すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

池田信夫さんはOpenIDでOKなんですね?

2008-02-06 11:19:28 | 実名・匿名問題
■OpenIDやgooIDなどを列挙し推奨する池田さん

 ヤフーが1月30日、OpenIDに対応して「おっ」と思わせたが、実名派の巨頭と目されていた池田信夫さんはOpenIDを支持しているらしい。

松岡氏もDan氏も勘違いしているが、完全匿名の補集合は完全実名ではない。OpenIDでもいいし、当ブログのようにgooIDでもいい。diggやSlashdotのようにメンバーどうしで格づけして悪質なコメントを隠すしくみもあるし、Boing BoingのようなIDと事前承認の2段構えもある。何もしないと、日本のウェブは芸能情報とオタク情報で埋め尽くされるだろう。

●池田信夫 blog『ウェブを「匿名の卑怯者」の楽園から脱却させるには』(2008年2月5日付)


 匿名主流だとウェブが芸能&オタク情報ばかりになるというのはよくわからないが、池田さんは完全実名派ではなくOpenIDでOKなんですね?

 ちなみに私はgooブログを使っているので当然IDも持っているが、池田さんはgooIDでも「是」らしい。

 現に池田さんは2月1日付のブログ記事で、「今後はgooIDでログインしないとコメントできない仕様にしました」と宣言されている。

 その上で「確信犯は防げないので、どの程度、効果があるかは、やってみないとわかりません。ただ『実名か匿名か』という不毛な論争の妥協点になる可能性もあるので、テストしてみます」とお書きになっている。

 またこの記事では以下のように、OpenIDに対する支持も表明されている。

私は、実名や特定のIDを法的に強制することには反対です。OpenIDのようなシステムを多くのサービスが採用することによって「自生的秩序」が形成されることが望ましいと思いますが、今のところOpenIDはまだマイナーなので、gooIDでやってみます。

●池田信夫 blog『gooIDについて』


■「IDが穢れるから中傷が防げる」は、私が主張する原理とまったく同じだ

 ところで池田さんは上記の記事で、gooIDを使う効果について「これによって口汚ないコメントをしたら自分のIDが汚れるというreputationを意識するようになるでしょう」としている。(強調表現は松岡による)

 加えて私も連載しているアスキーのASCII.jpでも、2月5日付のコラムでこうお書きになっている。

 最近いくつかのサイトで採用され始めた「OpenID」は、複数のウェブサービスにおいてログイン時のID入力を簡便化するための認証システムになる(関連記事)。これがウェブ全体で使う「固定ハンドルネーム」的になれば、口汚ない発言をするとIDの評判が落ちるので、自分の評判を守るようになるだろう。(強調表現は松岡による)

●池田信夫の「サイバーリバタリアン」『第2回 ウェブを「匿名の卑怯者」の楽園から脱却させるには』


 主旨としては、私が3年前にエントリ『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』で書いた「いつも使うハンドル」支持論、および、それが暴言を防ぐ原理とまったく同じなので、ちょっと驚いた。

 私のエントリの該当箇所を引用しておく。

 たとえばAさんがいつも使っているHNで、どこかのサイトに罵詈雑言を書いとしよう。その「どこか」はAさんの巡回先である可能性が高い。

 すると似たようなサイトを巡回しているAさんのネット上の知り合いが、それを目にする可能性は高い。「Aさんて、電波だったのね」。そんなふうに思われ、友人をなくしてしまう。つまりネット上における世間体が歯止めになるわけだ。(中略)

 たとえ実名に紐付けられてなくても、いつも使っているHNはネット上で実名と同じ機能を果たす。趣味などを通じてAさんが築いたコミュニティとAさんは、HNで結び付けられている。

 罵詈雑言を書いたせいでHNが穢れてしまえば、Aさんはかけがえのない自分のコミュニティを失う危険性がある。これはリッパに抑止力になるだろう。

●すちゃらかな日常 松岡美樹『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』(2005年5月17日付)


■それなら「はてなID」もOKなのでは?

 発言者が誰なのか? を示す何らかの記号が存在し、それが同じ発言者であることを継続して担保することにより、誹謗中傷が防げる──この点において、池田さんと私の主張は何ら変わりない。

 またこれら一連の記述から池田さんは、<発言者の同一性が保持・継続されるならシステムは問わない>とお考えになっているようにも思える。

 とすれば「はてなID」や、はてなIDを使ってブクマ・コメントするはてなブックマークでもOKなんじゃないか、と感じるのだが、どうなんだろうか?

【ご参考】

『はてなでOpenID』(はてな)

『OpenID入門――その導入で何が変わって何が変わらないのか』(ITmedia)

『OpenIDの仕様と技術』(@IT)

(追記)話をわかりやすくするために、文末に参考資料を付けた(2008年2月6日)

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局面限定主義の実名論なら「現実味アリ」か?

2008-01-12 14:13:28 | 実名・匿名問題
■総務省や文科省が誹謗中傷対策に乗り出す

 去年から今年にかけ、ネット上の誹謗中傷や有害サイトをなんとかしよう、って動きが活発になってきた。(文末の「参考サイト」参照)

 今回は総務省や文科省など、お役所が対策作りに乗り出してるだけに本格的だ。うかうかしてると将来的には、「なんでもかんでも実名にしてしまえ」てな暴論に基づく法律ができちゃう可能性もなくはない。

 そこで今回は実名制の実現性と、実名論議が陥りやすい「ポジショントークの罠」について考えてみる。

■局面を限定した実名制以外は空理空論だ

 まず最初にお断りしておこう。私はインターネットの実名化に反対だ。だけど単に反対してるだけじゃ、お役所にとんでもない案件を通されかねない。

 で、あえて実名制の肩をもち、どんな実名制なら実現する可能性があるか? を提案の意味も込めて考察してみることにした。

 いちばん実現の可能性が高く現実的なのは、局面を限定した実名制だと私は思う。それ以外の実名論はたいてい空理空論に近い。

 リアル世界の芸能人や評論家、学者などの有名人を除き、だれも名前を明かしたがらないのに制度だけ導入しても意味はない。「実名でなきゃダメなの? なら、ネットなんてやめるわ」と、せっかくユニークな発想や思考、文章、絵、動画を発信してるネットユーザがごっそり減るだけだ。

 そんなことになってしまえば、ネット上における総体としてのクリエイティビティは大幅に下落する。とんでもない損失だ。

 私が実名制に反対する理由はこれである。

■一種のローカルルールとしての実名制

 さて局面を限定した実名制に話を戻そう。

 たとえば仮に、ある分野の「専門家」が実名で情報発信してるとする。じゃあこの人は以下、どっちの実名主義なのか?

【シーン別実名主義】

「オレの学説を取り上げ、ほめたり批判したりするときには、『お前』も実名で意見を書け」

【365日実名主義】

「オレは実名で情報発信している。だから匿名の『お前』もオレと同様、常に実名で情報発信しろ。自分だけ匿名でモノを言うお前は卑怯者だし、今の状況は不公平だ」

 くらべてみてどうだろう?

 自分は勝手に実名で書いているのに、「周りの人間すべて」に同じことを強要する──。「365日実名主義」がいかにナンセンスな論理かよくわかる。

 一方、最初にあげた局面限定主義の実名論なら、まあ現実味はある。一種のローカルルールみたいなものだ。ただしこの場合、「自分が運営する実名ブログのコメント欄に、匿名書き込みがあれば削除する」ってだけじゃない。

「ネット上のあらゆる場面で『オレ』の学説を取り上げる場合、実名を使え」って話だ。ゆえに厳密な意味ではローカルルールじゃない。

(断っておくが、私自身は匿名で私のことが取り沙汰されようが気にしない)

■Googleがテスト中の実名版Wikipedia「knol」は支持される?

 また前述のケース以外にも、局面限定主義の実名論はありえる。たとえばGoogleがテストしている実名版Wikipedia「knol」なんかもそうだ。

「Wikipediaみたいな客観的事実を積み上げた辞典を作りたい。ついては実名化することにより、文責がだれにあるかを明らかにする。そのことでノイズを減らし、論述のクオリティを上げたい。客観的事実を書くぶんには、実名でも差障りないでしょう?」

 上記のような論理なら理解できるし、それはそれで現実的だと思う。ちみなにこの場合も「knol上では実名で書け」って話だからローカルルールだ。

 いったんまとめよう。

 こんなふうに局面や媒体を限定した上での実名制なら話はわかる。だけど「365日実名主義」には賛成できない。また現実味もない。

■「人種」を限定した人権論はおかしい

 一方、実名論議をすると必ず出てくる言説で、「それはおかしいだろう」という物言いをひとつだけやっつけておきたい。

 それは次のような主張である。

「実名で情報発信する専門家の人権は守られるべきだ。その専門家が誹謗中傷や荒らしに遭わないよう、守られるべきだ」

 この人自身が専門家だから、いわば自分の権利を主張してるんだけど……目指すべきは、あらゆる人がネット上で誹謗中傷にさらされない世界の実現じゃないだろうか?

