すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

すちゃらかな「おすすめエントリ2007」

2007-12-30 12:46:27 | メディア論
 ニュースサイト『まなめはうす』の管理人・まなめさんが2007年のおすすめエントリを募集してるので、私も遅ればせながら参加しちゃお。年を締めくくるのにちょうどいいや。

2007年にあなたが自分で書いた記事の中で「これはおすすめ」という記事を最大3つまで選んでトラックバック送ってください。その際、この記事へのリンクも貼ってください。

●304 Not Modified『【TB企画】あなたのブログの中でおすすめのエントリを教えてください2007』


 では行きます。

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

 最近のエントリってことで、3本とも2007年12月に書いた記事にしました。1本目はこれ。ブログやmixi、ソーシャルブックマーク(SBM)などでは、心理的な意味でインターネットの「個室化」が起こりやすい。この個室化は新聞のネタになるような事件も起こす反面、クリエイティブな文章を生む源泉にもなる。

 だからSBMではあえて個室に入り、自分にしか書けないコメントを書いたほうが世の中的にはおもしろい、ってお話だ。

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

 たとえばmixiは、「仲のよさ」や「好きなこと」を通して繋がるファンクラブ志向のコミュニケーションだ。一方、SBMはそれとは対照的に、記事の内容優先で意思の疎通が行なわれる議論志向のメディアである──。

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

 個人ニュースサイトの管理人さんは、「自分の好み」をいい意味でゴーマンに押し付けてくれる必殺・記事選び人である。てことは、あなたの好みにマッチする傾向のニュースサイトを見つけられれば、「そこに出ている記事は(あなたにとって)みんなおもしろい」って世界が開けるにちがいない。


 以上、ゆく年くる年バージョン、すちゃらかな「おすすめエントリ2007」でした。

 みなさん、よいお年を♪
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ジャズ喫茶で嫌煙権は認められるべきか?

2007-12-29 10:00:07 | 禁煙・タバコ
 私は音楽が好きで、20年来行きつけのジャズ喫茶がある。

 その店は嫌煙権などどこ吹く風で、客が込み始めると煙でモウモウだ。私はタバコをやめて1年半ほどになるので、かなり煙い。すごく苦しい

 だけどほかの客に「タバコを吸うな」なんて言うつもりは、もちろんない。

 理由はジャズ喫茶だからだ。ジャズとタバコと酒の縁は歴史的に深い。実際、私自身もその店で、誰構うことなくタバコを20年近く吸ってきた。「ここでは吸わないでください」なんて言われることなど想像もしたことがない。

 別に店主が「ウチでは嫌煙権は認めません」などと宣言してるわけでもなんでもない。その店ではタバコを吸うのが常識だというだけだ。だから私は煙いのをガマンしながら、今日もせっせと店に通うのである。

 果たしてあの店で「オレを殺す気か! お前らタバコを吸うな」と言い出す人は今後、出てくるのだろうか?

『自分の首を絞める喫煙者』(NATROMの日記)というブログ記事を読み、ふとそんなことを思った。

 この記事は、禁煙ではない集合住宅のロビーで喫煙し咎められた人を指し、「非喫煙者と共存しようという態度がまった見られない」(原文のまま)という。

 だけど共存する意思がないのは、喫煙者も非喫煙者もまったく同じじゃないだろうか?

【関連エントリ】

『タバコをやめて初めてわかったこと』
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ブログの記事はどこから書き始めるか?

2007-12-28 07:41:12 | へっぽこ文章講座
 みなさんはブログを書くとき、どんな書き方をしてるだろうか? 「人によってこんなにちがうんだなあ」と、興味深く感じた記事を見かけたので反応してみる。

僕は文章を書きながら考えをまとめるのが苦手で、ある程度、結論めいたものを考えてから書き始めます。「書き出し」にとりかかるのに時間がかかるんですね。その代わりに、「書く」ときには、言葉を選んだり構成を整えたりすることに集中しますので、書いている間に結論がぶれたりすることはほとんどありません。

●FETISH STATION『「考える」ことと「出力」の間』


 筆者のKenさんは、設計図を作ってから書き始めるタイプの人みたいだ。私の場合はKenさんと正反対で、後半部分(や結論)がまったく頭にない状態で書き始めることが多い。で、その部分にさしかかると、突然書くべきことが思い浮かぶのだ。

 だから「おお、こんな結論になったか」みたいなこともしょっちゅうある。自分で自分に驚いてるんだから世話はない。

 楽器の演奏に例えると……Kenさんの場合はあらかじめキッチリ譜面を作り、それを見ながら演奏するのに近い。で、そのことにより、自分の描いた構想を文章で再現しているのだろう。

 だが一方、私の場合は譜面は使わない。コード進行だけ見てアドリブで演奏し、その瞬間、その瞬間にわいたアイデアを反射的にアウトプットする。私はベースを弾くのだが、言われてみると自分の演奏は確かにそんな感じだ。「書く」と「弾く」で行為はちがうが、背景にあるマインドが自分の中で共通している。おもしろい現象である。

■まず書きたい箇所から書くのもテだ

 さて「譜面」がないという意味では、私の書き方はこのパターンに近い。

一方、書くことは全部書きあがってから発表するので、どこから伝えたいことを処理しても良い。例えば一番書きたいところを最初に書いて、次に前提、結論を書くとか。僕はブログを書くときそうしてしまいがちだ。

●tomityの日記『話すことと書くこと』


 なるほど。アドリブっぽい感じが共通している。

 ただ筆者のtomityさんとちがうのは、私の場合は断片的に書きたい箇所、たとえば「結論だけを先に書く」みたいな方法じゃない点だ。たいてい文章の頭から書き始め、書いてるうちに次の展開が浮かんで自動的に先へ先へとまとまって行く。

 だからたまに仕上げの段階であるにもかかわらず、結論だけが出てこないなんていう本末転倒なこともある。

 その意味では書く前から結論が頭の中にハッキリ描かれていたり、逆に書きたい箇所から書き始め、文章が後ろ(結論の方向)にだけでなく前へもふくらんで行くような人がうらやましい。

■「私の書き方公開します」企画ってどうかな?

 こんなふうに、たまたま3人の書き方をくらべただけでもこれだけちがいがあるのだ。きっと文章作法は百人百様なのだろう。それなら「自分はこんな書き方しています」と、自分独自の方法をみんなで公開してみたらどうかな?

