昨日、出かけたので洗濯・掃除などは今日の午前中に集中してやる。猛暑が戻ってきて、しかも湿度が高いからしばらく働くと息が切れる。洗濯物を干し終えたら椅子に座って一休み。部屋に掃除機をかけたら、また一休み。トイレ掃除をしてまた一休みと、ペースが落ち気味。去年の夏もこんな感じだった。蒸し暑さだけでなく、年齢のせいもあるだろうけど。
クリーニング出しまでやって、そのあと自転車で出かける。夏場は夜のイベントが多いから、トップページレポートにもいきおい、夜の光景が多くなる。それではワンパターンなので、夏の暑さも戻ってきたから今日は昼間の青空を載せようと思った。旧江戸川沿いの道を行徳橋あたりまで走るが、空はどうも雲が多めで青空は少し写しにくかった。例年なら行徳地区からの花火観覧会場になるあたりを写して、今年の花火が中止になったことと絡めて、トップページのレポートとすることにする。
これは新行徳橋から行徳橋付近を写したもの。放水路の浅いところで釣り糸を垂れる人がけっこう多かった。
徳願寺のところまで来て、本行徳一丁目の自治会掲示板を見ると、行徳五ヶ町の今年の祭礼は神輿渡御を行なう大祭に決定したと出ていた。10月15日(土)と16日(日)とのこと。つまり、15日(土)が宵宮で16日(日)が神輿の出る本祭。
徳願寺の門のそばにある掲示板には、次の土曜日(13日)に行なわれる、寺町通り・徳願寺ライトアップと東日本大震災復興支援チャリティコンサートの案内が出ていた。チャリティコンサートは18時30分開場、19時開演で約1時間の予定との事。開場は徳願寺本堂。確か、これについては、先週の行徳新聞にも出ていた。
バイパスに出たところにあるくるまやラーメンで昼飯。この店で好きなのは味噌ラーメンだけど、暑い季節だから今回は冷し中華にする。これが、今シーズン最初の冷し中華だ。
スーパーで買い物をして帰り、夕方にトップページレポートを作ってUP。
晩飯は南行徳公園東南角のところにあるそば屋の大黒屋へ。
軽く飲みたかったのでビールを1本。
つまみに奴豆腐(冷奴だがこの店のお品書きではこういう名前だった)。
そして、かもせいろ。
こういうふうに食べながら、軽くビール1本ぐらい飲むのもいい。
大黒屋の向かいが居酒屋オンドリ。7月はじめに閉店したときから、まだ変化はない。閉店のお知らせの紙もそのまま。建物も、ガラス越しに見える中の様子も閉店直後と同じ。
これは、昼前に写したものだが、こちらの角度からガラス越しに、店内に貼られたお品書きが見える。写真の○のところ。
人間の目だとはっきりと「カマス一塩焼」と分かるのだが、暗い店内の貼り紙だから、カメラだとなかなかうまく写せない。
閉店前に最後に行ったのは7月1日だったが、そのときの「本日の逸品」がカマス一塩焼だった。「本日の逸品」というのは3年か4年ぐらい前から貼り出されるようになっていた。その日の「本日のおすすめ」の中でも一番おすすめだったり、一番モノがいいのを「本日の逸品」にしていた。
7月6日の朝に前を通ったときは「本日休業」の貼り紙がされていて、翌日7月7日の朝には閉店のお知らせが出ていたから、6日中にマスターは閉店を決断して即、実行したのだろう。「本日の逸品のカマス一塩焼」がまだ店内に残っているということは、おそらく、ぎりぎりまで通常通り店を続けようとしていたのだろうと思う。何年か前に、マスターと他のお客さんとの会話だったが、オンドリは実際は会社の形になっているということだった。名前ははっきりと覚えていないが、「オンドリ」という言葉は入っていなくて、カタカナ名だったように思う。突然死のような急な閉店だったから、おそらくはその会社のほうがお金の面で行き詰ってしまったのではなかろうか。
閉店から1ヶ月という区切りでもあるし、閉店直後にトップページレポートを書いたあと、いろいろと考えたことや、書き漏らしたことをこの機会に書いておくことにする。昼間、ガラス越しに見える「カマス一塩焼き」を写したのも、そう考えていたからだ。オンドリ閉店のことで、メールをいただいた人へ、返事に書いたこととも重複するが。
この2年ぐらいの間だが、お会計のときにレジの前に細長い紙に書かれたこんな標語があるのに気付いた。
「お客様に非日常の体験を」
貼られてからけっこう時間が経っているようだった。レジはアルバイトが主担当だったから、その前に貼ったのはアルバイト教育のためだったのだろうと思う。標語はまるでテーマパークのコンセプトのようだ。これが店のコンセプトだったにせよ、いつ頃からそうしたのだろう。オンドリの開店は1983年(昭和58年)だから、東京ディズニーランドの開業と同じ年。でも、東京ディズニーランドもその当時はまだ成功するかどうか分からなかった頃だから、ディズニーの影響などではないだろう。1993年(平成5年)にオンドリが店を大改装したときに、