 専門家実名者の人権だけでなく、匿名者も含めたすべての人の人権が等しく守られるべきなのだ。

 なのに「専門家」の人権だけを主張するこんな言説は、実名主義者のポジショントークにすぎないといえる。

■実名者をいくら攻撃しても許される?

 一方、同じことは匿名主義者にもいえる。「自分が匿名だから関係ないや」と、無責任な物言いをするポジショントークの例だ。これも実名論議になると繰り返し出てくる珍説である。

「実名で書いてるやつは売名が目的だろ? 自分を宣伝するために実名で書いてるんだから、匿名者から攻撃されるリスクはちゃんと織り込んでおけよ」

 言い換えれば、「お前は宣伝のためにやってるんだから、殴られても文句は言うな。それは自分が悪いんだ」って論法だ。ところが一方の匿名者サイドは、いくら攻撃しようが誹謗中傷しようが許されるんだ、みたいな話になっている。

 つまりこれは匿名者が、周囲の匿名者たちの空気を読んで行なう言説なのだ。

 この論法では、「実名者なら攻撃してもオッケーだ」ってことになってしまう。明らかな暴論である。

 繰り返しになるが、人権が守られるべきは「実名者か匿名者かを問わず」だ。同様に誹謗中傷は、「実名者か匿名者かを問わず」許されるべきではない。そんなものは当たり前である。

 まあ、もとは「実名を出すなら自己責任でやれ」って主張なのかもしれない。もちろんそれはそうだ。けど、だからといって逆側(匿名者)が行なう暴力が許されるんだ、って話にはならない。

 こんな暴論を主張する匿名者がいるから、○○さんみたいな人が「実名者だけ」の権利を主張するようになっちゃうわけ。まさに悪循環の堂々めぐりだ。

 もうひとつ言っておきたい。

 このテの暴論をタテに、匿名者の暴力を「オッケーだ」なんて認めていると……いやまじめな話、お役所が「よーし、もう見逃せんわ。さあみんな、明日からインターネットは365日実名でやることにしたぞ」とかいってヘンな法律を出してきかねない。

 私はそんな事態になることを、真剣に危惧している。


【参考サイト】

『学校裏サイト:文科省が実態調査 対策案策定も検討』(毎日jp)

『「情報通信法」(仮)が最終報告――ネットに「最低限の規律」』(@IT)

『“闇サイト”など違法・有害情報の対策強化へ、総務省が検討会を開催』(INTERNET Watch)

『携帯サイトフィルタリング、未成年者は原則加入に』(ITmedia)

『有害サイト削除、民主が独自法案・プロバイダーに義務化』(日経ネット)

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実名制度は集合知の多様性を奪うか?

2007-08-02 07:31:39 | 実名・匿名問題
 ブログ「福田::漂泊言論」さんからトラックバックをいただいた。ポイントは集合知の定義や解釈に対する疑問だ。論点が微妙に実名制度から逸れてるんだけど、まあこれはこれでおもしろいからいいや。

 さてブログ「福田::漂泊言論」の筆者の福田さんは、私がエントリ『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』で書いたのとは逆に、「多様性がなければないほど『集合知』の価値が上昇すると言えると思います」と言う。

 じゃあまず、私が書いた集合知のくだりを引用しよう。

 インターネット上に存在するデータ(文章その他)は、集合知である。集合知は、束ねられた意見の数が多ければ多いほど価値が増す。また、そこに集積された意見が多様であればあるほど意義深いはずだ。それが実名でなされたものか? それとも匿名か?なんて関係ない。

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』


 福田さんはこの論述に対し、次のように疑問を投げかけている。

「また、そこに集積された意見が多様であればあるほど意義深いはずだ。」というのは一体どういう作用のことを言っているのでしょうか。集合知は「意見が多様であればあるほど」その「解」に近づきにくくなるわけですから、意義深くはならない筈です。例えば営業社員の売り上げ予測が各人てんでばらばらだったら正確な売り上げの予測結果自体がそもそも導きにくくなる筈です。

『2007年08月01日 現状維持派の方々への返答 その4(および「集合知/多様性」について)』


 まず「『集積された意見が多様であればあるほど意義深い』というのは一体どういう作用のことを言っているのでしょうか」についての答えから行こう。

 前にも書いたが、小倉さんにしろ福田さんにしろ実名制を唱える方は、1+1が必ず2になる数学的な問題だけが議論のテーマだとイメージされてるフシがある。

 だけどたとえば「人間はなぜ生まれてくるのか?」をテーマに、さまざまな人が自分の意見をブログで公開したとしよう。すると「種の保存のためだ」って見方をする人もいるだろう。かと思えば、こう考える人たちもいる。

「生まれてきた人間1人1人が異なる目標を持って生きれば、生まれてくる人間が多ければ多いほど、社会に多様性が生まれる。それはいいことだ」

「生まれてきた人間1人1人が異なる目標を持って生きれば、その社会は必然的に多機能化する。そのことによって、他人は他人がもたらす多種多様で専門的な機能の恩恵を蒙り、より多くの便益が得られるようになる」

「人間はなぜ生まれてくるのか?」てなテーマに対する答えは、ひとつじゃない。かつ、正解がなかったりする。つまり1+1が2にならないのだ。このテのお題はほかにいくらでも考えられる。

 こんなテーマのときには当然、たくさんの参考意見を聞けたほうがいい。かつ、それぞれの意見が異なって(多様化して)いたほうが有益だ。なぜならその中から自分の価値観にフィットする考えを選び、自分の人生に取り入れて生きて行けるからだ。

 多様性とはすなわち選択肢の豊富さであり、その中からより自分に近いものを選べる柔軟性でもある。これが回答のひとつめだ。

 続いてふたつめに行こう。福田さんは多様性がない方がいい場合の例として「営業社員による売り上げ予測」をあげ、「予測が各人てんでばらばらだったら正確な売り上げの予測結果自体がそもそも導きにくくなる」とする。

 つまり売り上げ額という正解はひとつなんだから、それ以外の誤答は必要ないじゃないか、って話だ。なるほどこっちは、1+1が2になるお題である。

 でもちょっと考えてみよう。カンタンな話だ。

 仮に売り上げ額の正解が2000万円だとする。で、売り上げを予測する営業社員は20人いると仮定しよう。このときたとえば20人全員が、「売り上げ額の予測は1000万円です」と分析したらどうなのか? 答えに多様性はなく単一だが、その単一な答えがまちがっていては絶対に正解へたどり着けない。

 一方、「2000万円だ」って人もいれば「700万円だ」と言うやつもおり、「1500万円です」と主張する人間もいる多様な状態ならどうか?

 それぞれが数字を出している以上は、各人がもとになる根拠や分析を行っているはずだ。なら、全員の分析を聞いてそれらを精査し、正解がどれなのかを突き止めればいいのである。

 多様であることはすなわち、保険が用意されているってことだ。多様性には人間が誤りを選択してしまうリスクを減らす効果が備わっているのである。

 もうひとつわかりやすい例をあげよう。選挙が終わったばかりだから、民主主義の話にするかな。

 民主主義っていうと多数決の原理ばかりがクローズアップされるが、決を採る過程では多様な意見をすり合わせて議論する。その上で採決を行う。おわかりだろうか? 前述した通り、たくさんの答えの中から売上高2000万円という正解を導き出す行程と同じなのだ。

 じゃあ、逆にナショナリズムがガーッと盛り上がった場合はどうだろう? 国民世論が一致して、仮にこう考えたとする。

 年金は破綻するし、ワーキングプアとか格差とか日本は難問山積だ。それというのも日本は資源がない国だからである。そうだアメリカと戦争して領土を広げよう。このさいだ、やっちまえ

 歴史を振り返れば、戦争に突入するときというのは、往々にしてこんなふうに世論が単一化したときだ。「いや待て。勝ち目がないぞ」とか、「アレクサンダー大王の時代じゃないんだから、戦争で領土を広げるなんてナンセンスだ」とか、多様な意見があるからこそ正解を導き出せるのである。

 余談だが、福田さんの発想を見ておもしろいなと思ったのは、他人に答えを出してもらおうと考えているところだ。主体的じゃないのである。

「意見が多様であればあるほど、その解に近づきにくくなる」っていう福田さんの論法は、他人が解を考える場合の話だ。一方、私なら、それらの多様な意見を自分の頭の中に取り入れ、自分の頭で分析すればいいじゃないかと考える。

 他人がポンと答えを出してくれるから、そこにあるのは単一の正解だけでいい。合理的だが、いかにも70~80年代以降のマニュアル文化の洗礼を受けた発想である。

 いや私は福田さんがどんな世代なのかも知らないし、別に福田さんを批判してるわけじゃない。あくまで一般論だ。で、おそらく他力本願なこのテの発想は、特に若い人に多いんだろうと思う。

 たとえば「朝まで生テレビ」を見て、「あの番組は結論が出ないから意味ないじゃん」てなことを言う人は多い。いや結論は自分で出すんだよ。人が考えてくれるんじゃない。番組の中であれだけ多様な考えが提示されてるんだから、それらをもとに自分の頭で考えればいいじゃないか。

 てなわけで話がいい感じにあさっての方向へ飛んだところで、今回はおしまい。福田さんが出したほかの論点については、もし気が向いたら次回以降に書く。しかしホントは実名・匿名問題って、私の中ではとっくに結論が出てるんだけどなあ。

【関連エントリ】

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』

『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』

『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』

『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』

『小倉さん、印象操作はほどほどに』

『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』
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インターネットの「リアル世界化」は正解か?

