友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

横綱「稀勢の里」の引退

2019年01月16日 17時45分43秒 | Weblog

  横綱の稀勢の里が引退する。再起をかけた初場所だったが、初日から3連敗してしまい、中日新聞も「迫る決断の時」と報じていた。私の友だちは、「3連敗では引退しかない」と言う。「昨日の取り組みなど、全く何も出来ていない」と手厳しい。「それでも15日間土俵に上がるべきだと言う人もいるが‥」と聞くと、「そんなみっともないことはすべきではない」と断じる。

 「横綱は関取衆の最高の地位だから、強いのが当たり前。それを負けてもいいから土俵を務めろと言うのは無責任な発言だ」と強調する。確かに、強い横綱が負ける姿は見たくないし、昔は見せなかった。つまり、勝てなくなったら引退が当たり前だった。「負けても頑張る」姿勢は、いつから評価されるようになったのだろう。

 私は相撲に詳しくないが、貴乃花がケガを負いながら優勝した時、小泉首相が「よく頑張った。感動した」と言った。強い横綱よりも必死で頑張る姿が尊ばれる分岐点だったのではないだろうか。相撲は日本の伝統ではあるが、スポーツではないと私は思う。貴乃花が言ったように「神事」ではあるが、そして何よりも「興行」なのだ。

 歌舞伎と同じように、観る人々を楽しませるものである。だから横綱は強くなくてはならない。下位の関取のように、陥落しても復活できる「スポーツ性」はあってはならなかったのだ。外国人に門戸を開きながら、外国人横綱を歓迎しないのも、「興行」は盛り上がって欲しいのに、「神事」の伝統は絶えて欲しくないという自己矛盾である。

 稀勢の里は19年ぶりに誕生した日本人横綱であったが、私には横綱になったことが稀な巡り合わせだと思う。確かに期待された関取であったことは間違いないが、バタバタした相撲で、横綱にはなれそうにない気がしていた。横綱になっても皆勤は2場所しかなく、通算成績は36勝36敗97休である。「真面目過ぎる」性格は褒められても、「強い横綱」にはなれない。

 人一倍稽古し、どんな頑張っても、達成できる人とできない人がいる。努力は尊い。けれど、結果ばかりを求め過ぎずに受け入れていく、そういう生き方があってもいい。「土俵人生において、一片の悔いもありません」と稀勢の里は言う。あっぱれ!

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