マキペディア(発行人・牧野紀之)

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リサイクル小史

2010年06月23日 | ラ行
 1990年代半ばに幕を開ける本格的なリサイクル時代。その原点をたどると、1975年に静岡県沼津市が始めた挑戦的な試みにさかのばる。

 「混ぜればごみ、分ければ資源」。各家庭がごみを出す際、瓶と缶と古紙は別にする。今では当たり前の「資源ごみの分別収集」を、全国に先駆けて始めたのだった。

 「ごみの集積場を迷惑がる住民たちに理解を求めたい。清掃職員らのそんな問題意識が発端だった」。ごみ問題に詳しい早稲田大教授の寄本勝美さん(70)は振り返る。職員たちが「売れるごみ」を抜き取って余得としていたのをやめ、市の正規事業とした。住民らも世話役を買って出た。「全国から視察が来て、それは誇らしい光景だった」。

 住民がごみを分別し、再資源化につなげるシステムを作り上げた。ただ、他の市町村は焼却炉の整備に追われていた時代で、沼津方式がすぐ広がったわけではない。

 その一方で、石油危機直後の産業界は、行政よりひと足早く再資源化に向かった。「石油危機時代のリサイクルはコスト削減が狙い。90年代に入ると、『適切なビジネス』として資源の有効利用を迫られる形になった」と日本経団連の岩間芳仁環境本部長。

 国も1991年の廃棄物処理法の全面改正を機に、「排出抑制」にかじを切った。厚生省はその直後から、缶、瓶、ペットボトルのリサイクルの制度化の検討に入った。

 95年に成立した容器包装リサイクル法は、家庭ごみの過半を占める容器や包装資材を市町村が分別収集し、メーカーや小売店などの事業者が再商品化する。後に「拡大生産者責任」と呼ばれる考え方が、初めて導入された。

 「法案にはメーカーも廃棄物処理業者も反対。市町村も分別はコストがかかると慎重だった」と、厚生省で一連のリサイクル法を担当した由田秀人さん(59)=現日本環境衛生センター専務理事。「当時はダイオキシンと不法投棄の問題で大騒ぎで、処分場がいよいよ造れなくなるおそれがあった。リサイクルの制度化に、打開策を求めた」。

 その後、家電や食品、建設資材など個別リサイクル法が続く。そして2000年、循環型社会形成推進基本法が成立。「3R(リデュース、リユース、リサイクル=減らす、繰り返し使う、再資源化する)」の考え方が盛り込まれた。

 制度としてのリサイクルは動き出した。だが、肝心の分別を巡って、優等生だったはずの沼津市が、落とし穴にはまってしまった。

 2008年春、容リ法に基づきリサイクル用のごみを引き取る「日本容器包装リサイクル協会」が、沼津市のプラスチックごみの引き取りを拒否。前年の抜き取り検査で、食べ残しや調味料などで汚れたものが2割ほど混入していたのが理由とされた。

 沼津市の分別は容リ法が始まって18種類になっていた。プラスチックも、容器包装、汚れた物、容器包装以外、の三つに分ける。「分別が増え混乱があった」と、同市ごみ対策推進課の関野博文課長は話す。半年後の引き取り再開までに全市の300近い自治会で、分別方法の説明会を開かなければならなかった。

 リサイクルの成功のカギとなるのが、排出段階での分別だ。そのハードルの高さを沼津の失敗は物語る。リサイクルの仕組みも、ごみの処理方法も、課題を残したまま、循環型社会元年から10年が過ぎようとしていた。

 (朝日、2010年06月17日。吉田晋)

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