友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

肺炎で入院していた姉、施設に戻る

2019年10月31日 17時17分17秒 | Weblog

 姪っ子から電話で、肺炎で病院に入院していた姉が「施設に戻る」と連絡してきた。各所にチューブが差し込まれ、機械で生きながらえている姉の姿は見たくなかったから、「ありがとう。来週、みんなで見舞いに行くね」と礼を言った。テレビで女優の八千草薫さんが88歳で亡くなったと報じていたが、姉は八千草さんよりも1歳年上だ。

 戦争末期に少女時代を過ごし、戦後の自由に戸惑いながら生きてきた世代だ。姉がどんな風に生きてきたのかは、大まかなことしか知らない。結核だったことや甲状腺の病気があったこと、戦後の家庭らしく朝食にパンを食べていたこと、離婚して喫茶店を営んでいたこと、私が東京で川に落ち、メガネや洋服を買う金を送ってもらったこと、思い返せば世話になってばかりだ。

 「お父さん、お父さん、ばかり言っている。私のことは忘れている」と姪っ子は不満そうに言う。90歳近いのに、思い出すことは父親のことなのか。ズーと娘に世話になっているのに、どうして60年近くも前に亡くなった父親のことなのだろう。父に助けを求めているのか、あるいは父に謝っているのだろうか。

 今朝は穏やかな秋晴れだったので、久しぶりにルーフバルコニーで作業した。夏の草花を抜き取りる作業に精を出した。重労働でも長時間でもなかったのに、胸が痛くなった。大げさだが、ここで死ぬのかとさえ思った。カミさんは友だちとゴルフに出かけている。ここで倒れてもカミさんが帰ってくるまで発見されない。それでは変死扱いで、迷惑をかける。部屋に戻って横になった。

 今日はひとりなので、美味しいものを食べようとか、きれいな喫茶店でお茶にしようとか、夢見ていたが、ただ、横になって本を読み、うたた寝をする一日となった。夕方から、ゴルフ組の反省会に参加するから、生ビールでも飲めば元気になるだろう。

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剪定を請け負う

2019年10月30日 17時53分25秒 | Weblog

 「シルバーに頼んだが、なかなかやってくれん。1本じゃー仕事にならんみたいで困っとる」と言うので、「じゃー私がやりましょう」と約束した。家の北側の道路に面したところにクロガネモチのような木が植わっている。剪定するほどではないと思うが、「道路にはみ出している枝が気になるんで」と周囲の人の目を気にしている。

 今日は朝から車が使えたので、作業服に着替え、剪定ハサミを持って出かけた。1時間もかからないうちに刈り込むことが出来た。作業をしていると近所の人が通って行く。その都度、「私は梯子に登れんで、来てもらってやっとる。あんたは歩けるからいい」「ワシだって杖が無ければ歩くのは出来ん。家にばかりいてはいかんので歩いている」。道行く人と盛んに会話をしている。

 彼は元気で行動派でおせっかいだった。名古屋から移って来て縫製業を営み、一時はたくさんの人も使っていた。「商売はカミさんのおかげでやって来れた」と言う。そのカミさんがよく分からない病気になり、デイサービスを受けている。彼も週に何日かサービスを受けているが、カミさんよりも軽いので、カミさんの世話から飼い犬の世話、買い物や料理もしている。

 「結局、みんな私がやらなきゃーいかん。話し相手もいなくてストレスが溜まって、つい、あんたを呼び出して、すまん。あんたに話を聞いてもらうとスッキリして、元気になれる」と言う。動けない身体で切り落とした枝を拾い集めてくれた。何だか危なっかしいが、自分もやらなくてはいう気持ちが伝わってくる。

 いつもの店でウナギを食べ、彼の溜まった話を聞くが、以前聞いたことと変わってはいない。子どもたちは独立してしまうと、こんなに具合の悪い両親でも元気なうちは手を出さない。その方が、親は何とかやるからだが、そうできなくなった時はどうするのだろう。