2007-07-30 18:33:43 | 実名・匿名問題
 ブログ「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」さんからトラックバックをいただいた。「等価交換」というキーワードで、実名、匿名の功罪がうまくまとめられている。ポイントを引用しよう。

(前略)ブログが持つ名もなき人も読んでくれる流通力を享受しているわけだから、ある程度は、ekkenさんがおっしゃる匿名でのネガティブコメントも、メリットとデメリットの「等価交換」であるのが望ましいとすれば、それはしょうがないのではと思います。甘受すべき範囲内なのではないかと思います。(中略)

 松岡さんは、たぶん、そういうブログの流通性や自由との「等価交換」として、ネガティブコメントなどの荒らしはあるというデメリットがあるのがブログというかネットの現実なのだから、きっと、初心者にブログを実名ではじめるのを勧めるというのは無茶だと思われたからこそ、反論を書かれたのだと思います。そして、現実を生きる知恵として、「スルー力」を啓蒙されたのでしょう。

『「実名匿名論争」雑感』


 大筋はその通りです。ただしekkenさんがおっしゃる「ネガティブコメント」とは、正当な批判異論も含んでいます。ネガティブコメント=誹謗中傷ではない。そのあたりはekkenさんのエントリ『小倉弁護士は「ネガティブコメント対策」への理想が高すぎるのではないかと』をご参照ください。

 さて今回は上記の引用部分のうち、前段を少し補足させていただきたい。

 インターネット上に存在するデータ(文章その他)は、集合知である。集合知は、束ねられた意見の数が多ければ多いほど価値が増す。また、そこに集積された意見が多様であればあるほど意義深いはずだ。それが実名でなされたものか? それとも匿名か?なんて関係ない。

 で、問題なのは、(前回も少し触れたが)仮にインターネット上に実名制度が導入されれば、少なくない数のネットユーザが情報発信をやめてしまう可能性があることだ。

 とすれば集まった意見の数が多いほど、また意見が多様であるほどに価値があるとの定義に照らせば、実名制度下における集合知の意義は大幅に下落することになる。

 この部分の見方が、私と小倉さんではかなりちがうのだ。小倉さんの持論をこのケースに当てはめれば以下のようになるのだろう。

「インターネットが実名化されれば、いままでネット上で発言してなかった専門家知識人がブログを書くようになる。そのぶんスペシャリストの意見が、今までよりもネット上に上積みされることになる。だから実名制度には意味がある」

 ところがそのテの専門家や知識人は、すでにリアルの世界で発言したりモノを書いているのだ。読みたければ別にネット上でなくても、本屋さんに行けばいい。

 また実名化により、仮にネット上に存在するのが彼らの発言だけになったとしたら、それはリアルの世界とどうちがうのか? 単なるインターネットのリアル世界化ではないのか? そんな世界に意味はあるのかと私は思う。

 一方、小倉さんが「匿名」とカテゴライズする人々の論述は、ネット上にしかないケースが多い。実名制度の導入で彼らの声が消えてしまえば、もうどこを探しても意見が聞けなくなる。

 かつ個人的な体験で言えば、「匿名」の人の意見に教えられたり、インスパイアされることは多いのだ。私は自分のブログのコメント欄で、何度もそれを経験している。

 最後に、前回エントリの結論部分を一部再掲しよう。

 だけど実名化のせいで、匿名だからこそ書かれていた無数の有益な文章、才能ある書き手が消えてしまうとしたら損失が大きすぎる。ゆえに私はその観点から、実名制度に反対である。


 実名化のメリット、デメリットを秤にかければ、やっぱりデメリットが大きすぎると私は思う。

【関連エントリ】

『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』

『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』

『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』

『小倉さん、印象操作はほどほどに』

『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』
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誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由

2007-07-26 12:27:29 | 実名・匿名問題
 ブログ「福田::漂泊言論」さんから、エントリ『小倉さんへの異論が批判力を持たない理由』をトラックバックしていただいた。

 文中ではいろんな論点が提示されており、あれこれ考えるきっかけになった。やはり他人の異論を聞けるのは有益だ。

 では結論を先に言おう。こうした小倉さんへの擁護論には説得力がない。その理由は「誰のための実名制か?」という根本的な疑問を、無視できない数の人が抱いているからである。

 では読ませていただいたエントリ『小倉さんへの異論が批判力を持たない理由』の文脈を追いながら、考えてみよう。

 まず第一の疑問は、ブログ「福田::漂泊言論」さんの現状認識である。同エントリでは随所に気になる表現が散りばめられている。そこで文頭から順に【ポイント】として上げていく。各引用文の下段の文章は、私の感想とツッコミである。

【ポイント1】

小倉さんの、匿名問題を扱った幾つかのエントリをめぐって、一部の方々が異論を唱えていらっしゃいます。(※強調表現は松岡による)


 単に「異論を唱えている方々がおられます」とお書きになればいいのに、なぜわざわざ「一部の方々が」と付け加えるのか?

 こういう表現を見ると、「小倉さんに異論を唱えているのはごく一部の人にすぎない」というイメージを読み手にあたえようとしてるんじゃないか? てな既視感にとらわれる。そう。小倉さんがよくお使いになる印象操作って言葉である。

 もちろんどういう意図でこうお書きになっているのか不明だ。なので、どうか気を悪くしないでいただきたい。少なくとも外から見ればそう見える、というお話である。

【ポイント2】

「匿名の暴力に対して社会全体がもううんざりしている」という現実があります


 これも第一のポイントと同じだ。「社会全体」などと、あたかも社会の構成員すべてが「匿名の暴力」にうんざりしているかのような書き方をされている。さすがに誇張がすぎるだろう。

 ん? 誇張? ああ、またも既視感がワラワラと……。まあいいや。で、「社会全体」とお書きになる以上は、独自に統計でもお取りになったのだろうか? いや別に皮肉や非難じゃなく、素朴な疑問である。なぜなら少なくとも私自身には、「匿名の暴力にうんざりしている」実感がないからだ。

 もちろん私のブログのコメント欄にも、小倉さん流に言えば「コメントスクラム」な皆さんがたくさんお見えになることはある。たとえばこの欄とか、こことかね。

 けどこのテのお客さんが大量に来ても、私みたいに平然とコメントを公開してスルーする人間もいる。(しかも私は小倉さんが主張されている実名でブログをやっている)。

 一方、かと思えばパニックに陥り、「コメントスクラムだ」、「私が反論できない大量のコメントはハラスメントだ」、「匿名者による不当な暴力を許すな」と騒ぐ人もいる。人間には2種類いるのである。

 で、前者の人間から見れば、「匿名の暴力を防ぐために実名制度を導入しよう」と言われても実感がわかない。「それって誰のためにやるの?」と思ってしまう。もしかして、「私が反論できない大量のコメントはハラスメントだ」とおっしゃるごく一部の方々のためにやるんでしょうか?

【ポイント3】

『現状維持』を連呼するだけではこの社会全体を覆う『うんざり』感を払拭することはできないわけです


 またもや「社会全体」なる言葉をお使いになっている。第一、第二のポイントにも書いたが、あたかも国民すべてが「匿名の暴力」にうんざりしているかのような表現だ。

 こうした誇張極論論理の飛躍は、私がエントリ『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』で指摘した通り、小倉さんの論法に驚くほど似ている。

 私から見れば「またコレか?」と思うだけだ。

 私には「社会全体がうんざり感にとらわれている」てな実感がない。だから失礼ながら、このエントリにはまるで説得力がない。

 もっとも「うんざりしている」のは社会全体じゃなく、【ポイント2】で上げた「私が反論できない大量のコメントはハラスメントだ」と叫ぶごく一部の方々だとおっしゃるなら意味はわかるが。

【ポイント4】

別に小倉さんの提案は完全無欠の策ではないわけですから(そもそも完全無欠の策などあり得ないわけですが)、「完全にカバーしきれない」だの「穴がある」だの言ってみたところで、「現状維持」をあっけなく手放さざるを得ない状況下ではそんなことあまり重要ではありません。


 ここでも、あたかもそれが既成事実であるかのように「もはや現状維持はできない状況だ」との論旨でお書きになっている。だけどいったいこれは誰の認識なのか? 少なくとも私は匿名と実名が混在する今のままでいいと思うし、無視できない数の人々が同様に考えているだろう。

 もちろん私はネット上の暴言被害をなくしたいと思う。前述の通り私自身も被害を受けているし、無視できない問題だと思う。だが少なくともそれはインターネットの実名化によってではない

【ポイント5】

松岡美樹さん(が書いた/注・松岡)、(中略)「多くのネットユーザが否定している(かつ、実際にデメリットが大きい)実名主義」という表現は、「現状維持」をあっけなく手放さざるを得ない状況下では当てはまらない表現であると言えるでしょう。


 またもや「現状維持できない状況にある」ことが、既成事実であるかのようにお書きになっている。だけど私はそう思わないのだ。だから「多くのネットユーザが否定している(かつ、実際にデメリットが大きい)実名主義」と書いたのである。

 ひょっとしてブログ「福田::漂泊言論」さんは、インターネットの実名化が絶対に避けられない必須の路線だと認識されているんだろうか? だとすれば私の認識や、私が書いた原稿と結論が大きく食い違うのは当然だ。

 とすれば「インターネットの実名化が絶対に避けられない」とお考えになっているのは誰なのか? それらの方々はどこに、何人おられるのだろうか?