「へえ、そんな書き方があったのか」てなぐあいで互いに参考になりそうだし、お役立ち企画としてはいいかもしれない。

 しかし思えばその昔、原稿用紙に万年筆やらボールペンで文章を書いていた時代は大変だった。もちろん下書きはするのだが、書き上げてから「真ん中へんのココを直したい」となると別の紙にまた最初から書き直したりしていた。

 ところが今や「結論から先に書き、あとで編集する」なんてことが自在にできるんだから、ホントに楽だ。それを考えただけでもパソコンの登場は、人間の作業をいかに効率的にしたことか……。

 ああ、ヤバい。結論が思い浮かばないや。イマイチだなあ、この締め方は。

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過去記事にスポットライトを当てる個性派ニュースサイトの威力

2007-12-26 10:04:39 | メディア論
 このところ、ソーシャルブックマーク(SBM)とニュースサイト(NS)をテーマに記事を書き、読んだ方といろんなコミュニケーションができた。いただいた感想にインスパイアされ、新しく浮かんだアイデアも多い。

 たとえば自分の目で記事を読み「おもしろい」と感じることは、いわば「一次評価」である。一方、SBMは、そんな各人の一次評価を持ち寄り、みんなで「二次評価」体験を共有する場といえる。

■ニュースサイトは速報性にこだわる必要があるか?

 またSBMはどちらかといえば新しい記事を追うメディアだ。その意味では速報性が武器である。ところが一方のニュースサイトは、案外、古い記事でもいいものを紹介していたりする。

 私も以前、何度か『駄文にゅうす』さんで過去記事を取り上げていただき、うれしく思ったことがある。

 とすればSBMと差別化する意味で、ニュースサイトは「それが新しい記事かどうか?」にあまり固執せずセレクトする戦略もアリかもしれない。多少以前の記事で、なおかつ当時、SBMではあまり評価されなかったものでも、管理人さんの目で見て「いい」と思った記事を紹介するとか。

 たとえば『まなめはうす』さんには、「★一年前のニュース」という過去記事を掘り起こすコーナーがある。また『駄文にゅうす』さんも同様に、そういう地道な作業をしているところが個性的だと思う。

■あなたはSBMとニュースサイトをどう使っているか?

 さて前々回のエントリ『あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?』では、情報収集の手段がSBMとニュースサイトだけになってしまうことの問題点を考えた。

 繰り返しになるが、論点は以下の2つだ。

1. SBMとNSに頼りきりだと、記事を発掘する目が他人まかせになりすぎないか?

2. SBMとNSに頼りきりだと、自分の感性で自分だけが「おもしろい」と感じる記事を見逃すんじゃないか?


 で、その記事には、興味深いブックマーク・コメントがたくさん寄せられた。まさに集合知を見る思いである。

 そこでソーシャルブックマーク(SBM)とニュースサイトの使い方について、コメントをもとに、おもしろくて役立つトピックス一覧を作ってみた。

 以下、いただいたブクマ・コメントを引用した上で、それに対する私の感想を書きながらトピックスを並べる(2007年12月25日現在)。●印の項目はすべてはてなブックマークのコメント・ページからの引用だ。また読みやすくするため、タグその他は削除した。

■SBMは記事を「二次評価」する機会を効率よく作る

takoponsさん 『自分で「これは良く書けたかなー」と思う記事を上げても反応(☆, B, ※等)がなくてしょんぼり(´・ω・`)していたら、数日後にニュースサイトで紹介されてシャキーン(`・ω・´)ってなることがたまーにあります』

 冒頭で書いた通り、確かに私にも経験がある。してみるとSBMはどちらかといえば速報性即時性に重きを置いたメディアであり、かたやニュースサイトは過去記事の掘り起こしにも役立つ、ということかも? もちろんSBMでも古い記事にスポットが当たるケースもあるから、いちがいにはいえないと思うが。

pre21さん 『これも2次発掘しました。2次発掘ばんざい!』

「これ」というのは私の前々回のエントリのこと。つまり「あなた(松岡)のこの記事も2次発掘で見つけたんですよ」てな意味だ。「他人の目に頼るだけでなく、自分の目で記事を読むこと」を呼びかける当の(松岡の)記事が、まさに他人の目で発掘されている皮肉──。シニカルで味のあるコメントだ。

cloverleaf24さん 『1次発掘した良質記事でもブクマじゃなかなか広がらない。ブログで掘り下げないと何も起こらないことを最近痛感していますよ、私』

 いくら自分が「おもしろい」と思いブックマークしても、ブクマ数が「1 user」から増えないことはある。とすれば特に自分のアンテナを刺激した好記事は、自分のブログで詳しく取り上げる方がいいのかもしれない。ブログ記事で掘り下げて分析・解説すれば、紹介した記事にも新しい価値が生まれそうだ。

dodododさん 『「他人の目」で再評価される』

 短いが、印象的なコメントだ。自分の目で見て「おもしろい」と感じることは、いわば一次評価である。とすればその記事をブックマークすることで、第三者が「おもしろい」と感じるのは二次評価(再評価)に当たるんじゃないか? SBMがもつお気に入り記事の共有機能は、確かにそんな構造を発生させる。

■SBMはあえて「他人の目で見たクリップ集」として使う

julajpさん 『RSSリーダーを自分なりにカテゴライズ、レべリングなどとことん細分化チューニングして追い詰めていけばいいのだろうけど、結局ぱっと見られるSBMなどが手っ取り早くて便利なんですよね』

 手っ取り早くて便利。SBMはこのひと言につきる。実際、私も「今日の新聞」を読む感覚で、手軽にSBMを利用している。やっぱりこれはやめられない。

hatayasanさん 『深く印象に残ったブログはすぐにRSSリーダーに登録するようになりつつある。SBMに比べると「打率」は低いかもしれないけれど』

 私も以前はそうだったんですよねえ。「いい」と思ったら、すぐRSSリーダに登録してた。ところが時間に追われ、そのうちにSBM一辺倒になっちゃって……。

straymindさん 『SBMは敢えて世間の目で利用しているなぁ/個人的に興味のある分野はキーワード使って収集してる/要は使い分けなんだろうな』

 SBMは他人の目で集めた記事専用のクリップ集として使う、って利用法。なるほどこういう使い分けもアリだ。

F-SQUAREさん 『自分で「面白い」と思う1次情報を見つけるのと、それが「面白い」と2次情報として共有できるかどうかは別の話なんだけどね』

 記事Aを「おもしろい」と自分ひとりで感じることと、記事Aの「おもしろさ」を不特定多数に公開し、共有することはまったく別の作業だ、って話。確かにその通りだ。この視点は私の元エントリにはなかったものである。

 ただ私の元記事は、「自分がおもしろいと感じること」にテーマを絞った文章だ。一方、F-SQUAREさんが指摘された「人とおもしろさを共有する」話は、それとはまた別の切り口の記事になるのだと思う。

■「おもしろブクマ・コメント集」は集合知の新しい集約法では?

 今回の記事を書いて思ったのだが、自分の記事についたコメントのうち、おもしろいと思ったブックマーク・コメントを集めてブログで定期的に紹介する、って企画はどうだろう?

 まず記事の冒頭で、自分の元記事を読んでない人にも意味がわかるよう、自分の元のエントリの要旨を説明する。で、その記事についたコメントを掲載し、「このコメントはココがこうおもしろかった」、「こんなふうに意表を突かれた」、「この視点は自分にはなかったものだ」てな感じで紹介するのだ。

 もちろんSBMを利用していれば、ブックマーク・コメントは日常的に読める。だけど自分の記事についたコメントだけに限定し、かつおもしろかったコメントのみをダイジェストにした上で自分の感想も載せれば、これもひとつのコンテンツとして成立するんじゃないだろうか?

