友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

他人にものを差し上げる行為のこと

2019年01月19日 17時41分16秒 | Weblog

  春日井の井戸の修理に出かけ、その畑の持ち主のカミさんが「野菜を持って行って」と、大根、人参、白菜、ホウレンソウを山のようにくれた。先輩が車を置きに行っている間、私はその野菜をエレベーターの前まで運んでおいた。その時ちょうど、知り合いの夫人がやって来た。「どうしたの?」と聞くので事情を話して、「野菜を持って行きませんか」と言うと、「ワアー、嬉しい」と喜ばれたので、大根と人参と白菜を差し上げた。

 先輩が戻って来て、野菜が少なくなったのに気付かれたので、「いま、少し差し上げたのです」と説明したが、いい顔はされなかった。しまった。先輩を立てて、了承してもらってから差し上げるべきだったと気付いた。私がいただいた分を差し上げたのだからと勝手に思ったが、先輩にしてみれば自分をないがしろにされたような気分の悪い行為だった。

 どうも私は母の血を引いているのか、すぐ人に上げたくなる。母は「お金がない」と嘆きながら、気前よく他人に何でも上げてしまった。物でなくても、縫物が得意だったから、「明後日までに仕上げて欲しい」と頼まれると、2晩徹夜して仕上げたのにお金をもらわず、わずかな野菜を「ありがとう」と言ってもらっていた。お人好しというか、おおらかというか、大雑把で義理人情に弱い人だった。

 私は母親程ではないが、人に上げることに抵抗はない。喜んでくれるなら、自分のところの分まで上げたくなる。時々、カミさんから「(差し上げることが)失礼になることもあるのよ」と注意される。確かに上から目線で恩着せがましく振舞うなら、それは嫌悪を生むだろう。でも、高価な物でもなく、余分なもので、生活に役立つものなら、悪い行為ではない気がする。しかしもちろん、カミさんの言うように、失礼にならないように気を遣う必要はある。

 大人の社会のルールというか、常識というか、自分では良かれと思っても、相手には受け入れがたいことも結構ある。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」(夏目漱石)。なるほど、今頃気付いても遅いか?!

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