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「先のことは考えない」

2019年10月29日 17時31分41秒 | Weblog

 放課後子ども教室に遅れて入ると、既に子どもたちは宿題に取り組んでいた。教室の責任者の男性と60代の男性と40代の女性が、子どもたちの宿題を見て回っていた。そこへ、教室を運営するNPOの責任者と大学生らしい若い男性がやって来た。若い男性はNPOのスタッフのようだ。子どもたちの面倒をみる側が合計で6人になったので、私は傍観者になっていた。

 子どもたちが騒ぐのでNPOの責任者が、「うるさいぞ。黙って宿題をやれ」と叱った。すると子どものひとりが「えらそうにガミガミいうなあー」と皮肉った。責任者は「先生は社長だ。社長は何を言ってもいいんだ」とその子に言った。確かに彼はNPOの社長だが、社長なら何を命令してもいいという発想は間違っているのにと思った。

 そういえば先回、教室の責任者に「いずれは教壇に立つんでしょう」と訊ねた時、「先のことは何も考えていません」と答えが帰ってきたのでびっくりした。学童保育を請け負っているNPOの若い男性と話した時、「子どもが好きだからこの仕事をしているけど、給料が上がらないので結婚もできない」と嘆いてはいたが、「正規の教員になりたい」と言っていた。この差はいったい何だろうかと思った。

 NPOは市との契約の業務だから、契約金が毎年あがることは考えにくい。そこでNPOは仕事を増やして全体の金額を膨らます方へ向かっているようだが、仕事を増やせば人も増やさなくてはならない。私たちのような無償ボランティアが増えないと経営は困難になる気がするが、同じ仕事をしながら有償の人と無償の人がいるのでは、また別の難しさが生まれてしまう。

 私たちのような年寄りは、「人生は魂を磨く修行の場 すべてが魂の修行と考えれば 悩まなくてもいい」などと嘯くことは出来るが、生活のある若い人はそうはいかない。だから「先のことは何も考えない」人になるのだろうか。

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「何が言いたかったのかねえ?」

2019年10月28日 19時03分05秒 | Weblog

 月曜日は放課後子ども教室の担当だが、今日は市が主催する市民講座『大人の国語・算数・理科・社会』の第1日目の「国語」を受講した後、急いで小学校へ駆けつけた。「人生の学び直し」とあるように、受講生はほとんどが高齢者だ。だからだろうが、司会者の声が小さかったので、「もっと大きな声で」と要望が出たくらいだ。

 「国語」のタイトルは、「言葉を読み解く」とあり、サブタイトルに「本を読み終えた先には何がある」とあったので、興味深いテーマだと期待した。率直に言って、講師が若すぎたと思う。講師の中では一番若く、30代ではないだろうか。哲学を専攻する先生で、フランスの現代思想を研究していると話す。

 受講生は本好きではあるが、難解な文章を好んで読むような傾向には無いと思う。ところが講師は、「本に1冊という単位はない」と哲学的に話し始めた。「本は1冊で終わっているが、次々と連動している」というのである。小説は1冊で終わっているけれども、筆者は常にテーマを掘り下げていこうと書いている。評論ならなおさらであろう。

 「本を読むことはナゾ解きである」と話す。私もそう思う。筆者が何を伝えたいか、探りながら読んでいる。だから講師と同じように、本の空いたところにメモ書きしたり、付箋を貼ったり、言葉を調べて書き込んだりしている。「本を読むのは、受け身なのか」と講師は問うが、読みながら想像したり考えたりしているから受動ではなく能動であろう。それを創造と言ってもいいと思う。

 せっかくの講座だったが、多くの人が眠っていた。高齢者にとってはどれもこれも当然のことで、目新しいことはない。受講生の気持ちを察することが出来ないのは若さのためだろう。講師のパソコンを使っての、本の読み方や論文の書き方に、さすがに若い人は違うと思った。「何が言いたかったのかねえ?」と、高齢者は呟きながら教室を出ていった。