 定期的にやれば自分のブログのネタにもなる。なによりおもしろいコメント、およびそのコメントがもつ視点・論点を共有するって、集合知を集約する方法としては新しい切り口なんじゃないかな?

【関連エントリ】

『きっかけは「他人の目」でも、「自分の目」で見て判断する』

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

『自分に気づくためにブログを書く』

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

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きっかけは「他人の目」でも、「自分の目」で見て判断する

2007-12-25 16:55:19 | メディア論
 前回エントリ『あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?』では、情報収集の手段がソーシャルブックマーク(SBM)とニュースサイト(NS)だけになるとまずいんじゃないか? てな話をした。

 論点は以下の2つだ。

1. SBMとNSに頼りきりだと、記事を発掘する目が他人まかせになりすぎないか?

2. SBMとNSに頼りきりだと、自分の感性で自分だけが「おもしろい」と感じる記事を見逃すんじゃないか?


 で、例によってはてなブックマークのコメントで、示唆に富むおもしろい意見をたくさんいただいた。それらを読み、思考がさらに深まった感じだ。そこで新しくエントリを立てることにした。結論をひと言でいえば、次のタイトル通りである。

■自分の目と脳で読めば無問題じゃない?

 今回の記事を書くモチベーションになったのは、以下のコメントだ。(2007年12月25日現在)

NOV1975さん 「読むときには自分の目だな」(以下略)

pbhさん 「フィルタリングを自分の脳ですれって話と理解」


 どちらも主旨は近いだろう。記事を見つけるきっかけになったのは「他人の目」でも、「自分の目」で読み判断すればいいんじゃないの? って意味である。

 人に記事の存在を教えられ、他人の価値観に脳を支配された状態で読むのはよくない。こりゃ洗脳されている。

 要は、思考をスイッチすればいいのだ。

 記事を読む時点で頭を切り替えよう。で、「あのアルファ・ブックマーカー(またはニュースサイト)の○○さんがおもしろいと言っている。なら、きっとおもしろいんだろう」的な悪い意味の予断をなくす。

 そして自分の目で記事を読み、自分の脳で記事の価値判断をする。この方法なら、確かにジャッジの部分に関しては問題ないだろう。

■「自分だけのおもしろい記事」を見逃す可能性は残る

 ただし私の問題提起のうち、これでもなお、まだ次の論点については解決されていない。前回のエントリから該当箇所を引用しよう。

 なぜならこの選び方(SBMとニュースサイトのみに頼る方法)だと、結局、ある程度メジャーなもの(SBMやニュースサイトですでに選ばれているもの)しか読まなくなるのでは? という危惧がひとつ。

 もうひとつは、これだと「自分にとって本当に読む価値のある記事」を見逃すんじゃないか? というのもある。(中略)

 私のRSSリーダには、私が自分の目で選んだ「自分にとって価値がある」ブログがたくさん登録されている。ためしにそのうちのひとつから、任意の記事を読んでみると……やっぱりおもしろいのである。

 けど、その記事はSBMやニュースサイトではまだ取り上げられていないのだ。

 やっぱりこういう記事を探し出す「一次発掘の目」を持ち続けなきゃなあ……。

 そんなことを感じる今日このごろである。

●すちゃらかな日常 松岡美樹『あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?』


 自分の価値観というフィルタを通して読めば、確かに読むときの問題点は解消される。だけど記事の発掘については、依然、事態は変わらない。

 SBMとニュースサイトだけに頼っていると、それらに載っていない記事を見逃す可能性がある。SBMやニュースサイトには出てないけれど、自分が読めばおもしろいと思う記事に出会えなくなるのでは? そんな危惧が残る。

 要は「人に頼りすぎると自分らしさをなくす」、「程度問題だよね」って話である。

 この点についてはブログ「北の大地から送る物欲日記」さんが、端的にまとめられている。ポイントを引用しよう。

私は両方の見方(他人の目、自分の目)を使って記事を見つけて読みますが、両方半々くらいです。自分の見る範囲の視野を広げるのに、他人の目を使った見方はありがたいですし、他人の目では見逃してしまいがちな自分のお気に入りの記事を見つけるためには、やはり自分の目を使って記事を見るのも大事。

『「他人の目」と「自分の目」を駆使してウェブを読む』


 他人の目と自分の目をバランスよく併用する。私もこれが正解だと思う。

 人間が情報収集に使える時間は限られている。それに加え、現代は情報過多の時代である。で、ついついSBMとニュースサイトだけに頼り切りになってしまうが……やはり自分の目で探す作業も平行して続けたいものだ。

【関連エントリ】

『過去記事にスポットライトを当てる個性派ニュースサイトの威力』

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

『自分に気づくためにブログを書く』

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』


(追記)今回見てきたようなニュースサイト関連のテーマについては、『駄文にゅうす』さんが役に立つリンク集を作られているようだ。参考までに付記しておく。

■駄文にゅうす『「葦の髄から天井を覗く」ような事をしても見える世界は限られている訳ですが』

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あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?

2007-12-23 06:12:01 | メディア論
■記事を選ぶ目が「二次発掘の目」になってないか?

 私はこのところ、読む記事を探すのにソーシャルブックマーク(SBM)とニュースサイトに頼りきりになっている。で、ふと気づいた。記事を選別するためのが、だんだん「他人の目」になっちゃってるなあ、と。

 どういうことか?

 記事を選別する目というのは、何段階かに分かれている。

 たとえばAさんがブログに記事を書いたとしよう。そしてあなたはRSSリーダでAさんのその記事を直接読み、おもしろいと感じた。このときのあなたの目は「一次発掘の目」だ。

 ところが今や、そうじゃないパターンも多い。

 たとえばニュースサイトやSBMですでにリストアップされていたある記事を読み、「いい」と感じた。このときあなたが使ったのは、「二次発掘の目」になる。

 以下、親ニュースサイトが見つけた記事を子ニュースサイト、孫ニュースサイトが取り上げ、あなたがそれを読むのは三次・四次発掘ってことになる。

■記事探しは「ブログ単位」から「記事単位」へ

 さて冒頭の話にもどろう。

 私が使っているRSSリーダは、「Headline-Reader」だ。この私のリーダには膨大な数のブログが登録されている。

 だけど今や自分でリーダをいじり、自覚的にブログ単位で読む比率は落ちてきた。一方、SBMやニュースサイトを毎日チェックし、「今日の新聞」を読むような感覚で、偶発的に記事単位で読むパターンが多くなっている。

 とすると記事を見つけるのに一次発掘の目を使わず、無意識のうちにもっぱら二次発掘の目に頼る状態になる。

 ネット上の情報量は膨大で消えるのも短サイクルだから、こうならざるをえないのかもしれない。だけど複雑な気分である。

 なぜならこの選び方だと、結局、ある程度メジャーなもの(SBMやニュースサイトですでに選ばれているもの)しか読まなくなるのでは? という危惧がひとつ。

 もうひとつは、これだと「自分にとって本当に読む価値のある記事」を見逃すんじゃないか? というのもある。

■SBMでは未発掘、だけどおもしろい記事は多い

 私のRSSリーダには、私が自分の目で選んだ「自分にとって価値がある」ブログがたくさん登録されている。ためしにそのうちのひとつから、任意の記事を読んでみると……やっぱりおもしろいのである。