【ポイント6】

で、松岡さんご自身がオルタナティブな策をご提案なさるのかと思いきや、結局次の小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だというエントリの中でも特になさっていません。


 繰り返しになるが、私は消極的・現状維持派だ。だから別に現システムのままでもいいし、実名化以外の良い方策があるならそれでもいい。

 私は「絶対にシステムを変えなければいけない」なんて思ってないのだ。ゆえに積極的に対案を出そうなんて気は毛頭ない。というかそのテのシステム論には正直、まったく興味がない。だから書かない。それだけの話だ。

【ポイント7】

しかも(松岡美樹は/注・松岡)「本来なら個のモラルに帰すべき問題に対し、システムや技術が必要以上に介入する危険性はないのか?」とまでおっしゃっています。

 そもそも現状のシステムでは、個の発言の抑制機能として「個のモラル」に多くを依存し過ぎているからこそ「匿名の暴力」が蔓延り「匿名の暴力に対して社会全体がもううんざりしている」という現実があるわけですから、「本来なら個のモラルに帰すべき問題に対し、システムや技術が必要以上に介入する危険性はないのか?」というご発言は、「現状維持でいいのでは?」とおっしゃっているに他ならない言えるでしょう。(一部改行した)


 はい、その通りです。繰り返しになりますが、私は消極的・現状維持派です。で、ここでもまた「『匿名の暴力に対して社会全体がもううんざりしている』という現実があるわけですから」と決め付けているが、うんざりしているのは誰なのか? いったい誰のための実名化なのか? 次の項で私の考えを述べよう。

【まとめ】

 仮に実名制度がネット上に導入されれば、少なくない数の才能あるネットユーザがブログをやめてしまうことが予想される。彼らの文章を読めなくなるのは大きな痛手だ。損失は計り知れないと私は考える。

 前回のエントリ『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』でも書いたが、こうしたクリエイティビティの損失は深刻な問題だ。

 とすればいったい、実名化は誰のためなのか? ひとつは芸能人など、リアル世界の有名人だ。もうひとつは大学教授や弁護士、作家など、リアル世界におけるエスタブリッシュメントである。

 彼らエスタブリッシュメントが、リアルの世界で持っている権威や既得権益を、ネット上でも行使できるようにするためのシステムが実名制度ではないのか?

 彼らがリアルの世界と同様、誰の反論も受けることなくネット上で発言するためのシステム。それが現状言われている実名制度ではないのか?

 私は実名で仕事の原稿やブログを書いているから、私個人はインターネットが実名制になったとしても何ら変わりない。

 だけど実名化のせいで、匿名だからこそ書かれていた無数の有益な文章才能ある書き手が消えてしまうとしたらダメージが大きすぎる。ゆえに私はその観点から、実名制度に反対である。

【関連エントリ】

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』

『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』

『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』

『小倉さん、印象操作はほどほどに』

『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』
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小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ

2007-07-25 09:46:14 | 実名・匿名問題
 弁護士の小倉秀夫さんが唱える実名制度や議論の定義には、欠点が多い。そこで今回は小倉さんが提示されている論点を検討しながら、よりよい議論のあり方や実名・匿名問題を考えてみる。

 まずは正当な議論と、不当な物言いの定義をはっきりさせよう。それにはekkenさんが作った4分類がわかりやすい。一部、アスキーに書いた『スルーが効く理由(わけ)、効く場合』と重なるが、ご了承願いたい。

 ekkenさんは、サイトの管理人が不快感を覚える可能性のあるコメントを次の4つにカテゴライズしている。

1. 事実確認
2. 異論・反論・批判
3. 誹謗・中傷・侮辱
4. コピペ(荒らし)

『小倉弁護士は「ネガティブコメント対策」への理想が高すぎるのではないかと』(ekken)


 そして何かを主張するタイプのブログや議論系のブログは、読者から1:「事実確認」や2:「異論・反論・批判」を受けたとき、拒否してはいけないとする。

「オレは言いたいことを言う。だけど他人がオレ様に異論を述べるのは許さない」てなご都合主義を否定しているのだ。

 ちなみに「事実確認」とは、「ココはこうまちがってるんじゃないですか?」、「それは正確には○○ではないですか?」などと事実関係を確認する行為を指す。

■数が多いと内容がよくても不当なコメントになる?

 ekkenさんの主張に対し、小倉さんはエントリ『ekkenさんはブログ主に課すハードルが高すぎる』の中で、1と2のコメントに付帯項目をつけている。で、付帯項目に抵触するものは、1と2であっても「ハラスメントだ」と言う。

 1.や2.が「匿名でなくともできる」通常の態様でなされるのであればそうでしょう。しかし、1.や2.だって、言葉遣いに問題があったり、生活の片手間にブログの維持管理を行っているに過ぎないブログ主がおいそれとは応えられないであろう分量の投稿を行ったり、ブログ主が誠実に対処しても同じことを何度も何度も繰り返したりすれば、それは立派にハラスメントになります。


 私は前段に賛成だ。だが後段の一部に疑問がある。言葉遣いが乱暴なのは確かにNGだろう。だけど数が多く、短時間のうちに連続的・継続的に行われるコメントは「すべて不当だ」と断定できるのだろうか?

 この点について小倉さんはエントリ『コメント欄におけるネガティブコメントの正当性の基準』の中でも、次のように述べている。少し長くなるが引用しよう。

 また、社会人は限られた時間の中でブログを開設していますので、それに答えたり再反論をしたりするためには過度の時間や労力がかかるような質問や批判というのは正当な範囲を超えることになりがちです。ですから、短期間に沢山のネガティブコメントを特定のブログ主に投げつけるコメントスクラムは、その内容にかかわらず、批判としての正当性を失うことになります。

 また、同様にブログ主の時間には限りがありますから、沢山の質問や批判を投げつけられても、これらすべてに答えることは困難です。従って、ネガティブコメントの分量が多くなっていけばなるほど、批判としての正当性は薄れていきます。


 短時間にたくさん寄せられた反論コメントは、「内容にかかわらず」不当であり、数が多くなればなるほど不当性が高まると言う。

 小倉さんの定義では、いくら内容がマトモでも同時にたくさんくると有罪なのだ。

■インターネットの構造を無視した定義では?

 だけど私は「その内容にかかわらず」なんて付帯項目をつけ、前述の4分類を解釈改憲するのは反対だ。この調子であちこちに付帯項目をつけて拡大解釈していけば、憲法(4分類)が骨抜きになるのは目に見えてるからだ。
(事実、小倉さんは骨抜きにしている。後述しよう)

 もうひとつ感じる疑問は、「これは要するに小倉さんご自身が、書き込まれた反論にいちいち反駁しないと気がすまない性分だからそう言ってるだけなんじゃないか?」という点だ。

 異論を唱えるコメントは、確かに「相手(元の発言者)の反論権を担保した状態で行われるべきだ」という小倉さんの論旨は理解できる。コメントがあまりにも大量だと、物理的に反駁できなくなるだろう。

 だけど肝心のインターネットは、自分自身から見れば1:nのコミュニケーションなのだ。

 だから「友だち以外には公開しない」とか、「1時間当たり1件しかアクセスを受け付けない」なんていう何らかのアクセス制限をかけてない限り、短時間でコメントが集中することは常にありえる。

 しかもこれはインターネットの構造的な特徴だから、仮に小倉さんが唱える実名制度を採用したとしても避けられるわけじゃない。もし短時間で大量に、内容が正当な実名の反論コメントがきたらどうするのか? 結局、実名制度は解にならないのだ。

■システムや技術はどこまで介入すべきか?

