比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

彩の国・嵐山町・・・中世の城郭「菅谷館跡」・・・イカルの群れに遇いました

2017-04-10 | 生き物大好き 冬・春の野鳥
彩の国比企丘陵の嵐山町、国指定史跡「菅谷館跡」の散歩です。
「菅谷館跡」は都幾川の河岸段丘に沿って土塁、空壕がそのまま残る中世の城郭です。
鎌倉時代にこの土地を支配した畠山重忠の居館といわれますが確かなことは定かでありません。

春の妖精の蝶たちに逢いたくて徘徊しています。ミヤマセセリ、コツバメシジミ、トラフシジミ・・・いろんな蝶に逢いました。
本郭の草原には早くもホソオチョウが飛んでいます。

ふと・・・上を見上げるとイカルです。




※撮影は3月29日 Panasonic LUMIX DMC-G7 H-PS100~300mm。
イカル・・・スズメ目アトリ科イカル属、23㎝前後、関東では冬に見かけるが夏には見かけないようだ。山林で繁殖、冬には大群で行動するのを見る。太い頑丈な嘴で固い木のみから昆虫、草の実なども地上捕食。この日は欅の新芽をつついているように見えた。

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北陸の旅・・・加賀百万石・・・前田家の・・・金沢城

2017-04-10 | 古城・城址・陣屋・館跡
2016年12月、北陸新幹線で金沢へ・・・兼六園から金沢城の散策です。
ホントは兼六園は金沢城の外郭に造られた付属庭園みたいなものですが、観光客は兼六園をメイン、オマケで金沢城を回るようです。

※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・

金沢城・・・戦国時代は浄土真宗の寺院「尾山御坊」・・・加賀一向一揆の拠点。織田信長が一向一揆を攻め滅ぼし、1580年佐久間盛政が城主になり築城を開始、佐久間盛政は柴田勝家に与し羽柴秀吉に滅ぼされ、1583年前田利家が城主に、1587年大改造開始。1592年天主閣建築、1602年天主閣が落雷で焼失。1871年廃城、1973年国の財産に、1975年陸軍歩兵第7連隊が置かれる。1881年石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫を残して火災で焼失、1898年陸軍第9師団が、1949年金沢大学に、1996年国有地かラ県有弛に、石川県立金沢城址公園に。2008年国指定史跡。

石川櫓石川門・・・2013年改修(国の重要文化財)。



金沢城のシンボル的な構築物・・・菱櫓五十間長屋(約66m)・・・2001年復元(残存遺構の修復ではない)。
右側の菱櫓から左側の橋詰続櫓まで繋ぐ約100mの長大な建造物・・・白の漆喰壁、海鼠壁、明灰色の鉛瓦、入母屋破風、唐破風・・・コントラストが見事。
※撮影は2016年12月19日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。

《加賀百万石の光と影》
1583年前田利家の入城以来、加賀国は素晴らしい伝統文化を育てました。加賀宝生流能、茶の湯、加賀友禅、久谷焼、金箔、豊かな国のなせる技です。前田利家入府以来、前田家が経営した加賀藩の280年の太平がもたらしたゆえともいえます。
前田利家入城前・・・1488年~1580年まで「加賀は百姓のもちたる国」といわれました。浄土真宗の僧侶、信徒の百姓らが室町幕府の守護大名富樫氏を滅ぼし共和国家を造ります。後に加賀一向一揆といわれます。戦国時代に入り織田信長により百姓の国は壊滅。信長の侍大将前田利家は百姓1000人余を処刑。そのことが明らかになったのは1932年越前武生の小丸城址から出土した瓦に焼きこまれた文字からです。この瓦文書の・・・真否は。いつの時代においてもイクサは残酷なものです。
1858年明治維新の10年前、冷夏、長雨で米の凶作、米価の高騰、百姓たち2000人余が御蔵米の放出を求めて卯辰山から金沢城(その間の距離1.7㎞)を目指してシュプレヒコールをくりかえしながらデモ行進を行います。「安政の泣きの一揆」です。泣き声が城内に届き御蔵米の放出が行われ米価が安定したそうです。このとき無届デモのため一揆責任者7名が御定法により処刑。今でいうと共謀罪です。

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