 けど、その記事はSBMやニュースサイトではまだ取り上げられていないのだ。

 やっぱりこういう記事を探し出す「一次発掘の目」を持ち続けなきゃなあ……。

 そんなことを感じる今日このごろである。

【関連エントリ】

『過去記事にスポットライトを当てる個性派ニュースサイトの威力』

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

『自分に気づくためにブログを書く』

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

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イマジネーションは「何もない広場」から生まれる

2007-12-22 10:09:26 | エッセイ
■他決型社会は「指示待ち人間」を作る

 土建屋行政の日本では、公園を作るとなるとやたらにたくさんの遊具を置く。遊具メーカーや土建屋さんが、公共事業の名のもとに行政と結びついている。

 で、広場を何もない空間のままにしておくことが少ない。

 そんな社会に育つ子供は、「この遊びとあの遊びをしなさい」と大人に言いつけられているのと同じだ。なにしろブランコとシーソー、滑り台が、広場を目いっぱい占拠しているのだ。とすれば子供は否応なく、大人が決めた通りにブランコとシーソー、滑り台で遊ぶしかない。

 そんな「彼」が大人になれば、指示待ち人間になる可能性が高い。子供の頃から自分で考えるクセがついてなければ当然だ。自分のことを他人が決める他決型社会の欠点である。

■自決型社会では自己決定能力や発想力が育つ

 逆に遊具をまったく置かない場合はどうか? 芝を植え、広場を単なる空間にしておく国ならどうだろう?

 子供は自分の頭を使い、何もないだだっ広い空間で「何をするのか」考える。イマジネーションを働かせて自由に遊ぶ。

 すると彼らには、自主性や発想力が養われる。また自分のことを自分で決める自己決定能力がつく。その結果として、「自分で決めたことは自分に責任があるんだ」という自己責任原則にも目覚める。

 遊び方を自分で考えるのだから、「こんな遊び方をすると周囲の子にケガさせてしまうな」なんてのも自分の頭で考えるようになる。

「公園ではスパイク・シューズ禁止!」とか「野球の硬球は使うな!」のような、お役人という名の他者が禁止事項を強制する他決型の立て札を立てるより、自分で決めてそれを自覚することのほうがよほど効果がある。

 さて、これが自決型社会の特徴だ。先にあげた他決型のそれとくらべてどうだろう? 

 もうひとつ、ここまで読み、あなたは何かを思い浮かべないだろうか? そう、自決型社会とはインターネットそのものなのだ。

 そこにつながる人間がイマジネーションを働かせ、自律的にものごとを決める。ルールやマナーを自分に課し、自己責任原則を貫く。人から言われなくても、「そこで履くと危ないスパイク・シューズ」は履かない──。すべてがインターネットに当てはまっている。

■企業がクリエイティブな組織を作るには?

 今回は子供を例に挙げたが、もちろんこれは大人の世界にも言えることだ。

 企業がクリエイティブな組織を作るときのノウハウにもなる。また国家や政治家、自治体が政策を作る場合の国民とのリレーションシップも暗示している。

 つまり人間と社会のあり方、その関係性すべてにいえることである。

 そう考えれば80年代に登場した第一期フリーターや自分探しをする人々、あるいは今のニートたちは、「何もない広場」を求めて就職を自ら放棄したのではなかったか?

 日本のような他決型社会にあって、彼らは自らの人生をもって自決型社会への扉を叩こうとしているのではないだろうか?


【関連エントリ】

『人生をスルーした人々』

『自分探しシンドロームを超えろ』

『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』

『自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋』

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書くときに役立つインスパイア源としてのSBM

2007-12-21 07:12:15 | メディア論
 前回エントリ『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』では、個人ニュースサイトとソーシャルブックマーク(SBM)を比較した。で、ニュースサイトを中心に分析した。そこで今回は一方のSBMをテーマにしよう。

■自分と異なる価値観に出会えるSBM

 私にとってニュースサイトとは、「読むことを楽しむ」ためにある。それに対しSBMは、「自分が書くときに役立つ」メディアだ。

 たとえばニュースサイトの場合、まず自分好みの「お店」を選ぶのが第一段階だ。で、そのサイトばかり閲覧するようになる。だから自然に趣味のため、好きなものを読むためのメディアとして機能する。

 一方、いろんなネットユーザの「異なる好き」が集まるSBMには、自分のストライクゾーンからはずれた文体や発想、ジャンルが詰まっている。「えっ、そんな考え方があったのか?」と驚かされることも多い。

 つまり私にとってSBMは、自分とは異質な価値観にふれる場だ。そのことでインスパイアされるためのメディアなのだ。またそれだけでなく、自分にはない知識を仕入れるのにも役立つ。

 これらの特性は、もちろんインプット(読むこと)自体を楽しむときに生きることもある。だがむしろ私にとっては、アウトプット(書く)するとき役に立つ。

「ひとりで情報収集してるぶんには、たぶんこんな情報には一生、接することはなかっただろう」と感じるケースも、SBMではよくあるものだ。

 私はそんなSBMから知的刺激を受け、書くために不可欠なモチベーションをもらう。また自分が書くときの資料・データ集としてSBMを使っている。

■ニュースサイトとSBMは「どっちがいい悪い」の問題じゃない

 さて前回と今回の話をまとめよう。

 数回前のエントリ『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』では、SNS的なファンクラブ志向のコミュニケーションと、SBMのそれとを比較した上で、どっちがいい悪いの問題じゃないと断り書きをつけた。

 ニュースサイトとSBMの場合も、それと同じだ。あなたがどちらを選ぶかは、ネットメディアや他人とのコミュニケーションに、自分が何を求めるか? のちがいにすぎない。私がよく文中で、「少なくとも私の場合は」と但し書きを入れるのはそのためだ。

 人によって求めるものがちがうのは当然だ。どっちがいい悪いって話じゃない。結論としてニュースサイトとSBMは特性が異なり、それぞれ別のシーンで役に立つ。どちらのメディアを選ぶかは、ニーズによってちがう。ではその場面やニーズとは何だろう?

【本日の結論】

1. ニュースサイトは、読むことを楽しむためにある。

2. SBMは自分が書くとき役に立つ。


 ただしこれはあくまで「私の場合」である。

 
【関連エントリ】(前回)

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

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あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ

2007-12-20 08:56:40 | メディア論
 あなたは自分が読みたくなる記事をどうやって探しているだろうか? 私はけっこうソーシャルブックマーク(SBM)頼りだった。だけど最近では、個人のニュースサイトを見返し始めた。『ゴリラブーツ』を知ってからだ。

『ゴリラブーツ』に出ている記事は、どれを読んでもおもしろい。たぶん管理人さんの物の見方やユーモアのセンスが、私の感性に近いのだろう。

 同じことは、『駄文にゅうす』『まなめはうす』を読んでるときにも感じる。

 この自分にジャストフィット感というか、どれを読んでもおもしろいぞ。不思議だなあって感覚は、自分の嗜好に合うニュースサイトが見つかったときに独特のものだ。一方、SBMにはそんな感覚はない。

■ニュースサイトの管理人さんは「私小説作家」だ

 この両者のちがいは、どこから生まれてくるのか?