 そもそも単なる揚げ足取りの書き込みや、明らかに悪意のあるネガティブコメントに逐一、反応しなきゃいけないなんて法はない。また内容は正当でも数が多くてレスし切れないならスルーすればいいし、逆に悪質なものは削除すればすむ話だ。

 ところが小倉さんは以下のエントリで、発言者に心理的な圧迫感削除・スルーなどの負担を強いるシステムや環境には問題がある、という趣旨の論述をされている。

『Balance-Toi』
・『コメント欄におけるネガティブコメントの正当性の基準』(前出)
・『ekkenさんはブログ主に課すハードルが高すぎる』(同)

 おっしゃる意味はわかるが、じゃあスルーする以外にシステム的・技術的な解決策はあるのだろうか? 実名制度では、コメントの同時多発性を避けられないのは前述の通りだ。

 また仮にシステム的・技術的な対策があったとしても、それはインターネットの(責任ある)自由と創造性を損なう可能性はないだろうか?

 本来なら個のモラルに帰すべき問題に対し、システムや技術が必要以上に介入する危険性はないのか? 

 この点に大きな疑問が残る。

■筆者が返答に困る書き込みは「不当なコメント」?

 さらに小倉さんはエントリ『コメント欄におけるネガティブコメントの正当性の基準』を、次のように締めくくっている。

「ブログ主の見解が間違っていた」という以外の理由でブログ主が質問に回答したり批判に答えたりということを回避してしまうような状況を作り出すネガティブコメントは、「正当な批判」とは言えなくなっていくということです。


 前回、私が書いたエントリ『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』でも指摘したが、小倉さんお得意の極論である。

 まず第一にこの定義は、書き込みの内容が正当でも「オレ様の気に入らないコメントは拒否する」というご都合主義とどうちがうのか?

 第二に、元記事がまちがってるとまではいえなくても、論理的に矛盾していたりする場合はどうか? で、その矛盾を指摘する正当なコメントが書き込まれたら?

 このとき書いた本人(サイト管理者)が「こりゃ自分に都合が悪いな」と考え、「批判に答えることを回避」(小倉さん)したら、それは不当なコメントになるんだろうか?

 結局、小倉さんがおっしゃることは、「オレは言いたいことを言う。だけど他人がオレ様に異論を述べるのは許さない」というのとどうちがうのか? だんだんワケがわからなくなってくる。

■小倉式の定義では「正解のない議論」ができない

 あるいはこんな例も考えられるだろう。記事を書いたブロガーの考えがまちがっていなくても、複数の異論が成立するケースだ。

 数学みたいに1+1が必ず2になるテーマならともかく、正解のない議論はありえる。その典型は哲学みたいに、人によってものの見方がちがうテーマだ。

 そんなお題のときに異論が寄せられたとしよう。で、ブログ主が回答したり異論に答えるのを避けたとする。この場合も小倉さんの定義では、投稿されたコメントは不当なのだろうか?

 第一、第二のポイントと同じく、これも「オレは言いたいことを言う。だけど他人がオレ様に異論を述べるのは許さない」のとどうちがうんだ? ということになる。
  
 結局、小倉さんが提示されている不当なコメントの定義は曖昧すぎ、グレーゾーンが広すぎる。そのせいでなんでもかんでも有罪にできるのだ。これではお話にならないだろう。

 さて私の対案を言おう。まず基本は前述の4分類とする。その上で議論系や主張系のブログは、1:「事実確認」と2:「異論・反論・批判」にも対応すべきだ。ここまではekkenさんと同じである。ただし1と2に当たるものでも、以下は不当なコメントとする。

・A 表現の仕方が社会的モラルを逸脱しているもの(乱暴、その他)

・B 明らかな悪意があるもの(正当な議論が成立しないため)

・C 議論に勝つことだけを目的にしたもの(ためにする議論)

 そして3:「誹謗・中傷・侮辱」、4:「コピペ(荒らし)」をスルーするか、削除するかはサイト管理者の裁量にまかせる。この定義ならスッキリしていると思うが、どうだろうか? 

■実名でなければ、あなたには存在価値がない?

 最後に、私が小倉さん的な実名制度に反対する最大の理由を書こう。

 たとえば小倉さんの定義では、ekkenというハンドルは「匿名」に相当するらしい。

 出典●『「匿名」に関するekkenさんからの質問』

 とすれば小倉さん的な実名主義に立てば、ekkenさんが何を書こうがその意見は存在しないことになる

 いや、ekkenさんに限った話じゃない。

 どんなにすばらしい論述や分析をしようが、どれだけおもしろいセンス、ユニークな発想、芸術的な才能があろうが、本人が実名でなければその瞬間に価値がゼロになる世界──。

 私は中世ヨーロッパの暗黒時代に等しいと思う。

 小倉さんの実名主義はデメリットが大きすぎる、と私が感じる最大のポイントはこの点だ。

 小倉さんは7月23日付のエントリ『既得権を打破しようとする声に対する反発なんてそんなものでしょう。』の中で、「匿名者が跋扈する今のネット社会」を、金正日が独裁支配する北朝鮮に例えている。多数の匿名者が実名主義者をリンチする圧制社会だ、てなわけだ。

 だけどちょっと待ってほしい。

 インターネットは有名・無名にかかわらず、ネットユーザの創造性を育ててきたクリエイティブな世界である。なのに前述の通り小倉さんによる実名の定義では、どんなに才能があろうが実名でなければその人の能力は認められない。とすれば小倉さんの主張は、インターネットの根幹にかかわる問題といえるだろう。

 実名制度のメリット、デメリットを秤にかけるとどちらが重いか? クリエイティビティの問題を考えた場合、私は実名主義の世界こそ金正日が独裁支配する北朝鮮と同列に論じるにふさわしいと考える。

 さて、あなたはどう思いますか?

【関連エントリ】

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』

『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』

『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』

『小倉さん、印象操作はほどほどに』

『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』

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小倉さん、論理の飛躍は計画的に

2007-07-24 05:17:03 | 実名・匿名問題
 前回のエントリで、「弁護士の小倉秀夫さんは私の記事の論旨を印象操作(または誤読)されてるんじゃないか?」と疑問を投げた。

 小倉さんは私の記事に、「ネットでのいじめや嫌がらせなんてたいしたことがない」と書いてあるじゃないかと、主張されているのだ。

 だがもちろん私はそんなことは書いてない。それどころか私は、「ネットでの嫌がらせなどたいしたことがない」なんてことは考えたことすらない

 筆者である私自身が「書いてない」と言ってる以上、小倉さんには書いたと証明する必要が生じる。で、当の小倉さんから苦しい口頭弁論が出されたので、ご紹介しよう。まず結論部分からだ。

確かに、「すべてのネットでのいじめや嫌がらせなんてたいしたことがない」とまでは言っていないのかもしれませんですが、ネットでのいじめや嫌がらせが被害者に与える被害について現実世界でのいじめや嫌がらせが与える被害よりは大したことがないと松岡さんが考えていると読み取っても誤読とは言えないでしょう。(※強調部分は松岡による)

■『先ず隗より始めよ、松岡さん』(la_causette)


 えっと、いや小倉さん、書いた本人である私自身が「そんなことは書いてないし、いままで考えたことすらない」と言ってるんですよ?

 なのに記事を読んだ小倉さんが勝手に、「(前略)と松岡さんが考えていると読み取っても誤読とは言えないでしょう」とは、これいかに?(※強調部分は松岡による)

 ひょっとして小倉さんには超能力があり、私の頭の中を脳内スキャンしてるんでしょうかね? だとしたらその超能力は整備不良ですよ。だって私はホントに考えたことすらないんだから。

 もっとも「とまでは言っていないのかもしれません」てな表現が、逆に誤読してしまった罪の意識をそこはかとなく漂わせてはいる。いかにも後ろめたそうで自信なさげなところが、かわいらしい。だけどそれとこれとは別問題だ。白黒はハッキリさせておく必要がある。

 すでに結論が出たようなもんだが、小倉さんの口頭弁論に対する私の反証(総論)は以下の通りである。

 筆者である私が現に「書いてない」と言っているのに、小倉さんは「そう読み取っても誤読とは言えない」とおっしゃる。でもやっぱり私はそんなことは考えたことすらない。となると小倉さんは純粋に誤読されたか、あるいは意図的に誤読し、自説に都合のいいように印象操作しているかのどちらかだ。この2つ以外の可能性はありえない。

 では次に各論へ移ろう。

 まず第一に不思議なのは、なぜ小倉さんは私の文章を読み、書いてもいないことを「書いている」と感じたのかだ。その理由は小倉さんの以下の説明で、おぼろげながらわかってきた。

 (前略)ここからは、松岡さんは、ネットでの暴言被害を現実世界での暴言被害と区別していること、並びに、(現実世界でなされたとすればスルーしても自分が傷つかざるを得ないものであっても)ネットでの暴言被害についてはスルーすれば自分が傷つかなくてすむと考えていることが読み取れます。

■『先ず隗より始めよ、松岡さん』(同)


 ああ、なるほど。やっと小倉さんのアクロバチックな飛躍した論理がわかりました。小倉さんの主張をわかりやすく翻訳すると次の通りですね?