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凄いなイエローモンキー

2019年10月27日 17時48分49秒 | Weblog

 最近は疲れやすいし、視力も落ちてきている。本を読んでいると文字が見えなくなってくる。右目が悪いのだから左目で文字を追っているのだが、そうしていると文字がかすんでくる。明日は白内障手術の説明を受けるが、見えるようになってくれればと思う。

 白内障は高齢化に伴う症状のようで、誰に話しても「歳を取れば仕方ないよ」と言われてしまう。ガックリしていたら、98歳の詩人・柴田トヨさんのこんな詩に出会った。「98歳でも 恋はするのよ 夢だってみるの 雲にだって乗りたいわ」。

 男の人がいつまでも女の人を恋しがる話は聞く。女の人はダンナに先立たれて、「せいせいした。これからは自由に生きられる」と言う。夫を亡くした妻は長生きするから、真実らしく思えてしまう。さだまさしさんの『関白宣言』、「俺より先に逝ってはいけない」という歌詞を思い出した。

 テレビの音楽番組でイエローモンキーというグループの歌を聴いた。「外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターが嬉しそうに 乗客に日本人はいませんでした いませんでした いませんでした 僕は何を思えばいいんだろう 僕は何て言えばいいんだろう こんな夜は逢いたくて逢いたくて逢いたくて 君に逢いたくて君に逢いたくて」。

 同じイエローモンキーの歌。「愛情の庭に種をまいた 雨は降るのに花はなかなか 俺はクズだし確信はないけど 不自由と嘆いている自由がここにある (略) 夜よ負けるなよ朝に負けるなよ 何も答えが出てないじゃないか (略) 君にまた言えなかった 夜がまた逃げていった」。

 どういうグループか知らないが、歌詞が凄いと思った。高齢になっても、血潮に響くものに変わりはない。私も柴田トヨさんを手本にしよう。

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何だかよく分からないのは歳のせい?

2019年10月26日 17時39分28秒 | Weblog

 映画『蜜蜂と遠雷』を観て、何だかよく分からなかったのに凄く感動した。昨夜も、テレビで映画『億男』を観て、お金をテーマにした映画であることと、学生時代にモロッコを旅行したふたりの友情が本物だったことは分かったが、何だかよく分からなかった。何だかよく分からないのは、私が年老いたせいなのかと思い、今朝、書店に行って『蜜蜂と遠雷』(上下)と『億男』を買って来た。

 瀬戸内寂聴さんの『秘花』は、室町時代に活躍した世阿弥を描いたもので、所々に古文も挿入されていて読みにくいのに、場面は鮮明に理解できるし、心の動きもよく分かる。世阿弥が世に出たのは身体が小さく肌がキレイで利発な男の子だったから、高僧や将軍に可愛がられた、つまり男色の相手だったと分かった。

 猿楽を都で流行らせたいと願う父、観阿弥の願いを受けて必死に努力する。そればかりか一座のために能の台本や教義を書き記し、仲間に伝える。それが「花伝書」となって残った。田楽や猿楽のような民衆の芸能が、神社とか寺院で演じるうちに、幽玄とか優雅とか評価される技を身につけ、庇護を受けて形を整えていったことも分かった。役者は僧侶や貴族・武士たちの男色相手だったのだ。

 栄華を極めた世阿弥は72歳の時、佐渡島に送られる。『秘花』はここから物語が始まるが、前半の少年時代は高貴な方の寵愛を受けて勢力を拡大していく話だが、後半は島での生活が中心となる。75歳の私には、人生が終わった者の悲哀が伝わってくる。それでも、息子を亡くした40代の女性との生活を得て、盛んに筆を持つようになる。

