マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

ハイデッガー、Heidegger

2011年12月12日 | ハ行
  参考

 01、しかしハイデッガーは逆に、人間中心的・自己中心的であるという点で実存主義を拒絶するのである。ハイデッガーは実存主義を主観主義だという。主観subjectとはもともとラテン語のsubjectumから由来し、その語は「下に置かれたもの」つまり基礎とか土台とかを意味する。ハイデッガーによれば、実存主義は人間を主観としてとらえるもの、すなわち、人間を基盤とし、そこからすべてのものを理解する思想である。

 しかし、すべてのものの根拠は人間ではなくて「存在」であり、私たちは存在の語りかけに応答し、その要求に従い、存在の真理が明けそめるのを見守らねばならない。実存とは、自己を脱し我執を捨てて存在の明るみの中に立ちいでることである。ハイデッガーはそのように考えるのである。

 たしかにハイデッガーは『存在と時間』では人間のあり方を実存に基づいて分析した。しかし実はこのような人間解明がこの本の究極の目標だったわけではない。究極の課題は存在一般の意味を明らかにすることなのであって、人間存在の解明はそれに到達するための方法だったのである。その後も、現在にいたるまで、ハイデッガーが終始一貫して求め続けてきたものは存在の真理──二千数百年前、古代ギリシアで誕生して以来、哲学が持ち続けてきた最も古い問題である存在の真理──にほかならなかった。

 しかもハイデッガーは、後には人間解明という方法さえ放棄して、自ら存在の明るみの中に立ちいでつつ、存在の真理を語りだそうとするのである。(新井恵雄「ハイデッガー」清水書院6-7頁)

 02、「頽落」(たいらく)という言葉は、自分が死ぬべき存在だということをよく自覚せず、世俗の事柄に忙しくして「取り紛れる」こととでも言えばいいでしょうか。このことは、誰もが社会人になる近代社会ではことさらうまくハマります。

 つまり、近代社会では人は「何者かになろう」としてつねに努力します。その理由は、「何者かになること」が人間として立派なことだという暗黙のルールがあるからです。宗教社会では「いかに死ぬか」は一つの大きなゴールでしたが、ここでは、目標は世俗的なものです。この目標に「取り紛れて」生きている限り、人は死など存在しないかのように振る舞うことができる。

 ハイデガーはこう言います。そこで人間は、自分が「本来」何であるかを自分自身から理解しないで、それを「世界の方から」了解する、と。これは人は、たまたまその社会が持っている「何が立派な人間か」という暗黙のルールから、自分が何者であるか、自分の価値はどのくらいかを了解しているということです。平たく言えば、近代社会において何が立派な人間かというと、富、名声、権力を持つ者です。これはしかしこの社会の暗黙のルールにすぎない。そういう人間となることが、果たして人間としての「本来」だろうか、というわけです。

 ハイデガーの考えを敷衍(ふえん)して言うと、もともと富、名声、権力といったものが人間にとって大きな価値と見なされる理由は、人間が誰でも死の不安に付きまとわれているからです。それらは、自我の不安を「打ち消す」アイテムにすぎないのに、しかも人間はそのことに気づいていない。だから、人間が富、名声、権力を求めるのは、知らぬうちに死の不安に脅かされている結果なのです。

 これはどういうことか。要するに、世俗のルールに従って生きることは、一見ごく自然なことと見えるけれど、その本質は、死に脅かされ(世俗のルールそのものが共同的な死の不安の結果です)、無意識裡にその不安に規定されて生きるということだ。これでは人間の「本来」(ほんとう)など出てくるはずがない。そうハイデガーは考えるのです。(竹田青嗣「自分を生きるための思想入門」芸文社251-2頁)

 03、どうすれば人間は、死の不安に脅かされる形ではない「ほんとう」の根拠というものを得ら れるのか。ハイデガーの答えは、「死んだら終わり」ということを深く〝自覚″することです。 死の救済の物語をむしろ立てないほうがいい。「死の先駆」といいますが、死んでしまえばもう 何もないということを深く自覚したほうがいいというのです。

 するとどうなるか。人間の生の意味、「本来」ということは、今生きているこの時間から見出 すべきものだということがはっきりする。普通は、死の物語がなくなってしまったならば、何 のために生きるかという意欲が失われてしまいます。しかし、それを逆手にとって、生の世界 だけがある、そして人間はそれをl回しか生きられないのだから、この生の中で、「何が最善か」、「どういう生き方がベストか」という問いが切実なものとして出てくる、と考えるのです。

 ハイデガーによると、このときはじめて「良心」ということが問題になる。わたしの言葉で言うと、最大限「よいこと」、「ほんとう」のエロスに向かおうとする欲望です。いわば死にはどんな救済もないという深い自覚が、はじめてこの欲望を目覚めさせるのです。(竹田青嗣「自分を生きるための思想入門」芸文社253頁)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする