友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

良いお年を!

2018年12月28日 17時55分39秒 | Weblog

  アメリカからの客人たちはもう成田に到着したのだろうか。サクラメントからロスアンジェルスに、そしてそこから成田へと向かい、成田からセントレアに来て、友だち家族の迎えの車でこの街へやって来る。あと、4時間もすれば顔が見られる。飛行機の長旅は結構疲れるが、大丈夫だろうか。

 今年はどんな年だったのかと、テレビはいろいろ報道しているが、私にはあまりよい年ではなかった。愚痴っている友だちがいるが、幸せだったからそんなに嘆くことが出来るのだ。何でもないまま年の暮れを迎えると何だか空しさしか感じない。

 友だちは、いわゆる「老いらくの恋」に夢中だった。こんな歳になっても「恋する」ことが出来るのは羨ましい。デートを重ねるうちに、「耐えられなくなった」と言う。名所を観たり、食事をしたり、その時は「こんなにも幸せ」と感じ、それで充分満足だったのに、彼女の横顔や細く長い指先を眺めていると次第に「触れたくなってしまった」と言う。

 いくら年寄りでもやっぱり男は同じだ。そして、「触れたい」と告白した。それは恋の終わりでしかなかった。音信は途絶え、友だちは覇気を無くした。それで、日常に溶け込もうと努めている。まあ、いいじゃーないか、今日のドラマではないが、「生きていればまた巡り合える」。人生はいつもそんな気がする。

 「もう一度会いたい」と、恋する人はいつも願う。しかし再び会える人はいないだろう。「結婚は誰でも出来る。けれど、恋愛は誰もが出来る訳ではない」のだ。恋する人がいたことは、幸せな人生だったことに間違いない。今年もあと3日。明日から1月3日まで、ブログは休みます。皆さん、良いお年を!

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年賀状を投函する

2018年12月27日 17時48分05秒 | Weblog

  年賀状は投函した。戸棚も拭いて整理した。アメリカからの客の布団やくつろげる場所も整えた。明日は我が家の掃除をしなければと思っている。明日の夜にはこのマンションに到着するので、まずは泊まってもらう部屋に案内し、使い方などを知らせる必要がある。アメリカから4人の女性を迎えるのに、お姉さんを除く3人は日本語は話せないという。

 私もカミさんも英話で会話する力がないから、お姉さんに頼ることになるが、お姉さんを除く3人が我が家が提供する部屋に泊まるので、ワクワクした気持ちと大丈夫かという不安が混在している。にも拘わらず、何とかなるさと思っているのだから厚かましい。明日の夜は早めに休んでもらい、明後日はゆっくり過ごして、30日の夜は大学の先生夫婦や誕生日会の人たちに来てもらい、我が家で歓迎会を開く。

 私たちがアメリカへ旅した時、ご近所の方まで来て、ワイワイと歓迎会をやってもらった。もっと英語が話せたら、きっと楽しかっただろうにと思ったが、英語の勉強をサボったので取り返すことは難しい。30日の歓迎会では大学の先生夫婦に、客人が退屈しないようにお願いしたい。大勢の人がいるのに、何も話せないのはいっそう寂しさを感じるから。

 年賀状を書いていて、今年は喪中の人が多いと感じた。調べたことはないが、毎年確実に増えているだろう。そういう年齢になってきたのだ。喪中を知らせるハガキのなかに、「こちらより賀状をお送りすることは控えさせていただきますが、貴家からの年賀状は毎年とても楽しみにしています。こちらの喪中はお気になさらずお送り頂けたら幸いです」という文面のものがあった。既に書いてしまってあったので、ホッとした。こういう気の遣い方もあるのだと感心した。

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凄まじい男女の愛

2018年12月26日 18時26分12秒 | Weblog

  孫娘は友人の結婚式に参列し、驚いたことがあると言う。新婦の両親は離婚した後、それぞれが新しいパートナーと再婚したが、新婦の父親として参列したのは、別れた実父だったという。母親と再婚した男性が、前の夫に席を譲ったことに驚き感心したのだ。

