マキペディア(発行人・牧野紀之)

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唯物論、der Materialismus

2011年12月01日 | ヤ行
  参考

 01、唯物論は霊魂の実体は合成されたものと取るが、思想〔の実体〕はやはり単純なものと取る。(大論理学第2巻255-6頁)

 02、経験論の原則(超感性的なものは認識できないという原則)を徹底するといわゆる唯物論に成る。唯物論にとっては物質そのものが真に客観的なものである。しかし、物質そのものというのは既に1つの抽象物であって、そのような抽象物としてはそれは知覚されない。従っていかなる物質も存在しない。存在しているのは常に規定されたものであり、具体的なものだからである。(小論理学第38節への付録)

 感想・ヘーゲルは唯物論がもちろん嫌いであるために、ここでは自分の個別・特殊・普遍論を投げ捨てています。

 03、唯物論とか自然主義は経験論の首尾一貫した体系である。(小論理学第60節への注釈)

 04、これまでの唯物論(フォイエルバッハの唯物論を含む)の主たる欠点は、対象、現実、感性を単に客体あるいは直観という形式の下でしか捉えておらず、人間の感性的な活動即ち実践として捉えていないことである。(「フォイエルバッハに関するテーゼ}第1、マルエン全集第3巻5頁)

 05、これまでの全歴史を単純に投げ捨てる素朴な革命家風のやり方とは反対に、近代唯物論は歴史の中に人類の発展過程を見る。〔従って〕その発展過程の運動法則を発見することがその課題となる。

 18世紀のフランス人においてもヘーゲルにおいても支配的であった自然観、即ちニュートンの言うところの「永遠の天体」とリンネの教える「不変の種を持った有機体」とをもって、狭い円環の中を自己同一的に運動する全体であるとする自然観とは反対に、近代唯物論は自然科学の近世における全ての成果を総括する。

 それによると、自然も又時間的歴史を持っているのであり、天体もその天体に住み着く有機体の種属も、条件さえ整えば、発生しそして消滅する。円環運動というものは、もしあるとしても、これまで考えられていたより桁外れに大規模なスケールでの話となる。

 近代唯物論は自然観でも歴史観でも本質的に弁証法的であって、他の諸科学の上に立つような哲学をもはや必要としない。どの個別科学に対しても、事物とその事物についての知識との全ての関連の中での自分の位置を明確に自覚するようにとの要求が出されるや否や、全ての物の関連を扱う〔特別な〕科学は一切、余計なものとなる。

 これまでの全ての哲学の中でその時になっても尚自立的なものとして残るのは、思考とその諸法則についての教説、即ち形式論理学と弁証法である。他の物はすべて自然と歴史についての実証的科学の中に解消する。(マルエン全集第20巻24頁)

 感想・個別科学に対して「全体の中での自分の位置を自覚せよ」と要求しても、それは簡単には実行出来ません。現実には、ほとんどの科学者にとってそれは不可能です。個別科学の上に立つのではなく、それに内在しつつ全体を見る哲学も簡単ではありません。ですから「本当の哲学」はほとんどないのです。

 06、世界の単一性(Einheit)は、それが存在している事にあるのではない。たしかにその存在は単一性の前提ではある。単一である前に何よりも先ず存在していなければならないからである。しかし、一般的に言って、その存在は我々の視界〔諸科学の到達点〕が終わる所から先では未解決の問題である。

 世界の本当の単一性はその物質性にある。この事は2、3の手品師的空文句で証明されたのではなく、哲学と自然科学の長い長い上にも長い発展によって証明されているのである。(マルエン全集第20巻41頁)

 07、もちろん唯物論的な自然観とは、自然を単純に、与えられたままに、外から何も付け足すことなく捉えるということ以外の何物でもない。従って、ギリシャの哲学者たちにとっては元々それは自明の事であった。(マルエン全集第20巻469頁)

 08、観念論が一連の発展段階を経過したように唯物論も又そうであった。既に自然科学の分野で画期的な発見がある度に唯物論はその形を変えなければならない。そして、歴史の分野も唯物論的な扱い方を受けるようになってからは、ここにも新しい発展の道が開かれているのである。(マルエン全集第21巻278頁。「フォイエルバッハ論」第2章)

 09、あらゆる形而上論を無用のものとしてしまうと、後にはもう自然界、国家、社会、史実といったような positivなものばかりが残る。そして大へん「話がはっきり」して来る。おれたちは何をなすべきか(Möglichkeiten) という問題の範囲も、はっきりとブン廻しで abgrenzen(画する)することができるほど明瞭になる。──これが唯物論的な考え方である。唯物〔論〕的世界というのは、同時に「原始的」な世界、即ち凡ゆる野蛮人がそう考えている通りの世界である(迷信等をのけて考えれば)。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』 S.127)

 10、そうした「政治的・社会的・実証的な世界観」というものは、吾人の、外界に向かってなされる実際行動の方に全注意を傾倒せしめ、また何か実際的な目的を遂行するための意志を極度に強めるものである。そのために、そうした偏した考え方が一方において(殊に人間の哲学的方面を深めるという方で)如何なる危険(例えば人間を浅薄にする危険)を伴うものであるかということを考えさせない。そうした内面的な問題の存在を忘れないためには、ある種の「緊張力」を必要とする。その内面の緊張力という奴は、外面的な実現力とはややともすれば反比例する関係にあると言える。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』 S.127)

 11、政治等、外界の問題に向かって全注意を向けている人間は、いざという時には(たとえば外界の問題が無意味に終わって自己の非を悟ったような暁には)こんどは自分自身の中に引っ込むことが出来る(政治家が失敗して坊主になったりする例は古来の歴史によくあること)。引っ込むというのは、自分自身の主観という奴がまだ内容を持たない空虚の世界だから、そこに一身を託し、何物かを開拓する余地があろうというものである。

 ところが、内面の問題、人間の問題そのものを真正面の問題にしている人はそうは行かない。それが解決されなければ彼は自ら慰むるに足る他の天地がない。だから「真剣さ」が自ずと違ってこなければならない。その事を言おうとするのである。

 この辺は、一つは言葉遣いも拙いために、一寸難文になっているから気をつけてもらいたい。こういう所が征服できてはじめて凡ゆる哲学、思想の論文にぶつかるだけの頭が出来るのである。従って私自身の解釈にも、多少原著者の意を外れるようなことも全然ないとは保しがたい。言葉を超えた思想の世界、及びその表現は真に科学的な研究の対象になりうる。文学と思想との間の機微な関係はこういう難文(拙文?)を解釈する時に本当に現れるものである。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』 S.133-4)

     関連項目

物質と観念

実体と機能

★ 「実体と機能」(『かくの如く』の哲学の検討)の中にある不十分な点を補いました。
 主として、「そもそも『位置だけあって面積の無いもの』という『点』の概念自身が現実の中から『位置という機能だけを取り出して(抽象して)作り上げた』概念なのです。……」以下の部分です。




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