マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

ねむの木村

2008年05月14日 | ナ行
     
1、ねむの木学園を訪ねて(日野原 重明)

 静岡県沼津市の聾学校を訪ねた日の午後、私は秘書とともに、掛川市の郊外で宮城まり子さんが運営する「ねむの木学園」を訪れました。

 家庭に恵まれない障害児の存在を知ったまり子さんは、現在の同県御前崎市の海の見える小高い丘に自らの資金で土地を求めて、1968年に障害児たちのための定員12人の養護施設・ねむの木学園を設けました。

 1979年に養護学校(小学部、中学部)を、3年後には高等部も設置します。

 さらに、成人した園生たちが引き続きここで教育を受けられるような肢体不自由児療護施設も設けました。

 1997年に現在の掛川市の海の見える丘に移転。付近の住民たちの労力を借りて、壮大な「ねむの木村」を造り、さまざまな施設が造られていきました。学園の子どもたちが参加したユニークな絵が、新しい建物の壁いっぱいに描かれています。

 ここでは感受性を大切にし、集中力を養う教育として絵画、国語、工芸、音楽、茶道などを教えています。

 園生たちの作品は、国内外の美術展でも展示されたことがあります。コーラスやダンスのパフォーマンスが上演されることもあります。

 私たちは園生の宿舎を訪ねました。広い部屋に3人ずつ入居していますが、そこも巧みな色や形でデザインされており、子どもたちのアイデアが生かされているとのことでした。

 宿舎の中の大きなホールでは、まり子さんの指揮で全園生が合唱を聴かせてくれました。日劇ダンサーだったボランティアの指導で「スラブ舞曲」にのった見事なダンスも披露されました。

 まり子さんの恋人だった作家の吉行淳之介氏を記念した文学館も見学しました。彼女の事業をいつも応援した吉行氏の写真が飾られたロビーにはピアノがあり、室内音楽会を催せるようになっています。

 宿舎の玄関に戻ると、子どもたちが集まって手を振り、「また来てください」と口々に声をかけてくれました。まり子さんは私たちを掛川駅まで送ってくださり、彼女のハグを受けて帰京の新幹線に乗りました。

 学園で生治を楽しむ園生たちの中心には、いつもまり子さんがマリア様のようにみんなを抱きしめています。80歳を超しても若々しく優しいクイーンのような存在として園生に慕われている彼女の、いのちの芽を育てる仕事の尊さに感嘆しました。
 (2008年03月08日、朝日。日野原さんは聖路加国際病院理事長)

2、10年ぶりの訪問(牧野紀之)

 約10年ぶりだと思います。これを書くために昨日、ねむの木むらを訪ねました。

 かつて御前崎の学園(学園は見せ物ではありませんから、見学できません。日野原さんは招待されたお客さんですから、別です)を訪ね、美術館を見、海岸近くの喫茶店でお茶を飲んだこともあります。

 掛川市郊外に移ってからは、我が家から車で約1時間の距離なので、友人などが来たとき、何度か案内しました。しかし、吉行淳之介文学館を見てから、約10年行っていなかったことになります。

 かつては植えたばかりの苗木だった木がすっかり大きくなっていました。「村」の発展と成熟を象徴しているようでした。

 しかし、そこに流れる時間のゆったりしていることは昔と同じでした。喫茶店「まり子」で原木を加工したテーブルに席を取り、池を眺めバロック音楽を聞きながらカレーセットを食べました(天気のいい日ならベランダで飲食もできます)。

 そこから「ねむの木こども美術館」まで、1キロ弱の道をゆっくりと往復しました。

 こどもたちの絵には不思議な力強さというか、生命力があるように感じました。美術館の建物も、どこかの農家をまねて設計したのではないかと思いますが、しっとりとしたものでした。

 1年に1度は来たいな、と思いながら家路につきました。(2008年05月13日執筆)

コメント
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