----------------------------------------------
【小倉さんのアクロバチックな主張】

1 ネット上での暴言は現実世界のそれとちがい、「スルーすれば自分が傷つかない」と松岡は考えている。(にちがいない)

2 スルーすれば傷つかないということは、すなわち「たいしたことがない」ってことだ。

3 ゆえに松岡は元記事で、「ネット上の嫌がらせなんてたいしたことがない」と言ってるも同然だ。

-----------------------------------------------

 ここまではオッケーですか、小倉さん? でもこの1~3の時点ですでに、ポリショイサーカス並の離れワザで論理が飛躍していますね。でもまあ順番に反駁していきましょう。

【小倉さんの主張 1】

●ネット上での暴言は現実世界のそれとちがい、「スルーすれば自分が傷つかない」と松岡は考えている(にちがいないと小倉さんは考えている。以下、同)

【私の反証】

 まず私は「ネット上では、スルーすれば自分が傷つかなくてすむケースが多い」とは書いた。だけど「スルーですべてがカンタンに解決する」なんてことは言ってない。証拠物件をあげよう。

 インターネットを使ったコミュニケーションでは、スルーすれば自分が傷つかなくてすむケースや、逆にカッカして相手を攻撃してしまうのを防げる例は多い。(※強調部分は松岡による追加処理)

『小倉さん、それでもスルー力は必要ですよ』(ASCII.jp)


「例は多い」と書いたのは言うまでもなく、スルーで解決しないケースもあるからだ。加えて、わざわざ「例は多い」と限定的な表現をしたのは、それ以外の「スルーで解決しないケース」を私が重く受け止めているからである。

 ゆえに小倉さんが主張されている「松岡はネット上の暴言被害なんてたいしたことがない、と考えているにちがいない」という思い込みは、見当ちがいだ。

 こんなふうに小倉さんの論述に特徴的なのは、極論である。「スルーで解決するケースは多い」と書くと、たちまち「スルーですべてカンタンに解決する」みたいに書いたじゃないか、と極論で反駁しようとする。そして極論は古来から、印象操作の典型である。

【小倉さんの主張 2】

●スルーすれば傷つかないということは、「たいしたことがない」ってことだ。

【私の反証】

 私はこんなことは、ひと言も書いてない。2はあくまで小倉さんの個人的な考えだ。小倉さんはご自分のこういう個人的な見解をもとに、私の文章を勝手にねじ曲げて解釈している。だから筆者の意図から外れた誤読をするのだ。

 そもそもスルーで解決した事案は、なぜ「たいしたことがない」のか? 深刻な事態(悪質なフレーミング)がスルーで解決するケースなんて、いくらでも考えられる。つまり小倉さんの頭の中にあるだろう2の概念自体、事実誤認なのだ。とすれば「小倉さんの主張 2」も1と同様、論理の飛躍と極論の産物と言っていいだろう。

【小倉さんの主張 3】

●ゆえに松岡は元記事で、「ネット上の嫌がらせなんてたいしたことがない」と言ってるも同然だ。

【私の反証】

 3は論駁する必要すらないだろう。ほかの項目同様、私はこんなことは一切書いていない。これも小倉さんの頭の中にある勝手な解釈だ。かつ、その解釈はほかの項目同様、論理の飛躍で彩られている。なかでも特にこの3などは、自説を有利に展開するための明らかな印象操作だと言っても過言ではないだろう。

【その他の部分も誤読と誇張だらけ】

 一方、小倉さんの同エントリの後半部分だって同じだ。資源のムダだからカンタンにすませよう。私は元記事で、誹謗中傷などの攻撃を受けた側の一例として、被害者側が過剰反応しているケースを書いた。

 するとさっそく小倉さんは、「(前略)等として、ネット上での暴言被害と被害者側が感じるのは単なる被害者側の過剰反応に過ぎないかのように印象操作をしています」と書き立てる。

 おわかりだろうか? またもや極端な一般化だ。私はスペースの都合で一例をあげたにすぎないのに、松岡はすべての暴言被害が被害者側の過剰反応だと決め付けている、印象操作だと誇張するのだ。

 また私は元記事で、「小倉さんの(誤読を含む)以下のエントリを読んだ出版社の方たちが『松岡ってこんな人間だったのか?』と誤認し、私にいっさい執筆依頼がこなくなったら、小倉さんはどう責任をお取りになるのでしょうか?」と問いかけた。

 もちろん私は仕事の心配をしてるわけじゃない。私が実名で書いた文章を小倉さんが印象操作(または誤読)し、歪曲した上で人々に伝えた場合、実名者である私はどれほど重大な被害を蒙るか? その具体例を示すためだ。

 つまり実名はそれほどリスキーなのに、あなた(小倉さん)は初心者に実名ブログをすすめるのですか? という問題提起の意味を込めている。主題は私の仕事が減る話じゃなく、その次の段落に書いた小倉さんが初心者に実名ブログをすすめることの是非だ。

 このことを頭に置いて、もう一度私の元記事の該当箇所をよく読んでいただきたい。

 ところがもちろん脊髄反射の小倉さんは、そんな深い意味を読み取れるはずもない。それどころか「松岡さんは、その覚悟(仕事がなくなる覚悟/注・松岡)もなしに、あの記事をASCIIの編集部に送ったのでしょうか」などと、またもや誤読している。

 小倉さんは、私・松岡が書いたアスキーさんの記事を各出版社が読み、松岡に原稿依頼をやめた場合のことを指してるんだろう、てな意味だと解釈しているのだ。

 文意はもちろんそうじゃない。私の記事を印象操作(または誤読)してネガティブに脚色した小倉さんの記事を各出版社が読み、「松岡はこんな人間だったのか」と誤解されて私に執筆依頼がこなくなったら? という意味だ。

 で、実名はこんなに危険なのに、それでも小倉さんは初心者に実名ブログをすすめるのですか? と、主題である結論につながる流れである。

 ふぅ、疲れた。国語の授業はもうこんなもんでいいでしょう?

【まとめ】

 以上、見てきたように小倉さんの論法には、論理の飛躍と事実誤認、極論が多い。それはなぜか? 理由は恐らく以下の通りだろう。

 小倉さんは、私・松岡の文章を誤読してしまった。そして誤読にもとづき、自説に都合のいい内容のエントリ『ネットでの暴言被害の方がより深刻だ』を脊髄反射で書いた。ところが事実関係のまちがいを私に指摘され、困ってしまった。

 そこで誤読した部分をあとから辻褄合わせしようと、エントリ『先ず隗より始めよ、松岡さん』を書いた。だからそのエントリもこれまで見てきた通り、あちこちで論理が破綻しているのだ。もともと人の文章を歪曲したエントリに無理やりもっともらしい理由づけをしてるんだから、崩壊するのは当たり前である。

-------------------------------------------------

【私はなぜ『小倉さん、印象操作はほどほどに』を書いたか?】

 私はスルーが原則なので、小倉さんの誤読はたいして気にしてない。加野瀬さんがブクマコメントで「松岡氏が不快表明」なんてオーバーに煽っていたが、残念ながら見当はずれだ。一方、当の小倉さんも、さっそく以下の通り誤読している。

 っていいますか、松岡さん自身が、自分が批判されたとなると、全然スルーできていないではないかという気がしないでもありません。

■『先ず隗より始めよ、松岡さん』(同)


「気がしないでもありません」と自信なさそうなところが、ちょっとかわいらしい。だが誤読は誤読である。

 繰り返しになるが私は不快になんて思ってないし、怒ってもいない。というか私自身が主観的に不快かどうか? 怒っているかどうか? なんてどうでもいいのだ。そういう問題じゃないのである。

 説明しよう。

 私が前回のエントリ『小倉さん、印象操作はほどほどに』を書いた理由は、小倉さんが『初心者にこそ実名でブログを開設することをお勧めする』と言い出したからだ。

 私は小倉さんのこの最新エントリ(7/22時点)を読むまでは、小倉さんに4回も前のエントリの反論をする気なんてなかった。事実、それまでずっとスルーしていた。だけど被害者が出るおそれすらある、小倉さんの危険な初心者こそ実名論を読み、黙っていられなくなったのだ。

 小倉さんが「実名主義こそ理想の姿だ」と独り言を言ってるぶんには、実害はない。だが小倉さんはご自身の都合(実名主義)を理論付けるために、論述の中で他人を巻き込もうとするフシがある。なかでも「特に初心者には実名をすすめたい」論は看過できなかった。

 初心者はネット上で実名を出すリスクを、よくわかってない。なのに小倉さんは自説の実名論を補強するために、他人(初心者)を巻き添えにしようとしているのではないか?

