マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

山本義隆

2008年06月15日 | ヤ行
     山本義隆さんの労作

 山本義隆さんの労作『磁力と重力の発見』(みすず書房、全3巻)が評判になっています。この本は昨年、大仏次郎賞と毎日出版文化賞とパピルス賞の3つを受賞したものです。

 広告の文章によりますと、本書は「遠隔力の概念が、近代物理学の扉を開いた。古代ギリシャからニュートンとクーロンにいたる空白の一千年余を解きあかす」ものだそうです。

 〔2004年〕02月29日の広告によりますと、既に累計で9万部売れたそうです。出版された時から噂は広まっていましたが、受賞後に更に伸びたようです。

 この報に接して私の考えた事を箇条書きにまとめます。

 第1に、私は山本さんを個人的には知りませんが、山本さんにとってよかったなと思いました。それははっきり言って何よりもお金の面でのことです。これで印税が3千万円以上入ったと思うからです。今後もまだ増えるでしょう。

 第2に、この本については広告の文章にもありますが、「アカデミズムの外で生まれた」ということを考えなければならないでしょう。

 彼はかつて1960年代末の大学紛争の時、東大の全共闘(全学共闘会議)の議長として活躍され、とても有名な人でした。その後、大学をどのようにして出たのかは知りませんが、ともかく研究室には残らず(残れず?)予備校で講師をして生活してきたそうです。

 その講師の生活のかたわら、あるいはその授業の中で持った問題意識を追求して今日の成果を残したのです。

 ではこの成果を「アカデミズムの外で生まれた」と称する時、その言葉の意味は何でしょうか。「大学教員ではないために研究条件が劣悪だっただろうによくこれだけの成果を上げた」というのが普通の解釈だと思います。

 しかし、山本さんくらいの講師になるとかなりの給料を得てきたのではないでしょうか。しかも、予備校の場合は大学と違って、事務的な事はすべて事務員がしますから、講師はかえって授業に集中できます。

 逆に言いますと、大学教員の場合は大学の雑務にかなりの時間とエネルギーを取られるようです。これも真面目にやる人とうまく逃れる人とがいるようですが。

 予備校講師には身分保証がないので不安だと言うかも知れませんが、そしてそれは事実ですが、山本さんくらいの実力と熱意があれば、失職の心配は事実上なく、授業に専念できたのではないでしょうか。

 たしかに予備校講師には退職金がありません。これは困った事です。私が最初に「よかったな」と書いたのはこれと関係しています。この印税が山本さんにとって退職金の代わりになると思ったからです。

 研究費について言いますと、たしかに実験系の学問ですと、これは研究機関の外でやるのは難しいでしょう。しかし、山本さんの今回の研究のような科学史ならば、その種のお金は大してかからないと思います(かつて小倉金之助氏が数学史をテーマとされた時も、同じような理由からだと聞いています)。

 たしかに史料集めは大変だったようですが、報じられる所によりますと、教え子で大学の研究者になった人たちが、外国の図書館の史料などをコピーしたりして送って協力してくれたそうです。

 一番困るのは、予備校は年中なんだかんだと授業をしていて、長期休暇がないことです。これはやはり辛かったと思います。

 と言うわけで、大学教員でないのによくやったという考えは必ずしも当たらないと思います。長谷川宏さんなども、同じように東大の大学紛争を契機として大学に残ることを潔しとせず、連れ合いと学習塾を開いて口を糊するかたわら、研究を続けてきたようです(長谷川さんの翻訳には強い批判が出ていますが、そしてそれに答えないのも問題ですが、今はそれは言いません)。

 第3に、従って、日本の進学熱が塾とか予備校を生んだということの意義を考えました。それは文部省の干渉を一切受けないが故に、自由な学問と教育を可能にしたという面があると思います。そして、山本さんや長谷川さんのような人達に働く場を提供したということです。

 私も塾に少し関わった経験がありますが、塾とか予備校の場合どうしても免れない欠点は、先にも言いましたように、年中無休で長期休暇がないということと、やはり教えるレベルが余り高くなく、大学院レベルのことは無理だということ、その意味で授業と研究との乖離が大きいということなどです。

 第4に、最後に私の最も考えた事は、山本さんがかつて全共闘で追求した事柄はどうなったのか、そのテーマと今回の著作(研究)とどう関係するのかということです。

 全共闘は大学のあり方と学問のあり方を問うたのではないでしょうか。そうだとすると、学問のあり方についてはこれで山本さんなりの答えを出したと言えるのかもしれません。

 しかし、全共闘というのは、自分が正しい学問をすれば好いというものではなかったと思います。日本の学問を本当のものにしたいということだったと思います。

 しかるに、この本はアカデミズムの外の人達だけでなく、アカデミズムの内部の人によっても称賛されています。これはどういう事でしょうか。この本はアカデミズムにとって無害なものだということではないのでしょうか。とても気になることです。

 かつて空想的社会主義者のロバート・オーウェンも、自分の工場で労働者の福祉を考えた理想的な経営をしていた間は皆に褒められました。しかし、その考えを社会全体に適用しようとした時、排斥されました。

 山本さんが自分の研究だけを模範的なやり方でしている間は皆に好かれるだろうと思います。しかし、山本さんの目標はそういう事なのでしょうか。

 全共闘がつぶれてから30年余りたちました。そして、ここ10年くらいは少子化を背景として私立大学を中心とした改革が進んできています。又、国立大学も行政改革の中で独立行政法人になって外部評価とか競争といったことが日程に上っており、改革も少し行われてきています。

 分かりやすく言いますと、山本さんたちの抗議行動によってではなく、財政的な事情に強制されて改革が始まっているわけです。もちろんこの改革も必ずしも好い方向への改革ばかりではないようです。

 こういった事も踏まえて、山本さんは最近の大学と学問のあり方をどう考えているのでしょうか。そして、それに対して今回の大著によってどう対処したつもりなのでしょうか。又、今後どうするつもりなのでしょうか。私の聞きたいのはこの事です。

 お金というのは、違法な手段によって稼ぐのでない限り、パチンコで儲けても株で儲けても立派な本で儲けても、大した問題ではない、と私は思っています。一番の問題は、儲けたお金をどう使うかだと思います。

 私がこれまでの乏しい経験から得た結論は「お金の使い方の中にその人が出る」というものです。

 山本さんはこれで得た知名度とお金と可能性をどう使うのでしょうか。

  (2004年03月03日発行)

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