友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人生を振り返ると

2019年01月17日 17時26分28秒 | Weblog

  北側の窓から真っ黒な雲が見える。飛騨は雪降りかも知れない。大動脈瘤の手術を受けた、私よりも一回り程若い友人が、集中治療室から一般病棟へ移ったと知らせて来た。明日にでも見舞いに行って来ようと思う。まだ若いのだから出来る治療は受け、ぜひ、以前の健康な身体に戻ってもらいたい。

 他人のことだから、そんなことを平気で言えるが、もし今の自分であったら、手術など受けたくない。苦しいのであれば鎮痛剤を打ってもらうが、身体を切りひらいてまで生きながらえたくない。痛みに対して私は我慢強い方なのか、若い時、医師から「我慢し過ぎはダメですよ」と注意されたことがある。

 自分の人生を振り返ると、稀勢の里ではないが、「一片の悔いもない」。もちろん「悔い」ばかりの人生だったことは認めるし、「ああしなければよかった」と思うことはいっぱいある。けれど、過ぎ去った過去は取り戻せないし、たとえやり直せるとしても、やり直す気は全くない。ここまで生きて来たことが自分の人生で、別の人生を望むつもりはない。

 高校生の頃、文芸部の友だちに頼まれて「詩」や「小説」のようなものを書いた。その友だちは、ねじめ正一氏の『荒地の恋』を読んだのだろうかとブログに書いた。「荒地」の詩を話題にしたことがあったのか知りたかったが、友だちの文面にはそれらしいことは書かれていなかった。私が「荒地」を知ったのは、大学に入ってからのようだ。

 あの頃、新左翼の学生たちのシンボルだった吉本隆明氏は、荒地の詩を高く評価していた。その詩人たちの反体制的な生き方と思っていた無軌道な生き方は、生きること、欲望に真摯であり、普通の価値観とは相容れないものだった。文芸部ではそんな詩人たちが話題になることはなかったのだ。友だちの好きな人に恋してしまうことのない青い時代だった。

 「反体制をよし」とした年代の人々も、おそらく古希を迎えているだろう。泣いても笑っても怒っても、もう終末期に入っているし、鬼籍の人もいるかも知れない。明日の夜は看護師2年目の孫娘との「デートだからね」とカミさんが言う。

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