 私はこれを見て放置しておけなくなった。で、前回のエントリを書いたのだ。私自身が誤読されて不快だったとか、そんなのは下衆の勘繰りだ。前回のエントリで私がいちばん言いたかったポイントは、次の箇所である。

 初心者(も含めたすべてのネットユーザ)に実名でブログをやらせるって、そういう甚大なリスクを負わせることを意味してるんですよ? おわかりですか? 小倉さん。

■『小倉さん、印象操作はほどほどに』(すちゃらかな日常 松岡美樹)


 小倉さんや加野瀬さんたちがおもしろがって囃し立て、「なぜ私が書いたか?」が別の理由にされちゃいそうなんで、あえて説明しておく。自分の文章を自分で解説するなんて超ダサいが、祭りが好きな人たちはさぞかし「松岡が怒った」ってことにしたいんだろう。

 残念でしたっ。ベーだッ。

 さて今回のやり取りでわかったのだが、小倉さんは論理の飛躍があるものの実はおもしろい人のようだ。

 私が「小倉さん、印象操作はほどほどに」てなタイトルをつけると、それに反応して韻を踏み、「先ず隗より始めよ、松岡さん」などとステキなタイトルを考えついちゃったりする。私のつたないプロファイリングでは、おそらくユーモアのセンスがある方だとお見受けした。

 ゆえに前回のエントリで、「小倉さんはちゃんとした方だ、と思っていただけにショックだ」と書いたのは部分的に訂正したい。

 小倉さんは論理の飛躍や極論が多いけれども、ユーモアのセンスがありおもしろい方だ──。こう認識を変えさせていただく。

【小倉さんへのご提案】

 で、思うのだが、(前回も書いたけれど)小倉さんのような人材がネットユーザと対立し、ヒステリックな論戦を繰り広げているのは不幸だと私は思う。エネルギーの浪費だ。

 私ごときがこんなことを言うのはアレだが、小倉さんがもっとポジティブな方向にその才能や能力を生かす方法はないのか? 多くのネットユーザと小倉さんが手を携えて共にネット上の諸問題を考え、それらを解決していく道は模索できないか?

 そのためには、小倉さんはネットユーザからの反発が多い実名主義のカンバンをはずす必要があるだろう。

 たとえば小倉さんはエントリ『誹謗中傷の内容が荒唐無稽であることは被害者にとって救いにはならない』の中で、「トレーサビリティの高い実名等」の必要性をこうお書きになっている。少し長いが引用しよう。

(前略)私からみると、被害者に強くなれ(スルーの意味/注・松岡)と要求することでハラスメント対策を終えてしまうというのは、非常に非現実的であるように思えてなりません。それよりかは、ハラスメントが行われていることが発覚したときにこれを継続させないような場の運用を行うこと及びハラスメントを行うことに自制心が働くようにハラスメントを行ったものに対して現実的に制裁が加えられるようなシステムを講ずることの方がよほど現実的です。

 そのためには少なくとも確実に法的な制裁が加えられるようにトレーサビリティの低い匿名・仮名の使用は禁止し、できることならば(法的制裁はコストが高いので)ハラスメントについては社会的制裁が加えられるようにトレーサビリティの高い実名等を用いることを原則とすることが求められます。(※強調部分は松岡による)


 小倉さんが文中で「実名等」としているのは、実名または共通IDシステムを指しているのだろう。だけどスルーを実践するより、実名制を導入するほうがなぜ現実的なのか? 上記のエントリを読んでも判然としない。私はむしろ逆だと思うがどうなんだろう?

 また小倉さんは最新エントリ『既得権を打破しようとする声に対する反発なんてそんなものでしょう』(7/23)で、こうお書きになっている。

今の北朝鮮で単身金正日による独裁体制を打破せよと訴えても、これに賛同する声は表では聴くことはできず、却ってそのような主張をする人間を罵る声で溢れるとは思いますが、おそらくそれは北朝鮮の大衆の真の声ではない。それと同じようなものです。


 小倉さんは今の(匿名)ネット社会を、金正日が独裁体制を敷く北朝鮮になぞらえる。で、匿名者たちがネット社会を不当に独裁しているとする。

 小倉さんによれば、その仮想社会では実は多くの大衆が実名にしたがっている。だが、独裁者(匿名支持者)によるリンチを恐れて声を上げられないらしい。そして実名主義を唱えるご自身を、金正日独裁体制の打倒を叫ぶ革命の士に例えている。

 しかしここまで小倉さんが実名制度に固執する理由は何なのか? 実名制以外の代替案ではダメなのだろうか?

 そこで最後にひとつだけ、小倉さんにご提案させていただく。

 小倉さん、ネット上の誹謗中傷や嫌がらせをなくしたいという点では、多くのネットユーザも小倉さんと同じ考えだと思います。で、目的が同じなんだったら、小異を捨てて大同につくことは考えられませんか?

 小倉さんが提唱されている実名制度や共通IDシステムは、前項の目的を達成するための手段にすぎません。目的が実現するならば、手段はほかの方法でもいいはずでしょう。

 それなら多くのネットユーザが否定している(かつ、実際にデメリットが大きい)実名主義や、共通IDシステム以外の方法はないでしょうか? つまり実名制度、共通IDシステム以外の方法で、ネット上の誹謗中傷などの被害をなくす第三の道です。

 小倉さんがこれらの二枚カンバンをはずしさえすれば、多くのネットユーザと共同歩調が取れると思うのですが、いかがでしょうか?

【関連エントリ】

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』

『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』

『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』

『小倉さん、印象操作はほどほどに』

『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』
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小倉さん、印象操作はほどほどに

2007-07-22 13:26:56 | 実名・匿名問題
 弁護士の小倉秀夫さんが、ブログの最新エントリ(7/22現在)でこうお書きになっている。

これからブログを開設しようという人に対しては、私はむしろ最初から実名で始めることを勧めます。(後略)

■『初心者にこそ実名でブログを開設することをお勧めする』(la_causette)


 いやあ実名でブログをやるなんて、私は真っ向から反対しますよ。だって小倉さんみたいな人が印象操作(または甚だしい誤読)をして、他人の記事や筆者の人格を貶めるんだもん。

 別に私は気にせずスルーするけど、初心者がコレやられたらそれこそ心神耗弱状態になっちゃいますよ。まじめな話。

 というか、小倉さんの以下のエントリを読んだ出版社の方たちが「松岡ってこんな人間だったのか?」と誤認され、私にいっさい執筆依頼がこなくなったら、小倉さんはどう責任をお取りになるのでしょうか? 私は実名でブログ(を含めた原稿書き)をやってるんで、そういう事態はふつうにありえるんですが。

 初心者(も含めたすべてのネットユーザ)に実名でブログをやらせるって、そういう甚大なリスクを負わせることを意味してるんですよ? おわかりですか? 小倉さん。

【証拠物件】-----------------------

松岡美樹さんは、

「また小倉さんはリアルの世界における例をあげて反駁している。だがこの論争は現実世界のそれではなく、あくまでネット上における暴言被害の話だ。

 そもそもスルー力はネット特有のコミュニケーション術であり、スルーが有効なのもネット限定の話だろう。なのにリアルの世界におけるいじめと関連付けては議論がそれてしまう」

仰っています
 しかし、「ネットでのいじめや嫌がらせなんてたいしたことがない」みたいな認識はもやは(原文ママ)古い、牧歌的なものであるとしか言いようがありません。(※強調部分は松岡による)

■『ネットでの暴言被害の方がより深刻だ』(同)


-----------------------------------

 えっと、私が書いた上記の記事のいったいどこらへんに、「ネットでのいじめや嫌がらせなんてたいしたことがない」なんて意味の記述があるんでしょうか? 小倉さんにはぜひ具体的に指摘していただきたいものである。

 というかこれって……。

 松岡は「ネット上の嫌がらせなんてたいしたことがない」と書いていると、私が書いてもいないことを捏造し、印象操作することにより、ご自分が議論に勝とうとしてるだけじゃないんですかね?