 ニュースサイトの場合、管理人さん1人が記事を選ぶからだ。ゆえに管理人さんの趣味が私に近ければ、そのサイトには私の好きなものばかりが並ぶ。

 だが一方、SBMは嗜好のちがういろんな人が、それぞれの「好き」を持ち寄る場だ。だからニュースサイトとくらべ、自分だけのどれを読んでもおもしろい感がない。(そのかわり多様性に富んでいる)

 もうひとつ特徴をあげよう。ニュースサイトは製作者がいい意味で、一方的に価値判断して情報を送り出す。その意味ではネット媒体というより、むしろテレビや新聞、雑誌などの既存メディアに近い。

 もっと言えばニュースサイトの管理人さんは、ユニークな主観が売り物の「私小説作家」みたいなものだと思う。

 かたやSBMは、情報の受け手が同時に送り手でもある。Web2.0的なユーザ参加型メディアだ。だからニュースサイトとちがい、出てくる答えにある程度の客観性がある。人々の最大公約数をチョイスするのにいい。

 しかし自分だけの「好き」に出会うには、その最大公約数の答えの中から、さらにまた自分の目で選び出す必要がある。

ニュースサイトにくるユーザーは管理人の趣向を求めてきている。

それに対し、SBMは(中略)集合知という観点から利用されることが多い。大多数のユーザーは多くの人が読んでいるニュースを読みたがってきている。

●tomityの日記『ニュースサイトとSBMの差は管理人主導か集合知重視かの違い』


 両者のちがいを端的に表現した言葉である。

■記事の選び手はセンスが偏ってる方がおもしろい

 以前、エントリ『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』(2005年・4月18日付)の中で、ブログのセレクター(選ぶ人)についてこう書いたことがある。

思えば昔読んでいた作家の傾向は、10代から20代にかけてハマった筒井康隆の影響をモロに受けていた。筒井氏がエッセイなんかで「この作家の○○って本はおもしろい」と書けば、かたっぱしから買い漁ったものだ。するってえとあなた、ものの見事にそれは「おもしろい」のである。

 つまり私が感じるツボと、筒井氏のツボはとても近いわけだ。だから筒井氏の選球眼に身をゆだね、巷にあふれる本をある程度、効率よく絞り込むことができた。

 ブログにもこの理屈は当てはまるはずだ。

「客観的・中立的見地から選びました」じゃなく、「オレがおもしろいと思うものを独断と偏見で選んだ。なんか文句あっか?」的な、いい意味でのゴーマン・セレクター。もしそのセレクターと私のツボが似ていれば、きっとブログ選びがかなり効率的になるだろう。


 つまりポジティブな意味で偏ったセレクターに相当するのが、ニュースサイトの管理人さんなのである。

「私」にとっては素晴らしいのに、「あなた」が読んでもおもしろくない。そんな落差のあるニュースサイトほど、存在価値があると私は思う。

■はてブの「お気に入りユーザー」も理屈は同じだが……

 ところで前述した私と筒井氏の関係性から、何かを連想しないだろうか? そう、はてなブックマーク(はてブ)のお気に入り機能である。

 自分と同じ記事をよくブックマークしている人を、「お気に入りユーザー」に入れておく。そうすれば「はてブ」でも、ニュースサイトと同じことが実現するはずだ。

 あとはその人のブクマ一覧を見れば、どれを読んでもおもしろいぞになると思いきや……案外、そうでもない。

 あくまで好みの問題なのだが、なぜか記事に当たりはずれがあるのだ。いったいどうしてだろう? 理由をつきとめようと前から首はひねっているが謎のままである。

 まあそんなわけで、はてブ「注目のエントリー」や『はてブニュース』『Alpha Clipper Clips』あたりをよく見ていたが、最近はまたニュースサイトにも目を通すようになった。『ゴリラブーツ』が私を変えてくれました、ってお話である。


【関連エントリ】 (今回の記事の後編的な記事です)

『書くときに役立つインスパイア源としてのSBM』

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言及文化は「ブログでTB」の時代からSBMへ

2007-12-19 10:21:53 | メディア論
 アメリカではネットユーザの約半数が、自分の名前を検索エンジンで調べたことがあるらしい。

Pew InternetおよびAmerican Life Projectによる最新の調査の結果、米国の成人インターネット利用者の47%が、Google等の検索エンジンを使用して「うぬぼれ検索」をした経験があることがわかった。

●TechCrunch Japanese アーカイブ『Googleで「うぬぼれ検索」しているのは、あなただけではない』


「うぬぼれ検索」というのは、自分の名前やハンドルをネットで検索する「エゴサーチ」のことだ。たぶんアメリカでは実名を検索する例が多く、日本ではやっぱりハンドルを調べるのが一般的なんだろう。

 で、ちょっと「エゴサーチ」を検索してみたのだが、面白かったのは「R25.jp」の記事だ。

“自分の名前を検索すること”は「エゴサーチ」と呼ばれていて、定期的にやった方がいい行為なのだ。ネットでは自分の知らないところで過去の写真や経歴、ヒドい場合は本名だけでなく住所や所属までもが表示される可能性がある。知らないうちに誹謗・中傷されてた、なんてことも…。(中略)これからは自分だけじゃなく、彼女や友人の名前もエゴサーチする習慣を!

『実は「エゴサーチ」って、定期的にやるべきなんです』


 ネットで晒されてるかどうかを調べるために、定期的にエゴサーチするのをすすめてるのだ。はぁ? そんなの考えたこともなかったぞ。

 ああ、私は実名でブログを書いてるんだから、晒されてるのは当たり前か。

 しかし文末の「これからは自分だけじゃなく、彼女や友人の名前もエゴサーチする習慣を!」ってのはどうなんだろうか。

 まあリスク回避のためって言えばそうだけど、しょっちゅう知人の名前をネットでシコシコ検索してる人って……なんかあんまり友だちになりたくないな。

 と思ったら、なんとWikipediaでもエゴサーチをすすめてた!

エゴサーチ (中略)自分の知らないところで個人情報が書かれていたり、誹謗中傷されている場合があり、それを発見するためにも定期的にしておいたほうがいい行為とされる。

●ウィキペディア(Wikipedia)『エゴサーチ』


 うーん。てことは今まで私は常識がなかったってことなのか……。

 と思い知り、ちょっと私もやってみた。

 ただし趣向を変え、Googleとかじゃなくkizasi.jpで「松岡美樹」をエゴサーチしてみたのだ。

 するとなんとまあ。ずいぶんいろんな人が拙ブログに言及してくれているではないか。でもトラックバックがきてないから、わかんないんだよねえ。ブログで言及されてても。

 自分のブログで誰かの記事を取り上げても、「相手にトラバは送らない」ってのが今や常識になったのか?