 『億男』のように、「お金って何なのだ」と苦悩するのは、彼がまだこの先、生きていくからだ。先に何もない人は、今がよければそれでいいのだ。わずかに食べられ、何でもないような話をし、肌を重ねられる相手がいれば、こんなに最高な幸せはない。

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どんな天才も続けていなければ天才になれない

2019年10月25日 18時08分45秒 | Weblog

 書き損じや住所不明で戻って来た年賀状を引き出しの奥に保管していた。ある時、卒業生から「先生の年賀状、全部見たい」と言われて、残っているハガキをパネル貼りして展示しようと思った。そう思っていたのに、ちょっとした集まりで、知人が作った冊子を見せてもらい、ハガキを冊子してみようと気が変わった。

 彼の冊子を制作した名芸大の卒業生に、ハガキを見せて冊子にまとめてくれるように頼み、年内を目標に取り組んでもらっている。今日は雨の中、その打ち合わせに来てもらった。若い彼女と話すのは楽しいから、ついつい余分な話をしてしまう。『あいちトリエンナーレ』を見てきた話や映画『蜂蜜と遠雷』の感想など、彼女のためになるだろうと思って話した。

 彼女もまた、私の孫くらいの年代だから、「話題になるものが違う」と興味を持って聞いてくれた。先月、彼女は東京で開かれていた『ジュリアン・オピー』展を観に行ったので、その時のチラシを持って来て、作品の感想などを話してくれた。私は「ジュリアン・オピー」という作家を知らなかったが、今、世界的に活躍している作家で、日本の浮世絵のコレクターでもある。

 チラシの作品を見ると線と面だけで出来ているようだから、印象派が受け止めた日本よりもやはり現代的な受け止めのようだ。私が勤めた工業高校の卒業生で、イラストレーターとして大活躍している三浦均さんの作品を見せる。映画『蜜蜂と遠雷』を引用して、「どんな天才も続けていなければ天才になれない」と話す。先生を辞めて半世紀近くなるのに、先生根性が抜けないようだ。

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小4の運動会は曇り時々小雨

2019年10月24日 18時23分22秒 | Weblog

 小4の孫娘の学校は今日が運動会だという。雨さえ降らなければ運動会としてはベストだろうが、さすがに平日だけあって父母の参加は少ない。それでも母親の姿はよく見かけたし、父親だけが応援に来ている家庭もあった。私は、先日の地域の運動会で昔の知り合いに出会ったから、ひょっとしたら今日も会えるかも知れないと思いながら歩いていると、偶然その人に声をかけられた。

 以前は同じマンションに住んでいて、こちらに引っ越してからも旅行などはわざわざ出て来てくれた。明るく生真面目でよく動く人だから、「こちらでもすぐに友だちが出来るよ」と言った通り、ジョギングや卓球の仲間が出来て、「一緒に活動している」と言っていた。「健康づくりには人一倍気を遣っている」と言うので、「あまり気を遣い過ぎると、かえってぽっくり逝くよ」と冗談に言うと、「そうなれば、一番いい」と笑う。

 「ただ、気がかりなのは次男と4男が引き籠りで、部屋から一歩も出ず、家に居ても話もしない」と零す。そんな苦労を抱え込んでいるとは全く知らなかった。「働いていないの?」と聞くと、「家庭教師には行っているが、私と口を利かない」と答える。「こちらから話そうとすると、『お父さんとは時代も価値観も違う』とピッシャとやられてしまう」と言う。確かに私たちの時代は努力すれば報われた。しかし、今の若者は努力してもダメなものはダメだと分かっている。

 ほんの僅かな時間だったが、彼の苦悩を垣間見て、だが、何を言っていいのか言葉が見つからなかった。午後になると少し小粒だが雨が降り出してきた。小4の孫娘の出番だけ見て、私たちは帰って来た。「中止になったの?」とカミさんに聞くが、「誰からも何の連絡もない」と言う。子どもたちのことを考えれば、残りの2種目くらい中止でもいいのにと私は呟く。

