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メッテルニヒ

2011年09月11日 | マ行
                        歴史研究家・渡辺修司

 オーストリア外相(後に宰相)メッテルニヒ(1773~1859)は、フランス革命とナポレオン戦争後の秩序を決めるウィーン会議の議長として、自由主義とナショナリズムを否定し保守・反動の体制を作り上げた「悪人」として知られる。

 ドイツの学生運動は弾圧され、オーストリアでは厳しい検閲制度が敷かれた。北伊はオーストリアの、ベルギーはオランダの、ポーランドはロシアの支配下に置かれた。

 ところが最近になって、メッテルニヒを再評価する声がある。ナポレオンの侵略によって200万人の死者が出た欧州の混乱を収拾し、一時的ではあれ平和をもたらした「欧州の宰相」だったという見方だ。

 「会議は踊る、されど進まず」と椰輸されたが、当時の外交は愛を語り、芸術を論じながら進める時代でもあった。

 プロイセンの外交官でベルリン大学の創役者フンボルトと延々と哲学的論議を展開できたし、蒸気船や電信などの技術革新にも興味を持ち、独仏の文学に精通し、数百の詩をたちどころに諳(そら)んじ、自らバイオリンも弾いた。洒、女性、歌、踊りの歓楽騒ぎの中で神経を行き届かせながら縦横に各国の利害を調整できるのは、彼以外にいなかった。

 長身の美男子、上品で優雅、洗練された物腰とくれば、女性が放っておくはずがない。7人の子をもうけた最初の妻と死別、2番目の妻は33歳下、3番目の要は31歳下だ。さらに、ロシアの陸軍将軍の妻、英大使夫人など愛人が何人もいた。極め付きは、フランス陸軍元帥の妻であるナポレオンの妹との交際だ。妻の浮気を知った元帥は決闘を申し込み、ナポレオンが仲裁して事なきを得たという。

(朝日、2011年08月18日)
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