 まあトラックバック・スパムやスプログの影響もあるんだろう。けどトラバを使い、エネルギッシュに意見交換するかつてのトラックバック文化は、もはや死滅しつつあるんだろうか?

 そういや誰かのブログでこんな話を見かけたことがある。

「面白いエントリを読んでも、もう自分のブログでわざわざ記事にする気がしない。ブクマするほうが楽だ」

 さっき言ったトラックバック文化というのは、言い換えれば言及文化のことだ。考えてみればその言及文化は、今やトラバに代わり、ソーシャルブックマーク(SBM)が担うようになったのかもしれない。


(追記)複数の方から役に立つコメントをいただいた。「ブログ検索」サービスでエゴサーチした検索結果を、RSSリーダーに登録しておくのだ。そうすれば、いちいち自分の名前を入力して検索しなくて済む。なるほどこれは便利だ。追記しておく(2007年・12/19)
コメント (2)
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グーグル版Wikipedia、「knol」が巻き起こす実名論議に欠けているもの

2007-12-18 00:19:02 | 仕事の日記
 ネット連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」(ASCII.jp/アスキー)を更新しました。

■第4回 グーグル版Wikipedia「knol」が問う、匿名か実名か論議

 グーグルがテスト中の実名版Wikipedia、「knol」をめぐり、にわかに実名・匿名論議が巻き起こっている。そこで今回はknolを紹介しながら、上武大学大学院教授・池田信夫氏の実名論など、ネット上のさまざまな意見を見渡す。

 特におもしろいのは、ネットメディアの収益性コンテンツの質との関係だ。広告モデルで運営されている各種CGMの今後の動向が興味深い。

 それはどういう意味か?

 一般企業がこれらのメディアに広告を出すのは、自社の知名度やイメージをアップさせるためだ。だから誹謗中傷や暴言であふれたメディアには、当然、彼らは広告を出したがらない。

 とすると裏を返せば、CGMのサービス提供事業者が広告収入を重視すればするほど、ユーザが作るコンテンツの質や品位を気にかけるようになるってことだ。するとサービス事業者がコンテンツの中身をチェックし、内容に介入する可能性が高くなる。

 つまり広告の出稿動向が間接的に、CGMの質を向上させるんじゃないか? って話である。

 ただし手放しで喜べないのは、この場合、サービス事業者が商業主義を振りかざし、一種の言論統制をする形になることだ。この点は論議を呼びそうだ。

 また現状の実名・匿名論議には、必要不可欠なはずのある前提が抜け落ちている。そのために実名論がリアリティのない空論に堕している。今回のコラムでは、その点についても分析している。

 ではその不可欠な前提とは何か?

 くわしくはコラムをお読みください。ではお楽しみに。

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ブログを更新しないブロガーは死んだも同じ

2007-12-17 18:46:25 | インターネット
 以前、ブログの更新を半年以上サボったことがあった。そのときあるネット上の知り合いから、「最近更新がないけど大丈夫ですか?」と気遣いのお声がけをいただいた。

 最初は「えっ?」と驚いた。「何を言ってるんだろう、この人は?」と。私には意味がわからなかったのだ。だけどよく考えてみると、ネット経由オンリーのお付き合いでは、ブログを更新しないブロガーは死んだも同じなのだ。

(というか、その人は本気で心配してくれていたみたいだけど)

 いわば更新されたブログ記事だけが「元気な便り」なのである。

 で、それ以来、たとえ見知らぬ人のブログであっても、更新されてないと「大丈夫なのかな?」と気になるようになった。

現在、ブログなどのサービスはたいていが無料で利用できるので、会費滞納によって登録が抹消されることはない。本人が死んでも、その日記やブログはインターネットという空間で永遠に近い時を存在し続けることになる。

●日経トレンディネット『ブロガー死してブログを残す――ネット空間に生き続ける“友人”たち』


 筆者はこの世にいないのに、ブログだけがネット空間で永遠に漂い続ける。これも爆発的なブログブームがもたらした一億総表現者社会のひとコマなのだろう。

 なんだかシュールな光景ではあるけれども。

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「過去ログ読め」がない時代の新・文章術

2007-12-17 01:23:13 | へっぽこ文章講座
 エントリ単位で読むブログがポピュラーになってからというもの、ネットユーザの常套句だった「過去ログ読め」って言葉はすっかり鳴りを潜めた。

 なぜならブログは、各エントリが独立して存在しているからだ。時系列に関係なく、目についたエントリからバラバラに読まれる。過去にさかのぼり、順番に目を通すなんて系統だった読み方はあまりされない。

 しかもたまたまリンクでたどりつき、1エントリだけ読んだら「ハイ、さようなら」ってケースもふつうにある。

 てことは以前のネットマナーや、ネットの常識はもう通用しないってことだ。「当然、過去ログはひと通り読んでるはずだ」とか、「そうするのが当たり前だ」なんて概念は過去の遺物である。

 これを書く側から見ればどうなるか?

 あれは前に1回説明したからもういいやと思っても、「そのエントリ」を読んでる人は初めての人かもしれないのだ。しかもどの最新エントリに対しても、常にそれがいえるのである。すると同じことを何度もそのたびに説明しなきゃならない場合が出てくる。

 たとえばあるエントリで、「私は京都の出身です。京都では~」と書いたとする。で、何回かあとに別のエントリで、祇園祭を取り上げようと考えた。すると前に一度「京都の出身だ」と書いたけど、また同じことを言わなきゃならない。

 しかも京都に関係あることを書くたびに、以後、毎回これが起こるのだ。

 もちろん出身地の話だけじゃない。もっとややこしく、むずかしい事態もあるだろう(けど、すぐにはいい例が思いつかない)。

 みなさん、こういう経験ないですか? 

 というかこんな場合、みなさんはどうしてます? そのたびに同じ話を書きますか?

 ところが、である。そのつど同じ説明を書けば書いたで、また新たな問題が発生するのだ。

 もちろん初めてそのブログを訪問し、新鮮な気分で読んでる人が相手ならOKだ。だがそのブログをRSSリーダーに登録し、毎日のように目を通してる読者から見るとどう感じるか?

「おいおい、またその話かよ。同じ説明を何度も書いてるぞ。くどいなあ、この筆者は」

 こう思われてしまうのである。

 うーん、むずかしい問題だ。どうすりゃいいのこれ?