 私の友だちの娘さんは2度離婚しているが、友だちは離婚した相手の家との交流を続けている。娘さんが離婚した相手が再婚した人は、娘さんの友だちという。私の知り合いにも、恋愛の相談をしているうちに、相談相手と恋愛関係になり、結婚した。

 複雑のように思うのは、どうやら思う人の感性が古いようだ。離婚を悪いことだと考えたり、離婚を双方の醜い争いと勝手に決め込んでいる。離婚しても、夫婦の関係から友人の関係に変わっただけの人たちもいるのだ。

 離婚して新しい家庭を持った2組が、友人として家と家を往き来している。私には信じられない感覚だが、「えっ、どうして?」と逆に聞かれて、どう答えていいのか分からなかった。愛の形を固定概念で見てはいけないと理屈では分かっても、なかなか本当に理解できていないのだ。

 ねじめ正一氏の『荒地の恋』は、詩人グループ「荒地」の凄まじい男女愛の物語だ。高校時代から詩作りに興じて来た友人たちだが、中年になって、友人のカミさんに恋してしまい、家庭も仕事も捨ててしまう。主人公・北村太郎は破綻した生活を迎えるが、逆に詩が書けるようになる。

 しかし、友人のカミさんは、友人を支えることに生き甲斐を感じている。泥沼状態にありながら、北村は若い女性と巡り合い、肉体関係を持ち続ける。そして多発性骨髄腫となり亡くなる。実在の詩人たちの何ともやりきれない生き様が淡々と綴られていて、読むうちに気が重くなる。

 青春時代の親友との恋のバトルにならなくて、私たちはよかったと思う。思っているのは私だけなのかも知れないが‥。

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年賀状の宛名書き

2018年12月25日 18時08分28秒 | Weblog

  年賀状の宛名書きをしていて、中学の同級生の女の子はどうしているかと思った。成績はいつも一番で、高校もトップで津田塾大学に進学した。大学1年の時、帰郷した折に一度だけ、夜に2時間くらい話したことがあるくらいで、親しく話したことはなかった。私は子どもの頃から、自分の力で生活できるとは思っていなかったので、結婚相手は資格を持つ女性と決めていた。

 成績優秀な彼女なら結婚相手にふさわしいと思ったが、とても私など相手にされないと思ってもいた。多分、その夜は、彼女の意向が知りたかったのではないかと思う。それ以来、文通することもなかった。中学のクラス会に現れた彼女は双子を連れていて、ひとりは障害児だった。「この子よりも先に絶対死ねない」と言っていたことを思い出す。結婚した相手は市長候補とまでいわれた有能な人で、家は立派な構えだった。

 背が高く、スリムで切れ長の目の美人だったから、幸せな結婚相手に巡り合えたはずだ。彼女は恋愛結婚だったのだろうか、そんなどうでもいいことを思ってしまった。「結婚は誰でも出来る。けれど、恋愛は誰もが出来る訳ではない」。津田塾大学の三砂先生の講演だった。私は逆に、「恋愛は出来ても結婚は出来ない」と思っていたので、目からうろこだった。幸せも不幸せも、考え方次第な気がする。不幸とばかり思っていては、決して幸せになれない。

 先日、担任が苦労して作ったクラス誌の復刻版を届けようと彼女に電話したら、「要らない」と言われてしまった。「今、断捨離の最中」と言う。過去を捨てたいと思っているのだろうか。彼女の苦労は知らないが、私は年賀状に、「過去を棄てられなくて、先生の息子さんと文通しています」と書いた。確かに周りには余分なものが多すぎる。どんどん整理していかないと、自分が死んだ時、残された家族が困るだろう。私もそう思った。でも、家族が一番困るのはお金にまつわることだ。『週刊現代』がそんな特集をしていた。

 お金を持たない私は、だから何も悔いはない。私の物は全部捨ててくれればいい。そう思ったら断捨離などする気がなくなった。死んでしまえば、「後は頼む」としか言いようがない。

