マキペディア(発行人・牧野紀之)

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築地市場(いちば)を探して

2018年12月16日 | abc ...
    築地市場(いちば)を探して

                     P.N. AZUMA

 11月下旬、私は築地に向かった。築地を訪れたことのなかった私は、この日本有数の観光地へ行くのを楽しみにしていた。ただ、今回の一番の目的は「市場」の読みについての調査である。

 ご存知のように、先生は精力的に「ことば」に関する問題を提起されており、最近では、「国語辞典はこれでいいのか(改訂版)」(マキペディア2018年9月26日)としてまとまった論文を発表された。その中の「E・発音(漢字の読み方、アクセント)」の項において、「市場」の読み方が論じられている。「市場」を「いちば」と読むか「しじょう」と読むか、ということだ。今回は、この問題提起を裏付ける事実を集めてきたのでまとめていきたい。

 東京メトロ築地駅の改札を抜け築地本願寺を左手にしてその通りを進み、しばらく行くと、大きな交差点を挟んだところに、築地場外市場が見えてくる。残念ながら、私が築地を訪れた少し前の10月6日に「築地市場」は閉場してしまったが、それでも「場外」は観光客も多く活気に溢れていた。

 目的地に着いた私はまず、「場外市場」の「市場」は実際にどう呼ばれているのかの聞き込みを行った。先生は論文の中でその読み方について「現物を売買する所は『いちば』、現物ではない観念的なものを扱う所を『しじょう』と呼ぶのが適切な呼び方ではないか」と書かれている。つまり、完全に「現物」を扱っている「場外」は「場外いちば」と呼ぶべきである、と。しかし、幾人かの店員さんや買い物客の方々に対して「『場外市場』を何と読みますか?」と聞いたが、皆さん「なぜそんなことを聞くの?」というような戸惑いの表情を浮かべながら『じょうがいしじょう』と答えられた。結果は、予想に反して、いや、半ば予想どおり(?)、「場外市場」は今では「じょうがいしじょう」と広く呼ばれていることを知った。

 その事実を確認した私はつづいて、いつ頃から、なぜ、「場外しじょう」の読みが一般化したのかを聞きに、築地場外市場商店街振興組合の方にお伺いした。そこの組合長のお話によれば、「40〜50年ほど前ぐらいから段々と『しじょう』読みされるようになった、なぜそう呼ばれるようになったのかはハッキリと分からない。」とのことだった。その後入ったお寿司屋さんの大将にも同じことを聞いたが大体同じ答えが返ってきた。つまり、少なくとも40年ほど前、1980年代頃までは「いちば」と呼ばれていたということになる。では、なぜ「いちば」から「しじょう」へと読み方が変わったのか。ここからは推測だが、私はテレビなど、各種メディアの普及がその一因になっているのではないかと考えた。内閣府が公表している「消費動向調査」によれば、カラーテレビの普及率は1970年初頭から急激に上昇し、1984年頃から現在に至るまでほぼ100パーセントで推移している。このことが、先生の指摘である「株や債券の売買の一般化」につながり、一気に読み方の変化を生んだのではないか。今日では毎日のようにテレビの報道番組などで「株価の値動き」が報じられ、今では学生までもが投資を行っている時代である。昔は一部の専門家だけに使われていた「しじょう」という読みも日常用語として完全に定着したといえる。こうしたことを考えると、「場外しじょう」と呼ばれるのも仕方がない、という気がしてくる。

 しかし、「仕方がない」といって見過ごしていいのだろうか。確かに、言語は時代とともに移り変わっていくものであるし、「言葉とはそういうものだ」という見方もある。先生も、こういった事を踏まえて、「こういう言葉の問題では『何が正しく、何が間違い』と決めつける態度は、原則として、避けるべき」と言われている。だが見方を変えれば、この「市場」の例一つとっても、読みの多様さ即ち表現の多様性がなくなるとともにその言語の豊かさが失われていってしまっている事もまた事実ではないだろうか。それゆえに、ここでも改めて、問題意識をもつことの大切さに気付かされる。一方で、先の組合長は「『市場』は本来『いちば』と読むべき」ということを半自覚的に感じられていたのに対して、他方では、東京都の市場を担当する都の職員のお話からはそういう問題があることを自覚しているとは全く思えなかった。この対照から分かるように、「言葉の移り変わり」はそれを自覚しているかいないかで大きな差があるように思う。自覚していれば、それが意識的にであれ無意識的にであれ、「言語の豊かさ」も保たれるのではないか。そして、だからこそ、言語に深く携わる者は、こういう問題の自覚を促すような活動に注力すべきなのであろう。先生は以下のようにも仰っていた。「私の『国語辞典はこれでいいのか』で取り上げた例は、辞書編集者がこれらの事実に気付いておらず、説明をしていないことの重大性に警鐘を鳴らしたのです」、と。

 最後に、まだ「市場」を「いちば」と読む団体ないし地名がないかの調査を行った。
 残念ながら、私が調べた範囲では、その名を残す団体を見つけることができなかった。が、ただ一つ、「いちば」読みの名残をとどめる地名を発見した。場外市場からすぐの交差点にある道路案内標識には、「市場橋」と書いてある下にローマ字で「Ichibabashi」と表記されている(添付画像参照)。ここは今でも「市場(いちば)橋」と呼ばれているそうである。ささやかな達成感に包まれながら、「その昔はこの道路の下を川が流れていたのだろうか」と想像し、築地市場(いちば)の歴史に思いを寄せ、帰路に着いた。




[付録]
 私は「鶏鳴・ヘーゲル原書講読会」の予科生です。まだドイツ語能力、哲学的思考能力ともに未熟であり、日々それらの鍛錬を積みながら、先生の下でご教示頂いています。実は、今回の「築地に行って論文の問題提起を裏付ける事実を集めてくる」というのも予科における課題の一つであったのです。そして、こうしてその体験を文章にすることもまた、その一つです。このように、予科では1〜2週間に一度先生からメールで課題をもらい、それに答えていくという形で進んでいくのですが、その課題というのも、多くが今回のように、現実的な問題で構成されています。それに対処していきながら、問題意識の立て方、勉強や研究の仕方など、哲学を志す者の基礎となる事柄を一から教わっていきます。毎回丁寧に指摘していただけて、日々の勉強の大きな励みになっています。もっとも、個人の能力や状況に応じて修行内容は変わると思いますが、入門を検討されている方の参考になれば幸いです。

関連項目

国語辞典はこれでいいのか(改訂版)
市場(いちば)
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