日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

パプアニューギニアのソマレ首相は

2005-03-29 | 今日の出来事。(社会編)
28日、オーストラリア・ブリスベーン空港で飛行機を乗り継ぐ際に係員から保安検査のため靴を脱ぐよう指示されたのは「侮辱」だとして豪州政府に抗議することを明らかにした。

・・・のだそうだ。
でも、この前ハワイに行ったときにも、靴を脱いでのボディーチェックは普通に行われていたゾ!
まあ確かに一瞬ギョッとはしたけどね。でもテロ対策としては安全のためならやむを得ないと思うが…

でも、人種が違ってたりするとまた受け取り方も違ったりするのかな?なかなかフクザツなものがあるのかも…っていうか日本人も「非白人」という意味では同類なんだけど。気がつけば何となく「ヒト事」な言い方になってたわ…

そういえば最近見つけたスウェーデン在住の日本人主婦のサイトがおもしろい。
というか「知られざるスウェーデンの実態!!」という感じなんだけどね。

スウェーデンでの日常が面白おかしく?つづられているんだけど、よく考えたら「何このひどい人種差別は?!」とはらわたが煮えくり返るような話が結構あるのだ。
とかく理想化しがちな西欧社会(なんかフルイ呼び名だ^^;)だけど、やっぱり日本はかなりいい国なんだな…と改めて実感した。

(イヤ、「ヨーロッパは悪い」と言ってるんじゃないんですヨ。どっちにしても白人に生まれてさえいれば、どこに生まれていても「やっぱりココが一番!」などと言っていそうな気もするしね…)
それにしても人種問題って根が深いな…

上記のサイト、ご興味があれば以下からどうぞ。決して楽しい話ばかりではありませんので、そのつもりで…

「とほほの主婦inSWEDEN」
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/6199/ahaha.html

ムシキング

2005-03-24 | ヤワラカメの話
今、息子とその友人たちの「マイブーム」は、圧倒的にムシキングになりつつある。
ま、全国的にブームなんだけど。

それにしても、都内に住む妹から「今子どもたちの間ではムシキングがキテるんだよ~」と聞いたのは、確か1年以上前だったような…
つまり埼玉にそのブームが到来するまでに、それだけの時間がかかっているわけだ…

今さらながら「文化の中心」東京との差を見せ付けられた気分だな…(-o-;)

卒園式

2005-03-16 | 今日の出来事。(私事編)
ジマンじゃないが私は卒業式の類で泣いたことが一度もない。
ウルっと来そうになることもなくはないのだが、どうも泣けないのである…

「しかし我が子の卒園式となると話は別!」
…と来るかと思えば、残念ながらそうはならなかった…

キリスト教系の幼稚園なので、卒園式でも合間合間に賛美歌や奏楽がはさまれるのだが、実はそのときにはカナリうるうるしそうになっていた。
(これも自慢じゃないが、私は卒業式で泣けないかわりに、ある種の音楽は聴いているだけで泣けるのだ。)

「いよいよ卒園か…ホントに大きくなったなぁ…」こみ上げる涙の中、壇上の我が子の姿を見れば…
…ナント大あくびの真っ最中。

…というわけで、我が子の卒園式でもやっぱり泣けなかった私でした。チャンチャン♪

バレエ発表会騒動記。

2005-03-14 | 今日の出来事。(私事編)
娘はバレエを習っている。
とあるカルチャーセンターの1クラスなのだが、担当の先生は実は別のバレエスタジオの方である。
そして、今度そこで発表会があるとのことで、「よかったらカルチャーの子も出演しませんか?」という話が来た。

去年もやったのだが、あれはただの「勉強会」で、今年のは「白鳥の湖」全幕という本格的なものだそうだ。
当然練習もキツいだろうし、かかるお金も…^^;
でも、娘は去年の経験もあって出演する気マンマンだった。
そして私も、そんな娘の後押しをしてやろうと思っていた。が…

