんは佐渡郷開拓団跡地で屍の下から助けられ養父母の下で李中興と名付けられ育ち、高等教育を受け中学校校長になっていました、陸一心と重なるところがあります。1984年李中興先生は半年間の休暇を得て実父新三さんの下に里帰りします。親子の間は通訳を介し語り合い、心の交流が。これからのことも話し合いました。最後の結論を「終わりなき旅」よりコピーしました。重い話ですが読んでみてください。


★佐渡郷開拓団跡地事件・・・黒竜江省七台河市郊外、佐渡郷開拓団の開拓地であったところ。満州奥地から逃亡してきた開拓団がここを中継地にした。8月24日には5つの開拓団3000名が逗留、事件は8月27日、日本兵が不時着したソ連軍機を焼き払ったことに対するソ連軍の反応、日本人のほとんどは非戦闘員であったがソ連軍の猛攻撃がはじまった。戦争というものはそういうもの。全員が非戦闘員で武器放棄していれば.・・・。集団自決者514人、戦死者950人、死者合計1464人ともいわれるが正確な数字は不明。全部で2000人ともいわれる。生存者数人、ほぼ全滅。埴科郷開拓団の記録によれば埴科郷の死者228人、生存者4人。
佐渡郷事件については「大地の子」の冒頭、陸一心が屍の下で生き延びることから・・・はじまります。「終わりなき旅」ではかなりのページを割いてこの事件の顛末を追っています。
長野県戸倉上山田温泉の城山公園の中腹に故郷を見下ろすようにして更埴満蒙開拓団慰霊碑が建っています、わたし事ですが義母の弟二人(更級郡上山田村新山・現千曲市)の名前が刻まれています。

※コメント欄オープン。

きょう8月16日PM9:00~・・・NHK BSプレミアムで「大地の子」が放映

2021-08-16 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
,
8月9日・・・今から76年前の1945年8月9日未明、150万人の兵力で満州国(現在の中国東北部)にソ連軍が進攻。
これに対して関東軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦であったといわれます。
哀れをとどめたのは奥地に取り残された開拓民、老人・女・子ども(成人はほとんど現地応召)。
軍の庇護を受けられず徒歩で南に逃避行が始まり、数々の悲劇が起きます。

この悲劇を描いた山崎豊子の大河小説「大地の子」(文藝春秋1991初版)はベストセラーになり・・・中国残留孤児・・・の存在を知らしめました。
1996年に「大地の子」は日中共同制作でテレビドラマ化・・・
いまNHK BSプレミアムで再放映されています。現在、第1回から7回まで放映終了・・・

きょう8月16日(月曜)、NHK BSプレミアム午後9時~11時、第8~9回が放映・・・必見。

前回までの放映・・・
長野県戸倉の信濃郷満蒙開拓団・・・松本耕次一家・・・父は現地応召、残された祖父耕平、母タキエ、勝男8歳、妹あつ子5歳。

逃避行中に祖父耕平、母タキエの死、妹あつ子との別れ・・・

妹あつ子との再会・・・陸一心(勝男)42歳、張玉花(あつ子)39歳・・・






※コメント欄オープン。

きょう8月9日はソ連対日参戦の日・・・「大地の子」の悲劇がはじまった

2021-08-09 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
8月9日・・・今から76年前の1945年8月9日未明、150万人の兵力で満州国(現在の中国東北部)にソ連軍が進攻(侵攻ともいう)した日です。
一般的には「ソ連対日参戦」といいます(防衛省では「対ソ防衛戦」という)。
これに対して関東軍の兵力は80万人、新京大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦であったといわれます。
進攻を察知して南に逃げたという説もあります・・・哀れをとどめたのは奥地に取り残された開拓民、老人・女・子ども(成人はほとんど現地応召)。軍の庇護を受けられず徒歩で南に逃避行が始まり、数々の悲劇が起きます。