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映画『蜜蜂と遠雷』は凄い

2019年10月23日 18時37分31秒 | Weblog

 友だちがフェイスブックに、「映像も音楽も桁違いの大迫力。ストーリーももちろん魅力だが、コンサート会場に近い大迫力の音響で音楽が楽しめた。やはり映画館は違うと痛感。魅力的な映画があれば、老人夫婦にはいいかもと思ったほど」と書いていた。

 彼から映画の話は聞いたことが無かったので、そんなに感動した映画を観てみたいと思っていたら、新聞でも話題になっていたので、カミさんに「行ってみないか」と誘ってみた。友だちは恩田陸さんの小説『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎文庫)を読んで、「あまりにも素晴らしい内容に惹かれ、読み終わってすぐに、再び最初からページをめくり始めた」と書いている。

 彼は小説を読み、映画製作を知って、どんな作品になるかと期待して映画館に出かけたが、私はそんな彼からのメッセージに動かされた。映画の感想を一言で表すなら、「凄い」である。映画だから表現できたと思ったが、これは小説を映画化したものなので、小説を読んで感動した彼は「凄い」と思った。

 天才ピアニストが腕を競うピアノコンクールが舞台で、中心となるのは母の死で課題曲が弾けなくなってしまった天才少女が、20歳になってもう一度挑戦するところから始まる。子どもの頃に彼女の母から習っていたマサル、ピアノは持っていないが天賦の才能がある養蜂業の息子、楽器店で働くピアノが好きな生活者、この4人の舞台での演奏が凄い。

 第1次予選はピアノの独演で、第2次予選はオーケストラとの共演で、審査が行われる。映画のほとんどがピアノ演奏という変わった映画なのに、全く飽きさせることもなくグイグイと映画に引き込んでいく。音楽映画なのに、どうして涙が流れるのかと思うくらい何度も泣けた。音楽を聴いて涙を流すと、何故か心が満たされる不思議な体験だった。

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「即位礼正殿の儀」を見る

2019年10月22日 17時42分10秒 | Weblog

 NHKも民放も「即位礼」に終始していた。「即位礼正殿の儀」の前には、皇室の先祖と言われている天照大神に報告する「賢所大前の儀」が行われた。これは皇室行事ということで、入室されるところしか報道されなかったが、天皇と皇后は白い装束を身につけられていた。迂闊にも皇居内に神社があったことを知る。

 「即位礼正殿の儀」は皇居の松の間で行われ、国内外から招かれた2千人が見守る中で、天皇は高御座にそして皇后は御帳台に着かれ、とばりが侍従と女官によって開けられて始まった。天皇が即位を宣明するお言葉を述べられ、安倍首相がお祝いの「寿詞」を読み上げた。

 古式にのっとり厳粛に行われる儀式、日本は天皇を戴く国であると実感した。天皇家の血は絶えたことが無いとかあるとかは、どうでもいい気がする。天皇が力を持った時期は僅かで、常に象徴として利用されてきた。天皇を無くしてしまうことより、利用することの方が為政者には都合がよかったのだ。そこが日本人の気質か知恵なのだろう。

 遥かに高い高御座の天皇を仰いで「寿詞」を読み上げ、最後に「バンザイ」を叫ぶ安倍首相を見て、「臣下として敬愛の気持ちを持っているんだろうか」などと誠に不敬なことを思ってしまった。皆がそれぞれに、日本の国民として、天皇のお言葉にあるように、「我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与すること」に邁進すればよいのだと思う。

 「即位礼正殿の儀」は成人の皇族しか参列できないようで、愛子さんも秋篠宮の長男も姿が無かった。伝統行事を継承するためにも、子どもたちも参列させて欲しい。2千年を超す皇室の伝統と言うけれど、伝統はどこかで必ず修正されているし、そうでなければ受け継がれていけないだろう。それでいいのだと私は思う。

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