 なんかたまたま気づいたことなんだけど、すごい気になってきちゃった。



(追記)「ところが、である」以降を一部加筆した(2007年-12/17)
コメント (4)
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「SBMでは異論・反論しない」なんて私は言ってないよ

2007-12-16 10:57:32 | メディア論
「SBMではいっさい異論・反論しない」なんて私は言ってないよ。

 ブクマ・コメントで異論を唱えるときは、私は相手を無用に挑発するような表現はしない──。たとえば過去の数エントリで書いた論旨のひとつはこうだ。

 なんか「松岡さんがネガコメしない宣言をしたぞ」とか言ってる人もいて(※1)、一部誤解があるようだから論点を整理しておきたい。

 ※1:参考「私の記事(12/12付)に対する、はてブ・ページ」

 で、確認エントリを書くことにした。それが今回の記事である。

■「ネガティブ・コメント」の定義とは?

 まず何度も例にあげるが、ここでいう「ネガティブ・コメント」とは便宜上、ekkenさんのカテゴライズに準じる。定義は以下の通りだ。

-------------------------------------------------
【ネガティブ・コメントの4分類】

1. 事実確認
2. 異論・反論・批判
3. 誹謗・中傷・侮辱
4. コピペ(荒らし)

-------------------------------------------------

 つまりネガティブ・コメントとは、「モラルに反するコメント」って意味じゃない。相手から見て、「自分に否定的なコメント」のことだ。

 そして私がネガコメをしないと表明したのは、SBM上での話だ。ブログやその他のメディアは含んでない。また私は上記4分類のうち、1の事実確認や2の異論・反論を「いっさいしない」とは言ってない。私がやらないと表明したのは、3:誹謗・中傷と4:荒しだ。

■「私はあまりネガコメしない」と書いた意味はこうだ

「えっ、だって松岡さんはネガコメしないって言ったじゃん」と、まだ疑問をお持ちの方がいるかもしれない。そこでもう少し説明しておく。

 文章というのは、簡潔に読みやすくするべきだ。ゆえに、「私(松岡)はSBM上において、あんまりネガコメする気にならない。理由はこうだ」てな論旨を文中で言おうとするたびに、「私(松岡)はSBM上で、ネガコメ4分類のうち事実確認や異論・反論はするけど誹謗・中傷や荒しはしない。その理由は~」などと長ったらしく書くわけにゃいかない。

 そんな書き方をしていると、ものすごく回りくどい文章になってしまう。

 で、文中のポイントになる数箇所では、文字数をたくさん使い上記の主旨を説明した。そして、その他の箇所では簡潔に「ネガコメしない」と記述した。こういうのは文章技法のひとつとして、ごく普通のことである。

 また私が「あまりネガコメしない」などと、注意深く「あまり」をつけて何度も書いたのはそういう意味だ。いうまでもなく「あまり」とは、上記の定義1、2に当たるネガコメはするが、3と4はしないって意味である。

 定義1~4のうち、すべてのネガコメをいっさいしないわけじゃないから、「ネガコメはあまりしない」と書いたのだ。

 では念のため、証拠物件として「私(松岡)はSBM上で、ネガコメ4分類のうち異論・反論はするが誹謗・中傷や荒しはしない」てな意味のことを書いた箇所をあげておこう。

【証拠物件】

●「(誹謗中傷じゃなく)相手に対する異論・反論は、正当なネガティブコメントであると私は考えている」
 (『私がソーシャルブックマークにネガコメを書かない4つの理由』)

●「正当な異論・反論をやり取りする議論は、大いに結構である」(同上)

●「ネガティブ・コメントの定義は、前回に引き続きekkenさんのカテゴライズに準じる。(中略)で、これらのうち、異論・反論は正当で有意義なコメントだと私は考えている」
 (『SBMのネガコメは「言わせてもらうが反論するな」メソッドだ』)

●「また(私は)「この部分は自分の意見とちがうな」と思えば、表現を考えて異論を書く。(ただし)記事の筆者を意味もなく挑発するような書き方は避ける。相手が抱く感情的な反発は、(無益な)議論に引火しがちだからだ」(同上)

●(上記に関連して)「同じ異論を述べるのでも、書き方の問題は実に大きいのである」(同上)

 いったん要点をまとめよう。

【ポイント】

1. 私は文中の要所では、「SBM上で、ネガコメ4分類のうち異論・反論はするが誹謗・中傷や荒しはしない」と説明した。

2. 一方、その他の箇所では文章を簡潔にするため、単に「ネガコメはしない」と記述しておいた。

 つまり2の「ネガコメしない」は、1と同じ意味である。前述の通り、文章表現上の都合でそうした。どうも「ネガコメはしない」の部分だけを読み、誤読されている方がいそうなのであらためて付記しておく。

 自分で自分の文章をくどくど解説するのは本意じゃない。けど、こういう基本的な前提に対する認識が食い違ったままでは、それこそディベートにならない。で、あえて自分で自分の文章を解説した次第である。おしまい。

【本日の結論】

1. 私はSBM上で、ネガコメ4分類のうち事実確認や異論・反論はするが、誹謗・中傷、荒しはしない。

2. ただし相手に異論を唱える場合でも、書き方に注意する。記事の筆者を無用に挑発するような、愉快犯的な表現はしない。それは無益な誹謗中傷合戦の呼び水になるだけだからだ。

3. また異論の書き方に注意する理由は、もうひとつある。SBM上では、私が考えるスタイルの議論がしにくいからだ。

(だからといって私は、議論が可能になる機能をSBMに実装すべきだとは必ずしも思っていない。理由はこの記事に書いた通りだ)

4. では「私が考える議論のスタイル」とは何か?

 第一に、字数制限やその他モロモロの制約がないことだ。そのことにより自由に相手が私に反論でき、かつ私も自由に相手に問題提起できる

(ただしこれは平等主義で言ってるんじゃない。理由はこの記事を参照のこと)

5. では「私が考える議論スタイル」の第二点は何か?

 自分や相手、およびネット上の第三者がディベートを見やすいよう、できるだけ議論のやり取りが同一のメディア上で行われることだ。当然だが、そのほうが閲覧性や公開性、機能性が高い。

 上記5の理由は、少し説明しておく必要があるだろう。まずネット上における議論は、自分と相手の「2者だけ」がやり取りできればコト足れり、とは私は考えてない。

「当事者だけがやればいい」ってのは単なるケンカだ。それは議論ではなく、勝ち負けにこだわるただのプライド争いではないか? なるほどそのテの議論モドキなら、2者だけがやればすむ話だろう。

 けど私はネット上における議論とは、広く公開原則にもとづいて行われるのが理想だと考えている。

 たとえば第三者がその議論を傍聴したとき、「なるほど。こんなものの見方があったのか」と新しい発見をする。

 あるいは「自分ならこう考えるぞ」と、当事者以外の人も自由に議論に加われる。また実際に参加しないまでも、頭の中で擬似的に討論(議題について思考)する。で、そのことによりインターネットにつながった人々が総体として、その議論から何がしかの利益を得られる。

 これがインターネットの本質だと私は考えているからだ。

 インターネットは基本的に、万人に公開・共有された場所である。ゆえにそこで行われるディベートや専門知識の披瀝は、本人たちだけでなく不特定多数の第三者にとってもメリットになる。