この悲劇を描いた山崎豊子の大河小説「大地の子」(文藝春秋1991初版)はベストセラーになり・・・中国残留孤児・・・の存在を知らしめました。
1996年に「大地の子」は日中共同制作でテレビドラマ化・・・いまNHK BSプレミアムで再放映されています。
現在、第1回から5回まで放映終了・・・きょう8月9日(月曜)、NHK BSプレミアム午後9時~11時、第6~7回が放映・・・必見。


長野県埴科郷満蒙開拓団柗本家の長男勝男、祖父、母とも別れ・・・妹あつ子との別れの時が・・・
逃避行中の満蒙開拓団とともにソ連軍の襲撃を受け、全滅の中から奇跡的に生き残る。

心優しい中国人陸徳志、王淑琴夫妻に助けられ人民解放軍により封鎖された長春を脱出・・・

陸一心と名付けられ養父母の下で成人、文化大革命で下放、内蒙古の労改に・・・破傷風で苦しんでいるとき巡回看護師江月梅に救われる。

辺境の労改から解放され北京に戻った陸一心は・・・江月梅と再会・・・結婚・・・


★陸一心は2度中国人に命を救われる・・・一度目は養父に、2度目は破傷風になった一心に備え少ない血清を打つことを医師に提言した江月梅に。

日ソ中立条約破棄の謎とヤルタ会談・・・第二次世界大戦末期、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄してすでにTKO状態の日本に対して対日参戦します。そのわけは・・・1945年2月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国の米・英・ソの三国首脳がドイツの降伏後の戦後処理を決め、併せて米・ソ首脳間(ルーズベルト・スターリン)でドイツ降伏90日後にソ連が対日参戦する秘密協定を結びます・・・千島・樺太の処遇つきのオイシイ話・・・ということになっています。世に言うヤルタ会談です。米ソ首脳の駆引きのように思えます。戦争というものは条約なんて糞喰らえなんです。
5月7日ドイツ降伏文書調印、5月8日降伏文書批准調印(ソ連時間9日)。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。3ヶ月後が待ち遠しかったでしょうね。

※コメント欄オープン。


満蒙開拓団の崩壊のあとに・・・曠野の墓銘碑   2006年8月のブログの再掲載です

2021-07-21 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか

NHK BSプレミアムで7月19日(月)より毎週夜9時から山崎豊子原作の日中共同制作スペシャルドラマ大地の子」(全11回)が再放送されます☞クリック
初回は1996年3月11日~3月は20日、NHK総合「ドラマ・スペシャル」にて放送。

初回放送は今から25年前になります。山崎豊子が「大地の子」「戦争孤児」と呼んだ、あの戦争で中国に置き去りになった子どもたちはもう80~90歳、遙か遠くになりましたが、戦争とは何か、植民とは何か、人間愛とは何か・・・をメッセージとして残してくれました。

今いちどこのドラマを見てみたい。

2006年からはじめたブログ、その初めのころのブログをもう一回読み返しています。
以下は2006年8月に掲載したブログ・・・「満蒙開拓団の崩壊のあとに・・・曠野の墓銘碑」・・・からです。

わたしの本棚から。
山崎豊子大地の子」(文藝春秋1991初版)
井出孫六終わりなき旅」(岩波書店1986初版)

いずれも初版のとき買ったものです。
終わりなき旅」は雑誌「世界」1985/6初出、「大地の子」は雑誌「文藝春秋」1987/5初出となっています。

終わりなき旅」からの抜粋です。
後世に伝う血涙の記録満州泰阜村分村
という記録が紹介されています。その中の奥瀬くに子さんの「曠野の墓碑銘」の一節です。
話は奥瀬さんのお姉さん篠田ウメヨさんの三男欽三少年(15歳)が敗戦直後の満州の逃避行の中で襲撃を受け(そのとき日本刀を持っていたのが仇になった?)重傷を負って死んでゆく状況を記しています。