「食と酒を満たすオンドリ」
のロゴができた。この頃には、上記のフレーズそのものがマスターの頭にあったかどうかは分からないが、そうしたことが店のコンセプトになっていたのではないかと思える。
飲食業界のことには自分は全然、詳しくはないが、他の業界と同じようにコンサルタントがいたり、業界の専門雑誌があって、店の作り方について教科書的なことや、あるいはその時代の傾向と対策なども書いてあったりするだろう。東京ディズニーランドも開園から数年経過して成功したら、テーマパーク的なコンセプトがあちこちの業界に影響してもおかしくはない。
マスターがときどき、
「うちの料理は酒に合うように作っている。」
と言っていた。酒に合うから、メンチカツなどもちょっと脂分が多めだったりする。だから、食事として1日3食そうしたものを食べれば、生活習慣病が確実だ。だから、あくまでもときどき酒を楽しむためのつまみ。たまに味わう非日常。
オンドリのマスターはサラリーマンをやめて店を開いたというから、つまりは居酒屋としては後発組になる。後発組はふつうのことだけやっていては、世の中に数多くある先発の店に対抗できない。だから、他がやらない特別なことをやらないといけない。酒に合う料理も、いろいろな地酒を入れるのも、家飲みや、先発組の店では味わえない、特別な体験を提供することだったのだろう。まさに「お客様に非日常の体験を」であり、それが店のコンセプトになっていったのだと思う。
カウンターの中のマスターは寡黙な職人としての部分以外はなかなか見せなかったから、こうしたことは振り返ってみて、あらためて分かることだ。だけど、開店から数年はバブル景気が後発組の店にとって後押しとなっていたが、そのあと、バブル崩壊から20年、よく続いたものだ。それは、特別なことをやると同時に、お客さん相手の商売として基本的なこと、当たり前のことをきちんとやってきたからでもあると思う。「非日常の体験」といっても、店がきちんとしていて、気持ちよく帰ってもらえるというのは店としての基本だろう。オンドリよりあとに出来て、すでに閉めてしまった店のことを思い出すとよくわかる。
南行徳公園を挟んでオンドリの対角側の交差点のところには、HATA亭と源さんという2つの店が存在した。どちらも自分が通った店。
HATA亭の店主の畑さんは有名ホテルのシェフ長まで勤め上げた人で、定年後に店を開いたとのこと。料理の腕は抜群で、店を1人で切り盛りして安い値段でおいしいものを食べさせてくれた。でも、料理人としてのプライドの高さがあるためか、とにかくお客さん相手にウンチクやら、どこそこのホテルに派遣されてそこのレストランを立て直したとかいった自慢話をしたいという欲求を抑え切れなかった。それが気に入らなくても、面と向かって言うと気まずくなるだろう。日本人は特にそういうことを、はっきりということをためらう傾向が強いようだし。だから、ウンチクや自慢話を聞かされることが気に入らないと、その店に行かないという選択肢を選んでしまう。
それからもうひとつ、畑さんは料理を出して客が食べ始めると、
「おいしいですか?」
と聞く癖があった。料理人、そして職人として自分が作ったものを相手がどう評価するか気になるのは分からないでもない。でも、言葉が穏やかにせよ面と向かって聞かれるのは相手にとってもストレスになる。大人の対応で「ええ、おいしいですよ。」と答えたとしても、心の中ではその料理人から「俺の作ったものはおいしいだろう。」と強引に思わされるように感じるのだ。おいしくて、またその人の料理を食べたいと思ったら、客は再びその店に来るという行動で示す。
似たような人が他にもいたことを思い出した。やはり数年前、行徳駅前公園のそばに出来たイタリアンの店で1年続いたか続かなかったぐらいの店だが、そこのマスターはお会計のときに「おいしかったですか?」と聞いてくる人だった。ディナータイムに1回、ランチタイムに1回行っただけだが、確かに料理はおいしいと思えた。でも、お会計のときに、ひどくしょぼくれたような表情で、気が小さい感じのマスターが、心配性の人のような口調で「おいしかったですか?」と聞いてくると、またこの店に来たいという気持ちが失せてしまう。ちゃんとした料理人がやっている店ならおいしいのは当たり前。マスターにはどっしりと構えてもらっていたほうが、客としては信頼感や安心感といったものを感じる。それはけっこう大事な点だ。わざわざ「おいしかったですか?」などと聞かれるのは、味覚で感じたものに対してマイナスにしかならない。
HATA亭の畑さんは、
