友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

小説『モーリス』が抱える問題

2019年01月27日 17時44分19秒 | Weblog

  フォースターの小説『モーリス』は、14歳から始まる。モ―リスは使用人が何人かいる中流家庭の長男で、父親は亡くなっていて、母親と下にふたりの妹がいる。この家族構成が彼の成長に大きく影響しているようだ。「父親のようになりなさい」が口癖の母親と兄に無関心な妹たちの中で、彼は使用人の少年と裸でよく遊んでいた。

 パブリック・スクールに進学する彼にひとりの教師が、「父親がいなかったね」と念を押し、図を描いて性教育をする。祖父の書棚にあったギリシアの書籍に興味を持ったこともあったから、性に関して全く無知ではなかったはずだ。ケンブリッジ大学に進学し、そこで雄弁家で理知的な美しい、地主階級の青年と出会い、互いに何かを感じ合う。

 異性でも同性でも、「何かを感じ合う」ことが「愛の出発」なのだ。私は自分を振り返ってみると、幼稚園に通っていた時から好きになる子は女の子だった。友だちは男の子だったが、女の子に抱くようなものは全く感じなかった。女の子なら誰でも好きになったのかと考えてみると、そうではない気がする。なぜ、人は好みがあるのだろうか。

 逆に、男の子が寄ってきたことがある。中学1年の時、同じクラスの男の子から「一緒に帰ろう」と誘われて、ふたりで遠回りして帰った。色白でなよなよしていて、女の子のような子で、だから女生徒とキャーキャーワイワイと平気で話せて羨ましかった。学年が変わってからは1度も話したことがないが、彼は悩みを抱えていたのかも知れない。

 モーリスは雄弁家に惹かれ、やがて唇を重ね、愛し合うようになる。けれど、大学を卒業した雄弁家は結婚し、「モーリスとの愛は終わった」と宣告する。悩み苦しみ絶望するモーリス、ところが雄弁家の使用人の青年とベッドを共にし、再び「愛」を感じるが、階級社会の残る時代では、同性愛は犯罪で更に階級を超えた「許されない恋」である。小説はここで終わっている。

 

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