夜は涼しいが、日中は暑かった。馬車の上に寝かせれているのが暑いのか、頭が異常に暑かったのか?
お母ちゃ。ここは暑くてしょうがないから、もっと涼しい綺麗なざしきに連れて行ってよ・・・
欽三は、切なげに姉に訴えていた。一かけらの氷どころか、タオルで頭を冷やしてやることもできなかった状況の中で・・・姉は欽三との別れの時が近づいているのを知った。
欽三・・・お母ちゃのお乳にさわって見て・・・
お母ちゃ、なんだか・・・はずかしいな
はにかみの笑い顔を見せた欽三であったが、おそらく欽三が母に向けた最後の笑顔であったと思う。


流れもゆるやかな綺麗な川のほとりで息を引きとった少年は、彼のことばに従って、祖母と母親の手で屍は水葬にふされます。欽三少年の家族七人のなかで日本の土を踏めたのは少年の兄欽次さんと母親の妹くに子さん二人だけのようです。
お母ちゃの行動は、性的な匂いさえします。まさに「たらちねの母」です。極限の状況のなかで死にゆく十五歳のわが子に対し、してやれた母の最後にして最大の愛の行為だったのか。
はにかむ少年の最後の笑顔。「たらちね」は男子一生の憧憬です。


泰阜村・・・長野県下伊那郡泰阜村。静岡、愛知県に近い南信州、天竜川の左岸。河岸段丘の上の美しい村落です。
お母ちゃ・・・伊那地方の方言です。「お母ちゃん」ではありません。「お父ちゃ」「お婆ちゃ」とつかいます。「ん」をつけないのです。身内でもそうでない近所の人もマッタクの他人もつかいます。「やすおちゃん」は「やっちゃ」「やすおさ」といいます。

※コメント欄オープン。

あの戦争で・・・満蒙開拓団引揚・・・15人の乙女の悲劇を伝える・・・「乙女の碑」・・・永遠に語り継ぎたい

2018-11-25 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
,
11月20日朝日新聞朝刊第二社会面の記事から・・・

満蒙開拓団引揚の悲劇『乙女の碑』に碑文」・・・「性接待」伝える4000字・・・

内容を文章にするのはあまりにも辛い。
スキャンした記事のコピーを読んでいただきたい。
ネットでググって見た。岐阜新聞、朝日新聞、毎日新聞、共同通信配信のデジタル記事が見られた。Y紙、S紙のネット記事はワカリませんでした。

2009年8月11日のブログ「あの戦争から遠く離れて・・・終わりなき旅は・・・このブログの中でこのことについて書いた本を紹介しました。下記の本です。

林 郁大河流れゆく」 (1988年朝日新聞社刊、1993年ちくま文庫)
ソ中国境・大河黒竜江(アムール河)の近く、ソ連進攻により避難も叶わず置き去りにされた婦女子、集団自決、現地民の報復、深い傷跡を残し、その後に続く過酷な現実を必死に生き抜いた姿を丹念に歩いて聞き書きして資料を読んでルポ。満州国吉林省陶頼昭のA開拓団幹部によるソ連軍対策用の婦女提供の話し、帰国した人たちは「乙女の碑」を建てたそうです。二重。三重の凌辱・・・と著者は叫んでいます。※3章昭和の慰安婦・・・86~114頁。

著者林 郁(1937年長野県生まれ)にはほかに「満州・その幻の国ゆえに」(筑摩書房 1986年刊)、「あなたは誰ですか 中国帰還者の日本」(筑摩書房 1993年刊)という著書があります。