「うちは素人がやっている店とは違う。」
と、ときどき言っていたけど、今、こうして振り返ってみると、あの人は厨房の料理人としてはプロ中のプロだったのだろうけど、対面でお客さん相手の商売をやることについては素人だったのだ。お客さんもしだいに離れて行ったようで、結局、5年ぐらいで閉店した。
自分はというと、確かにウンチクや自慢話や、「おいしいですか?」と聞かれることにはうんざりしていたが、適当にかわしつつなんとか通っていた。腕が抜群のシェフが作る料理はやっぱりおいしかったから、食い意地がうんざりを辛うじて上回ったと言っていいだろう。うんざりはあったが、おいしいものをいろいろと食べさせてもらえたことには、いまでも感謝している。
その畑さんが「素人がやっている店」とバカにしていたのが、角を挟んで裏になる源さん。(ちなみにHATA亭の場所は、その後、買った人が建物を建て替えて、1階が定食の大谷亭になっている。源さんのあとは、夜9時ごろから開店する、大衆酒場関商店になっている。)
源さんは会社を定年退職してから居酒屋を始めた人で、料理についても素人だった。でも、別にウンチクを語るわけでもないし、店に置いてあるコミック誌を読んだり、テレビを見たりしながらまったりとすることが出来た。変に緊張感がない分、自分にとっては居心地のいい空間だった。自分は開店して間もない時期に初めて行ったので、やがて常連になったが、逆にこうした店は新しいお客さんを呼び込む力は不足していただろう。8年ぐらい続いたが、後半はいつ行っても、いるのはほとんど同じ面子だった。源さんは最初、船橋で「健康居酒屋源さん」という店を開いたが、立ち行かず、そこを閉めて、南行徳に新たに店を開いたということだった。だから、70歳を超えて年齢的にもきつくなったし、店もそれほど儲からず苦しいということで、結局閉店してしまった。
この2つの個人経営の店が、どちらも2000年ぐらいに開店し、5年や8年程度で閉店したことを考えると、バブル崩壊から20年続いたオンドリは大したものだと思う。マスターは「非日常の体験」をお客さんにしてもらって、気分よく帰ってもらうことを常に考えていたのだ。ある意味、テーマパークがやっていることを、自分が経営する居酒屋でやっていたともいえる。それが、後発組みの店が成功するために必要なことだったからだろうけれど。例えば、アルバイトの立ち位置はいつも決まっていた。伝票を付けたり、食器を洗ったりするとき以外は、常にカウンター・小テーブルのある側と、仕切りの向こうの大テーブル・座敷の境界のところ。注文したくても店員が誰も見ていないということにならないように気を配っていた。
最後にはリーマンショック、そして東日本大震災で環境が悪化し、ついに力尽きたわけだけど、閉店ぎりぎりまで店はちゃんと掃除されて、きちんとしていたし、料理の質も落ちなかった。いや、それはお客さん相手の商売として当たり前のことだろうけど、景気が悪くなり、お客さんが減って、経営が苦しくなると、気持ちが腐ったり、すさんだりして、当たり前のことができなくなったりする。でも、オンドリのマスターは最後まで、そうした当たり前のことも含めてきちんと仕事をし続けた。それは、職人の生真面目さだっただろうと思う。会社をやめて、小さい居酒屋を始めたのだから、マスターは集団の中で生きるのは苦手で、むしろ職人のほうが向いているのだろう。自分も理科系学部を出た技術の世界の人間で、リーダーシップをとるようなことは苦手。どちらかというと職人的な仕事が中心になってしまう。だから、職人としてきちんと仕事をし続けた人には、敬意を表したくなる。
オンドリのマスターが、「お客様に非日常の体験を」してもらう特別なことも、店の基本である当たり前のことも、ずっとやり続けた、そういう職人のまじめさを支えたのは、やはり仕事への情熱だったと思う。情熱と言っても、集団を引っ張るリーダータイプの人が見せるような熱い(というか時には暑苦しくもある)情熱ではなく、あまり表面には出さない静かな情熱だ。それが、あったから、店が苦しくなっても最後まできちんと仕事を続けられたとのだ思っているし、自分もそういうところは見習いたいと思う。実際、自分の仕事、生活、Webサイトを作ることで苦しい状況になったときに、果たしてどこまで出来るかは分からないが。
そして、自分も50代に入って、酒の量も食べる量も減らしていかなかればならないのだが、でも、これから新しい店(まだ足を運んでいないが既にある店か、あるいはこれから開店する店かもしれないが)に出会うなら、それが、オンドリと似たタイプの店であれ、あるいはまったく違うタイプの店であれ、そういう情熱を持った人がやっている店に出会いたいものだ。