フタを開けてみると、今度はカルチャーの子は誰も出演しないということだった。
「みんな出ないってよ…どうする?」とレッスン後にみんなが集まっている時に娘にきいてみると、「…みんなが出ないんだったらどうしようかな…」との返事だった。
それを聞いて、内心、「それでも出る!」という固い意思表明を期待していただけに、ちょっと拍子抜けしてしまった…
(なんだ、「友達と一緒なら出る」って、所詮その程度だったのか、と…)

で、ウチに帰って娘に改めてきいてみた。
「私は“みんなが出なくても出る!”っていうくらいに出たいんだと思ってたんだけど…」
そうしたら娘は
「ホントは出たいよ!!でも他の友達が出られなくてガッカリしてるときに、そんなこと言えないよ。…」とチョット涙目になりながら言うのだ…

彼女は彼女なりに、他の「出たくても出られない」友達のことを慮って、そういう心にもないことを言っていたのだ。
私は一瞬でも彼女の決意を疑ったことを恥じた…

彼女の出演の決意は固く、いろいろありつつも当初の予定通り出演するつもりでいたのだが、諸事情によりカルチャーの子は発表会に出られないことになってしまった。(結局希望者がウチの子一人だけだったというのもあって…)
娘は(もちろんがっかりはしていたが)「来年の勉強会には絶対出よう!」との決意も固く、友達と一緒にがんばっているようだ。

硬直化

2005-03-04 | 堅めの話
某教育サイトの掲示板の話である。
最近の書き込みには、なぜか「我が子がいじめにあった。加害者の子どもと親はこんなにトンデモナイ。学校はこんなにふがいない。」
という親たちの嘆きと怒りの書き込みが多い。
読ませてもらうと、確かにかわいそうな状況ではあるのだが…
(中には正直「この程度のいじめでそこまで騒ぐか??」と思うものもあるのだが…)
しかし、一様に見られる親たちの「余裕のなさ」が非常に気になっている。

たいていの親は、謝罪だけでは納得できないようで、被害にあった子ども自身はもう気にしていない様子であっても
「このような行為は絶っっ対に許されるべきではない!!」という口上が、その後延々と続くのである。
果ては、誰に宛てるともなく「皆さん、ちゃんと我が子を見てくださいよ!!」とか
「この種の事件を他人事のように思ってませんか?!」という非難めいた言葉が続出するのだ。

「とりあえず謝罪は謝罪として受け入れてみたら、状況が変わることもあるかも…」という、私のノンキな意見は、「あなたはいじめる側の味方をするんですかっ!!」という調子のコメントで切って捨てられた。
…イヤ、誰もそんなことはヒトコトも言ってないんですが…^^;

気になっているのだが、最近の風潮として(…というのは私のキライな言い方なのだが)人を
「否定する」か「肯定する」か、
「善」か「悪」か、
「0」か「100」か、
といった尺度でしかとらえられなくなっているような気がするのだ。

しかも、一度「ダメ出し」をしたが最後、「軽蔑」「監視」「指導」の対象としか見られなくなる。
それで事態が良いほうに動くならいいのだが、往々にして被害者・加害者ともに納得のいかない事態に陥っている気がする。

悪を糾弾するのは結構だが、
「私(我が子)は悪くないよね?間違ってないよね?」
「悪いのはカンペキに向こうだよね?」
と必死で確認し続ける一生を送るつもりなのだろうか…
人を「良い」「悪い」の判断軸のみに押し込める、「相互監視的」な窮屈な世の中になっていっていないだろうか。
そんな社会の到来を望む人は誰もいないのではないかと思うのだが…

逆にそのような風潮は「見ざる聞かざる」を決め込む「他人に無関心な人々」を増やす一因にもなっている気がする。
そしてまた、そのような人々が非難の対象になるという悪循環…
人間は(特に子どもは)「間違いながら成長するもの」ではなかったのだろうか…
もっと「おおらかさ」を取り戻したいものだ。(特に大人に…)