A満蒙開拓団・・・岐阜県加茂郡黒川村(現白川町)から旧満州国吉林省陶頼昭鎮に満蒙開拓団黒川分村として入植、ハルピンに近い肥沃の地、入植した土地は開拓ではなく強制買上収用の地だったようです。団員600人余、死者200人余、残留孤児3人、ほかの開拓団に比べ犠牲者は少なかったといわれます。そのことは何か・・・
15人の「乙女」・・・いまは90歳代・・・1981年何の説明もない「乙女の碑」が建立され、引揚げ後の黒川分村の記念文集には美辞麗句が並べられていたそうです。37年経った今、何があったか伝える碑文がようやく「乙女の碑」の傍らに建てられました。
岐阜新聞のネット記事では・・・11月18日の除幕式で黒川分村遺族会の代表が「若き女性たちの奪われた青春と、引き揚げ後の誹謗・中傷された長い年月に、遺族会として誠に罪深い思いをさせたと深くお詫びする」と碑に頭を下げたと伝えています。

第二次世界大戦とは何、日中戦争って何、満州国って何、満蒙開拓団って何、8月15日って何の日。
少しだけでもイイから知ってほしい。


前事不忘 後事之師」・・・過去を忘れずに 未来の教訓とする。


※コメント欄オープン。

NHKドラマ「どこにもない国」・・・「あの戦争」の敗戦時に在満州日本人の引揚げを工作した男たちの物語

2018-04-02 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
NHKドラマ「どこにもない国」が3月24日PM9:00~、3月31日PM9:00~2週に渡って放映されました。

1945年8月、太平洋戦争の敗戦時、中国東北部(旧満州)に取り残された日本人同胞150万人(170万人ともいわれる)・・・がいかにして日本の土を踏んだか(実際の引揚げ人数は130万人とも107万人ともいわれます)・・・その経過を時系列で追ったドキュメンタリーに近い物語です。



わたしたちが知らなかった・・・在満150万同胞の祖国引揚げを必死で工作した男たち・・・丸山邦雄、新甫八朗、武蔵正道・・・の物語・・・幣原喜重郎首相、楢橋渡内閣書記官長、吉田茂外相、佐藤栄作鉄道総局長官、GHQ最高司令官ダクラス・マッカーサー・・・実名で登場するドラマです。
丸山邦雄(1903~1981年)・・・長野県下水内郡柳原村(現飯山市)に生まれる。明治大学卒業、満州国昭和鉄鋼所(後に満州製鉄に再編成)入社、敗戦翌年の1946年2月に鞍山を脱出して3月13日に日本上陸、日本の政府要人、GHQの要人に在満州の日本人の引揚げを嘆願。日本上陸から2ヶ月後の1946年5月葫蘆島港からの祖国への引揚げが始まります。戦後は明治大学教授として教育界に。



1945年8月9日未明、満州国(現在の中国東北部)にソ連は「日ソ中立条約」を破棄して150万人の兵力で満州全体に襲いかかかります。これに対して日本軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦をとったといいます(進攻を察知して南に逃げたという人もいます)。・・・このためほとんどの開拓民は日本軍の範疇の外に置き去りにされました。
在満日本人150万人、うち開拓農民27万人、シベリア抑留60万人。詳しい数字はわかりません。
8月14日、外務省は在外機関に「居留民は出来得る限り定着の方針を執る」という文書を出しています。8月26日に大本営は「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」という文書を出しています。置き去り・・・棄民です。国家も軍隊も国民を守らなかったということがよくわかります。

中国残留孤児8000人~10000人・・・13歳以上を残留婦人というのだそうです・・・



丸山邦雄、新甫八朗、武蔵正道が満州を脱出して日本に向かい山口県仙崎港に上陸したのは1946年3月13日、日本政府、GHQへの陳情が稔り引揚げが開始したのは4月末、引揚船の第一陣が博多港に着いたのは1946年5月14日、わずか2ヶ月後という早さでした。