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4歳児の知恵

2018年12月24日 17時49分54秒 | Weblog

  年賀状の宛名印刷が出来たので、賀状の文面を書き始めている。生きている証明のためだとはいえ、文面を書くのは骨が折れる。メガネをかけても、はずしても、文字がよく見えない。自分の意思と違った文字になってしまう。最近、何故か焦点が合わせづらい。ボチボチやるより仕方ないようだ。

 「柱蹴り ゲタ箱蹴って バケツ蹴り 怒り静める男 四歳」を、中日歌壇の選者の島田修三さんは年間賞の優秀に挙げていた。私はこの歌が載った時をよく覚えている。読み初めは、何やら面白くないことに怒っている様子が手に取るように分かる。当たり散らしている男は、えっ、4歳と結ばれ、なるほどと納得した。

 子どもだって憤懣やるかたない時はある。泣かずに、柱やゲタ箱やバケツに当たり散らして、本当は涙が出るほど痛かったかも知れない。これも生きていくための修行である。物にぶち当たれば壊すこともあり、お目玉を食らうかも知れない。だからじっと耐え偲び、涙を流すことを選ぶようになるのかも知れない。

 天皇陛下が誕生日の記者会見で、自分を支えてくれた国民と、何よりも共に歩んでくれた美智子妃殿下に、感謝の念を述べられた。聞いている私もなぜだか泣けてきた。日本の政治は天皇を利用して行われてきたが、「象徴」となった天皇はどうあるべきか、自ら模索し演じてこられたことがよく分かる。

 どんなに憤懣やるかたないことがあっても、天皇は決して現わすことが許されない。天皇家の人々が「一般市民になりたい」と言われるのであれば、私はそうさせてあげたいと思う。天皇家に生まれたばかりに、全ての人が有する人権が認められないのは余りにお気の毒だと思う。

 仙台の4歳の孫娘がクリスマスプレゼントのお礼を動画で送って来た。「パパちゃん、ママちゃん、ずっと、ずっと、大好きだよ」。こちらの4歳は、「殺し文句」をご存知のようだ。

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朗読劇『九十歳。何がめでたい』を観た

2018年12月23日 17時58分00秒 | Weblog

  『九十歳。何がめでたい』は佐藤愛子さんの話題の作品を、そのまま朗読劇仕立てにしたものだった。朗読だけだと眠くなりそうな気がしたが、そこはよく考えられていて、佐藤愛子さん役の三田佳子さんを中心に、脇役に井上順さんや石野真子さんらが登場して、面白さに溢れた演出になっていた。

 私はこのエッセイを読んでいないが、どんなことが書かれているかがよく分かったし、90歳を迎えるまでの佐藤さんの波乱の人生を知ることも出来た。生きている限り、人生は「谷あり、山あり」である。「90歳にもなったのだから、ここらでのんびりしたら」と人から言われ、自分もそう思った佐藤さんは、のんびりした途端に生きる気力を無くしたと言う。

 それは実感する。好きな女性がいて、「そのために、どのようにしてどこで逢うか、そしてどこへ行こうかと、考えていた時は充実した毎日だったのに、それが終わってしまったら、生きている気がしなくなった」と先輩が話していた。その時は単なる自慢話のように思ったが、明日の予定がないことほど寂しいものはない。忙しいことを充実と勘違いするが、実はその方が人間にはよいのだ。

 佐藤愛子さんがどんな作家なのか、作品を読んだことがないので知らないが、舞台から察するとなかなか肝の太い女性のようだ。カミさんは「三田さんは上品過ぎて、役に合わない」と言うが、私はよかったと思った。佐藤愛子さん以上に熱演だったのではないか。「やってしまったことは仕方がない。やった人が責任を取るしかない」と言う時、息子への吐露のようにも思えた。

 ああでもない、こうでもない。そんなことはどうでもいい。好きなものを食べ、好きに行動すればいい。結果はついて回るが、それは仕方のないこと。悪ければ次に取り返せばいい。人生は一度しかない。佐藤愛子さんの言葉を聞いていると、なんだか元気になる。締め切り日に宝くじを買ってよかった。当たらなくても、買わなかったことを悔やむよりもいい。そう思った。

 