 だからこそネット上では集合知が成立するのであり、だからこそネットは私にとって魅力的でエキサイティングなのだ。


(追記1)冒頭に「※1:参考」として、当ブログの過去記事に対する「はてなブックマーク」ページへのリンクを追加した(2007年-12/16 21:00)

(追記2)今回はタイトルを深く考えず、「言ってないぞ」などという言葉づかいにしてしまったため、私には悪意(他意)はないのにキツイ印象になってしまったかもしれない。ただ、このタイトルはすでにブクマされてしまっているし、今後の反省材料として、あえてこのまま修正せずに残しておきます(2007年-12/17 2:22)

(追記3)タイトルは元のまま残そうと思ったが、あのタイトルは当ブログが続く限り残るので、やはり無用な誤解は避けることにした。よって悪い印象を招きかねないタイトルを、以下の通り修正した(2007年-12/17 2:55)

旧タイトル『「SBMでは異論・反論しない」なんて私は言ってないぞ』

修正後の新タイトル『「SBMでは異論・反論しない」なんて私は言ってないよ』

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自分で自分の文章を解説するなんてイタイよねえ

2007-12-15 01:24:48 | へっぽこ文章講座
 文章とは、読んだ人が自由に解釈できるところがすばらしい。筆者がどんな意図で書いていようが、読み手が思うままにイメージの翼を広げられる。それが読むことの醍醐味である。

 まあ別に作文に限らず、芸術とはそういうものだ。だから自分の文章を自分で解説するなんてヤボだし、非常にみっともない行為である。

 だけどたまたまブログ「北の大地から送る物欲日記」さんから、私が書いたコラム『初心者ブロガーが「ブログ青春時代」を卒業するとき』(ASCII.jp)に以下のような問いかけをいただいた。

ブロガーとして立派な社会人ってのが何を指すのかは分からないけれど、

●北の大地から送る物欲日記『ブロガーとしての成長に卒業はない』


 なるほど。あの原稿は比喩を多用したから、読んだ人に意味が通じてない箇所も多いのかも? そう気づいた。とても貴重なご意見をいただいたと感じた。こういうのは実際に読んだ人から言われてみないと、自分じゃ案外気づかないものである。

 そこで今回は自分で自分を検証する意味を込め、ヤボを承知で自分の文章を解説してみることにした。これも自己研鑽になるはずだ。まあ一種の独り言みたいなものである。

 テキストは連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」で書いた前述の拙文だ。短いコラムなので、よろしければまずは上記の文章をお読みいただければと思う。

■隠された本当のテーマは何か?

 さて今回、拙文『初心者ブロガーが「ブログ青春時代」を卒業するとき』で題材にしたのは、ブロガーの心理である。

 ブログは一般に、始めた頃は何も考えず好きなことを書くものだ。ところが「記事を書き、アクセス数を見て」てな作業を続けるうち、幸か不幸か余計なことを考えるようになる。その代表格が「どうすればページビューが増えるのか?」である。

 せっかくブログを始めたっていうのに、「たくさんの人に読まれるにはどうすればいいのか?」、「ウケる原稿ってどう書くんだろう?」と思案するうち、多くの人が負の連鎖に陥ってしまう。

 最初はピュアな動機でスタートしたはずなのに、悪い意味でプロと同じこと、すなわち「売るためにはどうすればいいのか?」という商業主義の袋小路に迷い込む。今回のコラムでは、そんなブロガーの心理の変化をシニカルに描いている。

 ゆえにタイトルで使った「卒業」とは、純粋な心を失うことを指す。つまりネガティブな意味である。青春時代とは、恐ろしいまでにピュアなものだ。一方、誤解を恐れずにいえば、社会に出るというのはある意味「汚れる」ことである。

 ではコラム中で使ったポイントになる表現を、カンタンに説明していこう。以下、太字はすべて文中からの引用である。

『就活』

 文中では、初心者ブロガーが好きなことだけ書いてる状態を、「青春時代」「学生時代」と想定している。

 だけど学生さんはいつかは就職する。職に就けば、いままでとちがって好きなことだけやってればいいわけじゃない。生活するためには、やりたくない仕事もガマンしてやらなきゃいけない。人生の第二局面である。

 で、文中ではこの「食うために働く状態」を、アクセス・アップ目ざして「書きたくはないがウケる原稿を書くこと」に置き換えている。すなわちここでいう「就活」とは、手段が目的化した日々に突入する前段階のことを指している。

『嫌な仕事でもガマンして収入を稼がなきゃ』

 前述の通り、書きたくない原稿を書いて収入=アクセスを稼ぐって意味だ。仕事とは原稿を書くことである。

『テーマは絞ったほうがいい。でもそれは「正しい」のか?』
 (2ページ目の中見出し)

 前段は読んで字の如し。テーマを絞ったほうが、アクセス・アップの効果がある。でも書くことに対する純粋なモチベーションを忘れ去り、小手先の技巧(テーマを絞ること)に邁進するのは果たして「正しいこと」なのか? それが後段の問いかけである。

『これがいいことなのか? 悪いことなのか? 判断はその人本人がすることである。なにしろ更新頻度からいえば、その筆者がいちばん興味があるのはゲームなのだから』

 本人にとっては、ゲームの原稿を書くのが「いいこと」であるはずだ。だけどアクセス・アップを狙い、テーマを絞るという選択もある。どっちを選ぶかは本人が決めることである。それがいいことなのか、悪いことなのかは別にして。

『その意味では今やプロの出版人だけでなく、素人さんも売れる媒体を日夜考えているのである』

 これまたシニカルな意味を込めた表現だ。本来なら考えなくていいことを、素人さんが考えてるよね、って話だ。

 いわゆるプロの人々は経営を考え、「売れる媒体」を目指さなきゃならない。だけどその必要もない素人さんが、わざわざ自分で自分の創作活動を鋳型にはめ込んでどうするの? それってつまらないと思わない? てな意味で書いている。

『果たして彼はこの難局を乗り切り、ブロガーとして立派な社会人になれるのか?』

「就活」の項で説明した通り、この場合の社会人とは「食うためにやりたくない仕事をガマンしてやってる人々」の意味だ。つまり「ブロガーとして立派な社会人になる」とは、アクセス稼ぎのために日夜書きたくない原稿を書く「リッパなブロガーになること」を指す。これもシニカルな表現である。

『いやそれ以前に社会人になること自体がいいことなのか? 悪いことなのか?』

 この場合の「社会人」も、前項で説明したのと同じ意味だ。アクセス・アップのために書きたくもない文章を書く「社会人」になることは、果たしていいことなのか? 疑問の提示である。

【本日のまとめ】

 文章を仕事で書いている「プロ」の立場から見ると、「素人さんは何をどう書いてもいいはずなのに、なぜわざわざ自分で自分に窮屈な枠組みをハメるんだろう?」って疑問がわく。アクセス・アップという「大義」のために。

 そんな皮肉な疑問を文章にし、「あなたは本当にそれで後悔しないですか?」と問いかけたのが今回のコラムである。以上、無粋な解説はこれにて終了。次回からはいつものモードにもどろう。

 ではみなさん、またよろしくお願いします。

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