もう70数年前のことです。わたしたちが体験しない過去の・・・歴史の中の物語りになっていますが・・・真実です。

★詳しく書かれたサイト↓・・・ぜひ読んでみてください。⇒クリック⇒テラサワ日誌 満蒙開拓記念館・専務理事丸山邦雄さんらの活躍と葫蘆島からの引き揚げ

ポール・邦昭・マルヤマ著・高作 自子満州 奇跡の脱出」(柏艪舎 2011年刊)・・・著者は丸山邦雄の三男。
武蔵正道アジアの曙-死線を越えて」(自由社 2000年刊)
ムック・・・「満洲 NHK特集ドラマ『どこにもない国』を巡る」(洋泉社 2018年3月刊)・・・ムックとは・・・magageneとbookの混成語。

井出孫六終わりなき旅」(岩波書店 1968年刊)のある一節です。

(前略)・・・・・・わたしは最近、「残留孤児」を支援するある一つのボランティアの集まりで、敗戦の年の八月二十七日に牡丹江から列車で一路南下し、釜山港から一隻のチャーター船に幸運にも乗りあわせて帰国したという二人の夫人に会った。彼女らはともに満州国警察官の夫人で、夫の命ずるままに、「東満」の奥地からいち早く脱出する機会にめぐまれたのだが、彼女らの乗りあわせたチャーター船の乗客は、あの細菌戦の石井部隊の関係者ばかりであったという。・・・・・・(後略)

(前略)・・・・・・そのころ長野県農業会窪丹崗報国農場に十代の若ものたちを主体にした報仕隊二百数十名が送り出されているが、報仕隊につきそっていた北沢小太郎さんの証言によれば、任務を果たして五月(1945)帰国した関釜連絡船で乗りあわせた客の大半が高級軍人関係の家族たちだった・・・・・・(後略)

※コメント欄開いています。

今日のNHKドラマ「どこにもない国」・・・1945年敗戦時の旧満州から引き揚げは

2018-03-24 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか

今晩のNHKドラマ「どこにもない国」PM9:00~

1945年8月、太平洋戦争の敗戦時、中国東北部(旧満州)に取り残された日本人同胞150万人(170万人ともいわれる)・・・1946年5月から引揚げがはじまります。
150万人の同胞がいかにして日本の土を踏んだか(実際の引揚げ人数は130万人とも107万人ともいわれます)。

わたしたちが知らなかった・・・150万同胞の祖国引揚げを必死で工作した男たち・・・丸山邦雄、新甫八朗、武蔵正道・・・の物語・・・幣原喜重郎首相、楢橋渡内閣書記官長、吉田茂外相、佐藤栄作鉄道総局長官、GHQ最高司令官ダクラス・マッカーサー・・・実名で登場するドラマです。

丸山邦雄(1903~1981年)・・・長野県下水内郡柳原村(現飯山市)に生まれる。明治大学卒業、満州国昭和鉄鋼所(後に満州製鉄に再編成)入社、敗戦翌年の1946年2月に鞍山を脱出して3月13日に日本上陸、日本の政府要人、GHQの要人に在満州の日本人の引揚げを嘆願。日本上陸から2ヶ月後の1946年5月葫蘆島港からの祖国への引揚げが始まります。戦後は明治大学教授として教育界に。
↑の写真の書籍は
ポール・邦昭・マルヤマ著・高作 自子満州 奇跡の脱出」(柏艪舎 2011年刊)・・・著者は丸山邦雄の三男。
ムック・・・「満洲 NHK特集ドラマ『どこにもない国』を巡る」(洋泉社 2018年3月刊)・・・ムックとは・・・magageneとbookの混成語。

もう70数年前のことです。わたしたちが体験しない過去の・・・歴史の中の物語りになっていますが・・・真実です。

このドラマの第二部が3月31日(土)PM9:00から放映されます。

※コメント欄開いています。

天皇・皇后両陛下が・・・長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」を訪れた

2016-12-10 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
11月17日、私的な旅行で長野県に滞在していた天皇、皇后が下伊那郡阿智村の「満蒙開拓平和祈念館」を訪ねたという記事が新聞に小さく報道されていました。



