マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

悪しき日本の行政慣習(愛知万博)

2010年06月24日 | 読者へ
          團 紀彦(談)

 建築家としての理念を貫くために、そして国際社会への倍額を裏切らないために、私が長い闘いをしエネルギーを費やした愛知万博にかかわる顛末をお伝えしようと思います。なぜなら、そこには良くも悪くも仕事に対する私の姿勢が表れているからです。

 2005年に開催された愛知万博が、もう一つの立候補地・力ナダのカルガリーと誘致を競ったのは1997年のことです。日本では私を含めて3人の建築家が選ばれ、またテーマは「自然の叡智」と決定されました。当初の建設省(現・国土交通省)の原案は、万博を足がかりにして山全体を開発・宅地化するというものでしたが、「山の地肌を全部出した上で環境問題を論じるなど、世界から見たらいかにこっけいなことか」と私たちは反論したのです。もちろんその案で誘致を勝ち取るなど到底無理な話でした。

 そこで新たに、会場内を通る既存の2幹線道路の内側に住宅を集め、残りのランドスケープはそのまま守る案を作りました。通商産業省(現・経済産業省)がこちらの案を推してくれて博覧会国際事務局(BIE)にプレゼンテーションし、「豊かな自然を活かす万博」と高い評価を得て日本が開催を獲得します。

 しかし日本誘致が決定した瞬間から建設省主導へと切り替わり、全体を造成する案へ逆戻りしていった。プレゼンテーション案は誘致を勝ち取るためであって、誘致さえしてしまえば当初の平場造成案でやると言うのです。それでは世界に対してうそをついたことになります。「環境に新しい示唆を与える」と評価された日本への信を裏切ることになります。黙って引き下がるわけにはいきませんでした。

 建築家は環境を考えるフロントにいると思っています。すべての自分の仕事には環境を考慮する責任がある。が、3人の建築家のうち1人がその理念を捨て、当初の全体造成案にくら替えして、まず建築家仲間が対立する構造になりました。大きな流れが国主導で決定してしまうと勢いが付いてくる。異議を唱える声などかき消されていくのですね。

 しかし実際に動き出すと、世界自然保護基金(WWF)などが気付いて連絡をしたことからBIEが不信感を抱き、調査団を組んでやって来ました。調査団は誘致案と違うことに憤り、日本側は微調整だと言い逃れる。その後非公開の議論が2年間も続いて、私にとっても無益なつらい日々が過ぎ、本来の建築の仕事も手につかないほどへきえきしました。

 やがて市民の人たちも、「おかしい」と言い始め、結論から言えば候補地の一部である「海上(かいしょ)の森」の自然破壊だけは食い止めることができたのです。わずかな成果かもしれませんが、でも私たちが提案した魚雷の一発が命中したという感じがします。

 巨大な相手と長い年月を闘う間、何度も「相手はクライアントだ」「反対ならやめればいいじゃないか」と言われました。しかし、それでも仕事とは、自分の理念を掲げてするべきだと思っています。 
  (朝日、2010年06月20日)
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