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小3の孫娘の通知表

2018年12月21日 17時35分27秒 | Weblog

  小3の孫娘の通知表を見せてもらった。1学期よりも確実に成績はよくなっている。「3学期はもう少し頑張る」と自分でも、成績が上がるのが楽しいようだ。「視力もね、0.2が0.6に上がったの」と言うが、「でも、何にも見えない」と零す。「眼科の先生に診てもらった?」と聞くと、「まだメガネはかけなくてもいいと言ってた」と答える。

 姿勢は悪いし、ユーチューブばかり見ているから、目を酷使しているのが原因だと思うけど、今は成長期だ。もう少し経てば自分で気を付けるようになるだろう。孫娘の朗読は小学校の教師であったカミさんよりもうまい。「学校では手を挙げて、本読みするの?」とカミさんが問えば、「別に」と答える。

 私が小学校に入学した時、国語の教科書をスラスラ読める子がいて驚いた。事前に読む練習をすれば出来るようになるのに、小5のある事件まで、予習をすることはなかった。教科書は見なかったが、学習百科事典を見るのが好きで、大陸移動説とか進化論とか歴史上の人物とか、いわゆる「物知り」だった。

 自分が「成績が悪い。頑張らなくちゃー」と思うようになったのは高校に入ってからだ。「英語はよその国の言葉なのにどうして学ばなくてはいけないのか」とサボっていたから、勉強の方法が分からなかった。いつも英語の成績が良い友人に「テスト勉強はどうやったらいい?」と聞いた。「教科書を暗記すればいい」と教えられ、そのようにしたが、その場限りだった。

 成績順を発表した中学では、実力試験は英語以外はまあまあだったから、「実力でやればいい」とヘンな理屈が身に付いてしまった。思えば私は、ズーと自己弁護に生きて来た。これが実力だったのだ。孫娘たちはどうやら私よりは頑張り屋のようなので安心だ。

 明日は三田佳子さんの朗読劇『九十歳。何がめでたい』を観に行くのでブログは休みます。

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新年まで11日しかない

2018年12月20日 17時33分43秒 | Weblog

  考えたら、もう、新年まで11日しかない。まだ年賀状は出来上がらないのだろうか、そう思って印刷屋さんに電話をすると、「ごめんなさい。出来ています」と言う。別に急ぐ訳ではないが、1枚ずつ文面を書いているので、少し時間に余裕が欲しい。それに今年はアメリカから客を迎えるから、その準備の時間もある。

 印刷された年賀状の出来はまあまあだと思う。印刷屋さんは「色刷りも出来ますよ」と言ってくれたが、昭和45年から墨色で印刷してきた。喪中で出さなかった年もあるが、手元にほぼ50枚の年賀状がある。パネルにして展示してみるのも面白いかも知れない。止めようと思った時もあるが、逆に私が死んだら、年賀状の宛先に知らせして欲しいと思い続けてきた。

 カミさんの容体は少しよくなってきたと思うが、それは明日、小3の孫娘と買い物に行くための「カライバリ」なのかも知れない。カミさんの年賀状は宛先も印刷できたから、ゆっくり時間をかけて書けばいい。どんどん枚数を減らして、私の4分の1しかない。逆に私はいったん減らしたのにまた増やしている。これも死亡通知のためだ。

 姉を見舞いに出かけた車中で、義弟は「早く安倍をやめさせなくてはダメだ」と息巻いていた。「金持ちばかりが優遇されるような政治はダメだ」と言い、「野党がだらしがないからダメだ」と指摘する。彼は言外に、「大学まで出て、自分勝手なことをして、政治家にもなれなかった」私が、不甲斐なく思えて仕方ないようだ。

 何も反論できない。情ないが、それが現実だ。貧富の差は大きく開いたのに、それでも多くの人は食べていけない程ではないし、働いている人はよい暮らしを求めている。私たちのような年金暮らしは、金はもう決して増えないから、黙って細々と暮らす以外ない。宝くじは明日が最終日だと宣伝していた。明日、小3の孫娘と出かけるから買ってみようか。