2013年7月20日のブログから・・・クリック→「満蒙開拓平和記念館を尋ねた・・・南信濃・・・伊那の谷・・・阿智村駒場・・・」



満蒙開拓平和記念館パンフレットより・・・前事不忘 後事之師・・・過去を忘れずに 未来の教訓とする

日中双方に多くの犠牲者を出した「満蒙開拓」とはいったい何だったのでしょうか。
満州開拓者は27万人、死者78000人。約28%。
青少年義勇軍は86500人、死者24200人、約28%。

わたくしたちのあとに続く世代がこんな悲惨なことにふたたびあうことことがないように・・前事不忘 後事之師
わたくしたちには語り継ぐ責任があります。

私的な旅の途中だそうです。
朝日新聞「声」欄で読んだ朝日川柳の一句です。
         天皇の 涙とどくか 海の底

※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。

満蒙の国・・・崩壊のあとに・・・映画「望郷の鐘」を見に行きました

2015-01-31 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
,
1月31日、川越市民会館ーやまぶきホールに映画を見に行きました。

映画「望郷の鐘」の内容はクリック

-舞台挨拶-
山田火砂子さん・・・監督、エクゼクティヴプロデューサー、脚本、現代プロダクション代表。

中国人マーメイ役を演じた磯村みどりさん・・・かつて小林千登勢、日野麻子と並んでNHK3人娘といわれた美人女優さん。

音楽を担当した後藤やす子さん(シンガー名・朱花)。主題歌『僕たちは忘れない』の作詞・作曲。

山本慈昭師の長女(子ども時代)を演じた上野神楽ちゃん。

花束贈呈。

川越市民会館やまぶきホール・・・500席はほぼ満員でした。

ホールを出ると、すぐ近くに小江戸川越のシンボル・・・時の鐘


映画「望郷の鐘」・・・美しい信州の伊那の谷、阿智郷長岳寺の梵鐘「望郷の鐘」が鳴らされるシーンから映画は始まります。
村びとが大きな希望を持って渡満していきます。やがて敗戦、逃避行がはじまります。満蒙開拓団阿智郷1071人、生きて日本に帰ったもの42人、うち山本さんとともに渡満した国民学校の生徒51人のうち帰還者は6人。山本さんは異国の地に残った子どもたちを追い求めます。
満蒙開拓とはなんだったか・・・満州国という国を作って国策として入植活動を進めた国が国民を騙したのか。国民が騙されたのか。入植した側と入植された側、敗戦後の逃避行の悲劇はここからはじまります。映画では逃避行のキツイ描写は避けています。
満州事変が起きて、日中戦争にはまり込んで、太平洋戦争に進んでいった。歴史にifはないが、日本が満州国を作らなかったら。
映画のラスト近く、山本さんと再会した娘さんが信州最南の天龍村の平岡ダムの畔、中国人捕虜慰霊碑の前でジャガイモを食べるシーンがあります。ここでは中国本土華北から連行されてきた880人の中国人捕虜が強制労働、うち死者62人、失明など40人の犠牲者が出ています。

わたしたちが知らないもう70年以上前の満蒙開拓の悲劇からわたしたちは何を学べばイイのか・・・次の世代にこの歴史をどう正しく伝えていくか。

※写真1枚目、9枚目は映画パンフレットから。ほかはポケットカメラLUMIX TZ40 フラッシュなし、シャッター音なしで。無断使用、無断撮影ですが映画PRのためですからご容赦ください。

※コメント欄オープン。

満蒙の国・・・崩壊のあとに・・・映画「望郷の鐘」のお話しです

2015-01-28 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
,
1月31日、川越市民会館ーやまぶき会館ホールに映画を見に行きます。


   「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日

主な出演者
内藤剛史、渡辺 梓、李 麗仙、星奈優里、常盤貴子、市川笑也、奥寺康彦(元サッカー選手、横浜FC社長)、松沢大輔(友人の孫です)

満蒙開拓とはなんだったのか
あの戦争で日本は中国大陸東北部に「満州国」という国家を作り、「開拓」という名前で約27万人の農民を送り込みました。1932年の第1次武装移民を皮切りに1945年5月まで続きます。