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マンションの役員人事

2018年12月19日 18時12分58秒 | Weblog

  北海道札幌の爆発事故は凄まじかった。あんなに酷い事故なのに、死者が出なかったのは不幸中の幸いだった。不幸中の幸いをこんな風に使ったよいのかと思うけど、取り返しのつかないことはいつどこで起きるか分からない。「生は死の裏返しである」とどこかで読んだが、「死は生の裏返し」でもある。

 もうすぐ89歳を迎える姉は、姪っ子に「すぐ死ぬでね」とよく言う。それで姪っ子は「母さんはそんなくらいでは死にゃーしないわ」と応えている。すると姉は嬉しそうに、「そうかね」と微笑む。早く死にたいのか、少しでも長生きしたいのか、そんな判断もできないようだ。年末年始が近づいてきて、義弟のマンションの役員人事が話題になった。

 義弟が「私は役員をやったが、なかなか役員のなり手がない」と言うと、何を思ったのか姉が、「私が行って一言しゃべってあげようか」と言う。あれ、話の中身がわかっているじゃーないか、そう思った。次に私に向かって、「あんたはやったの?」と聞くから、「ああ、自治会長をやったよ」と答えると、「あんたはエライね」と呟く。

 姉にとっては自慢の弟だったが、内ゲバに巻き込まれ、心配のタネになってしまった。それでも地域新聞を発行し、挙句の果てに首長選挙に立候補した時は少し見直してくれた。「おじいさんが選挙に出た時は手伝いをさせられて大変だった。当選した時は嬉しかったけどね」とちょっぴりプレッシャーをかけることも忘れていなかった。

 今夕、姉よりも少し年上の女性に呼び出された。「自治会長をやって欲しい」と言うので、「一度会長を務めた者はやらないという不文律があるのです。常に新しい役員で運営してもらうためには、古い人がしゃしゃり出ない方がいいんですよ」と説明する。「ひとりの人が何年も会長を続けることは、自治活動を停滞させることになるので、ぜひ、新しい人をみんなで選びましょう」と話した。

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西郷の最期

2018年12月18日 17時50分36秒 | Weblog

  NHK大河ドラマ『西郷どん』の最終回を観たが、すっきりこなかった。西郷が桜島を望む城山で、壮絶な最期を遂げたことは私も知っている史実だが、誰かに介錯してもらったと本で読んだ気がする。銃弾を浴びて天を仰いで死んでいくシナリオもいいが、やっぱりここは最後の武士として切腹し、介錯してもらうべきだったように思う。

 まあ、そんなことよりも私が最も納得できないのは、300人もの仲間を道連れにしたのかということだ。明治政府内の政策争いに敗れて、故郷の鹿児島に戻り、「塾」を開いて後進の教育に当たった人が、各地の士族の反乱に即発されたのか、自らが「軍隊」を組織して政府に物申すために東京へ向かう。西郷は「戦をするためではなく、進言するため」だったかも知れないが、政府にとっては明らかに許されざる行為である。

 なぜ、西郷は単身で出向かなかっただろう。西郷自身も「勝つつもりなどない」と思っていたようだが、それならばもっと他に方法があったであろう。戦争になってしまい、延岡北方の決戦で大敗した。そこで西郷は軍隊を解散するが、どうしても西郷に従う者が300人ほどいて、霧島の山中を歩き回り、故郷の城山に辿り着く。この時、政府軍の山県有朋から「自決」を促す書状が届いていたのに、「回答不要」と拒否してしまった。

 私が西郷の立場なら、自らの命と引き換えに300人の兵士の命を守る、それが指導者の務めだと思う。とてもそんなことが許される雰囲気ではなかったのかも知れない。最後の夜はドラマにあったように、歌を歌い舞を踊った宴であったようだから、自害よりも最後までみんなで闘う決意に満ちていたのだろう。

 西郷と大久保は文字通り竹馬の友であったが、なぜ敵対してしまったのか。世界を見て来た大久保と国内にとどまった西郷の、「新しき国の形」に違いが生まれたのか。大政奉還、廃藩置県、中央政府と進めてきた大久保は暗殺されたが、その後の自由民権運動まで生きていたらきっと満足したであろう。歴史はいつも皮肉だ。

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