表向きのスローガンは「五族協和」「王道楽土」で「すべての民族が仲良くして、理想の国を作ろう」ということです。実態は西欧列強の模倣をした植民地政策でした。

その当時の日本は世界大恐慌のあおりを受け、農村は疲弊、貧困のどん底、農民たちは政府の国策にそって生まれ故郷を捨てて新天地に活路を求めます。
日本政府は1世帯あたり20町歩の耕地を約束します。その開拓地は実は現地住民から略奪に近い安価(1㌶10円、それが現地住民にとって妥当なレートであったかわかりませんが饅頭1個5厘として2000個分です)で強制収用したもの、ほとんどの渡満者はそのことをあとから知ったようです。満蒙開拓青少年義勇軍、勤労奉仕隊という組織もありました。戦争が激しくなると開拓者の成人男子の根こそぎ兵役徴用が行われ開拓村には老人と女子供たちだけが残りました。
1945年8月9日、ソ連軍が国境線を越えて進攻してきます。このときソ連軍の進攻を予測していた日本陸軍(関東軍)は南部で迎撃すると称して軍隊を秘かに南下させていました・・・しかもソ連軍の進攻を遅らせるため橋や鉄道を分断して。満蒙奥深くから開拓民は撤退をはじめますが軍隊の守らない弱者、土地を収奪した日本人として、こんどは逆の立場で「五族協和」のメンバーであったはずの現地住民から攻撃をうけます・・・すべての現地住民が暴徒になったわけではありません。
かくして満蒙開拓団の逃避行は各地で悲劇を生みました。満州開拓者27万人、死者7万8000人、約28%。 青少年義勇軍8万6500人、死者2万4200人、約28%。

さて本映画の主題「山本慈昭師」の話です
南信州阿智郷長岳寺の住職で小学校教師だった山本慈昭師は、1945年5月、請われて南信州の阿智郷開拓移民団の小学校の教師として一家を上げて渡満します。1945年5月といえば沖縄では住民を巻き込んで熾烈な地上戦が行われているさ中、東京は3月10日に大空襲を受け市民10万人が一夜にして犠牲になったあとです。
ソ連参戦・敗戦で避難行をはじめますが途中で自身はソ連軍の捕虜としてシベリアに送られ家族は離ればなれに。シベリアから帰国したとき奥さんと子供たちの死を知らされます。いっしょに渡満した51人の生徒たちで帰国していたのは6人だけ。
やがて天龍村の平岡ダム建設のために使役させられていて死亡した中国人捕虜の遺骨収集に加わり、遺骨返還訪中団の一員として1964年中国で周恩来首相と面談、そのころから中国残留孤児探しの活動をはじめ、1972年日中国交が開かれると「日中友好手をつなぐ会」の会長に。1980年残留孤児探しの訪中調査に。
山本さんは年金と住職としてのわずかな収入のほとんどを中国残留孤児探しの運動につかっていたといいます。満蒙の地に散った教え子たちへの贖罪だったのでしょうか。その後、肉親にめぐり会えなかった方の一人が山本さんの娘さんを探し出してくれたそうです。90歳、100歳までこの仕事を続けるとがんばっていましたが88歳で天寿を全うします。

わたしたちは、このお話から何を学べばいいのでしょうか。
和田登作望郷の鐘」(しなのき書房 2013年刊)を図書館でリクエストしてようやく読むことができました。

(井出孫六著「終わりなき旅」岩波書店1986年刊・・・の文中より
開拓」ということばは辞書を引かずとも「山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にする」ことの意であることは明らかだが「満蒙開拓」とは多くの場合「現地住民の汗の結晶である既耕地を奪い住居を奪い、そこに住むこと」であったとすれば「満蒙開拓」という言葉それ自身が、ためにする謀りのことばであったということだろう。

※コメント欄オープン。