 論理で説得するんじゃなく、論争の相手を貶めることで相対的に自分への評価を高めよう、ってのはフェアな議論のしかたじゃありませんよ。

 私はいままで小倉さんと直接コミュニケーションしたことがなかった。だからどんな人なのか、よくわかってなかった。

 以前、小倉さんが、ご自身の記事に対するotsuneさんのブクマコメントをこう論評されるのを見て、「えっ、それって印象操作かなぁ?」と感じたことがある程度だった。

「 誹謗中傷が溢れる美しい国日本!」というエントリーに関するotune(原文ママ)さんから「定義を曖昧にしたまま「指摘・議論=誹謗中傷・いじめ」と強弁するのは小倉弁護士blogだとこれで何回目だろ? 」というはてなブックマークコメントを頂きました。「指摘・議論=誹謗中傷・いじめ」とは言ってはいないのですが、一種の印象操作かも知れません。(※強調部分は松岡による)

■『「受忍限度」ではまだ納得しないでしょうか?>otune(原文ママ)さん』(同)


 ところがなんのことはない。小倉さんはご自身が日頃から他人の文章を印象操作(または甚だしく誤読)しているせいで、ご自分に対する他人のコメントまでもがクロに見えるだけだったようだ。

 私はてっきり、「小倉さんは実名制度を主張されてるせいで、たまたまネットユーザからバッシングを受けてるだけだ。ご本人はちゃんとした方なんだろう」と思っていただけにショックである。

 ちなみに小倉さんが私の記事を論評した上記エントリに寄せられたブクマコメントを見れば、小倉さんの記事が第三者にどう見えるかが一目瞭然だ。

 だれも小倉さんに同意してないのがすごい(7/22現在)。

 実名の小倉さんより、「匿名」の方たちのほうが読解力や事実をねじ曲げないモラルがあるってことが図らずも証明されているのだ。

 これ以上反証する必要もないだろうが、小倉さんのお書きになった上記エントリにfjskさんがつけたブクマコメントを以下に引用しておく。

引用元の(松岡の)文章を「ネットでのいじめや嫌がらせなんてたいしたことがない」みたいな認識』と本気で要約しているなら読解力を疑う。それともこれは法廷戦術?ともかくコレ以上の議論はどうにもならない気がする


 最後にひとこと。

 もし小倉さんが意図的に印象操作してるんじゃなく、単なる誤読なのであれば、ご自分に言及した記事やコメントに脊髄反射せず、もう一度読み返すことをおすすめしたい。

 で、いったんお書きになった反論文はひと晩寝かせて、気持ちをクールダウンしてから翌日にまた推敲するのが効果的です。

 こうしたセルフコントロールを効かせた原稿書きのノウハウと、その心理学的裏付けについては、よろしければ以下の拙文をご参照ください。

 余計なお世話ですが、ネットユーザとのコミュニケーションが現状のままでは、小倉さんご自身のためにもならないと感じます。

【ご参考】

『スルーが効く理由(わけ)、効く場合』

【関連エントリ】

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』

『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』

『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』

『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』

『匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?』
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【匿名論争始末記】トラックバックスパムと議論の「呼びかけ機能」のあやうい関係

2005-05-26 21:08:30 | 実名・匿名問題
匿名・実名論争では、ひとりでも多くの方に議論を呼びかけるため、私はスパムチックなトラックバックの使い方をした。批判を覚悟の狼藉だったが、幸い趣旨に賛同していただけ、たくさんのトラバと有意義なコメントを頂戴した。ブログが議論を喚起する力にはまったく脱帽だ。

 私のたくらみの趣旨と経緯については、ニュースサイトの「RBB TODAY」で私が連載しているコラムにくわしく書いた。もしご興味のある方は、そちらもあわせてお読みいただけると幸いだ。


 さて今回、考えさせられたのはトラバの使い方だ。たとえば匿名論争について、「Aさんならきっと洞察力ある論述をされるだろう」、「Bさんならご自身の立場柄、参考になる体験談が聞けるにちがいない」と思ったとしよう。

 で、Aさん、Bさんに意義のある意見表明をしていただければ、議論するためのいいタタキ台になる。みんなでそれをもとに論議を深めることができる──。こう考えたとする。

 この場合、私はいわば作家さんに原稿を依頼する編集者みたいなものだ。「依頼」とは、匿名問題について私がエントリーを立て、みなさんにトラバを送ることである。つまりトラバで議論を呼びかけるのだ。

 ところがこの場合、Aさん、Bさんが匿名・実名問題について過去に書いたことがなければ、トラバを送れないことになる。強引にやったらトラックバックスパムだ。

 さりとてテーマには公益性があり、Aさん、Bさんの意見表明はきっと社会的な利益になるはずだ……。で、前述のコラムに書いた経緯とやり方で、私は「やっちゃう」ことにした。

 さて私の行為はいわば「非合法」なわけだが、みなさんはどう思われるだろうか?

 上記のコラムの文中では、匿名問題を取り上げているいくつかのブログを紹介した。そのうちのひとつ、「むだづかいにっき♂」のえっけんさんが当のコラムをお読みになり、さっそくエントリーを立ててご意見をくださった。少し長くなるが、一部を引用しよう。

『記事全文を読むと、スパムとされないための工夫はいろいろとされており、こういうやり方であれば僕は不快感は感じないものの、僕は記事の話題と無関係なトラックバック・コメントは歓迎しないのです。「知的で洞察力があるからご意見を聞きたい」と言われたとしたら、まぁ悪い気はしないだろうけれど、その話題に関しては不得手な分野という事もあるだろうし、そうしたコメントがあることで、それまでのコメントの流れを断ち切ってしまうような気がします(もっとも松岡さんのように最新記事の感想をも書く、というのならば、最大限の配慮が感じられ、悪い気はしませんが、そこまで考えて「呼びかけ」を行う人は、一体どれくらいいるだろう?)』

 はい、わかっております、えっけんさん。だからえっけんさんには、呼びかけのトラバを送らなかったんです(笑)。

 私は「むだづかいにっき♂」をよく読んでいるので、えっけんがトラバに対してどんな考えをお持ちなのか知っていた。

 で、「えっけんさんはこの方法はヨシとしないだろうなあ」と思ったので、ご意見は拝聴したかったが呼びかけトラバは送らなかったのだ(すでにえっけんさんは何度か匿名問題を取り上げていたから、というのもある)。

 また、えっけんさんがおっしゃることはすべて正論である。そんなわけで微妙な問題をはらみながらも、みなさんからは匿名・実名についていろんなご意見をいただき、私自身もとても勉強になった。トラバ、およびコメントをくださった方々には、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 いずれにしても今回の件で、私はブログのもつ途方もない可能性に驚かされた。アメリカじゃ、「ブログ廃人」が続出してるっていうけど、わかる気がするなあ。いやホントに。

 とはいえ今回は、たまたまお叱りを受けなかっただけだ。最後に自戒を込めて、コラムの方に私自身が書いた結論を付記して懺悔の記録を終えさせていただく。

「もちろんトラバに対する考えは人それぞれだ。また公共性があるからといって、みんながやたらに対象エントリーとは無関係なトラバを打つようになったらカオスである。あくまでトラバを送る先は『他人の家』だってことを忘れてはいけない。最終的にはトラバを送られた側が、それを許容するかどうかの問題なのだろう」

【関連エントリ】





(追記)結論部分を付記した(5/27)
コメント (19)
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匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは?

2005-05-17 23:48:46 | 実名・匿名問題
 書くときに実名やコテハンを明示すると、なぜ罵詈雑言の抑止力になるのか? ズバリ、私は「世間体」だと思う。この点についてブログ「綾繁重工杜内報」さんから、再度異なる意見が寄せられた。そこで今回は匿名と実名における人間心理について考察してみる。

 人がネット上で文章を書くにあたり、その人の「心の居住まい」を左右するものは何か? 「綾繁重工杜内報」のいそはち氏は、エントリー「続・実名と匿名」の中でこう論じている。

「最初から完全に偽名・匿名で発信した場合と、ある程度身元の割れた、実名と紐付けされたハンドルネームなりで発信した場合とでは大きく記入者の心構えが異なるはず、という事はまず考えられると思います」(一部、改行した)

 ここまでは「YES」である。ただし私は、ハンドルが必ずしも実名に紐付けられていなくても心構えは変わると考える。これはちょっとした意見の相違に見えるが、そうじゃない。何が抑止力になるかについて、私といそはち氏の決定的なちがいが実はここにあらわれている。

 いそはち氏は、なぜ実名とハンドルの「紐付け」にこだわるのか? それは次の段落で明らかになる。以下、引用する。

「匿名掲示板ですら今の警察の手にかかれば、限界はあれど個人特定は可能という事が分かっているはずなので。(まだ犯罪予告などで逮捕される連中もいるが…)」(同)

 つまりいそはち氏は「法的制裁」が抑止力になると考えているのだ。

 だがちょっと考えてみてほしい。たとえばあなたは、どこかのブログのコメント欄に書き込むときに、「いまから書く内容は刑法に触れるかどうか?」なんてことを考えているだろうか? あるいはまた、「あっ。この表現は刑法に触れるから書き直そう」などとイメージするだろうか?

 百歩譲って法的制裁が抑止力になるとしても、ネット上にあふれる誹謗中傷のたぐいは大半が削除、またはスルーで事なきを得ているのが現状だろう。おとがめなしだ。

 書かれた側が名誉毀損(刑法230条・231条、民法709条・710条・723条)で「おそれながら」と訴え出るには、膨大なエネルギーがいる。「そこまでする気はない」というのが素朴な庶民感情である。

 とすれば罵詈雑言を書き込んでも、司法が介入するなんてことはめったにないわけだ。これじゃあ当然、抑止力にはなりえない。

 一方、私は冒頭で「世間体が抑止力になる」と書いた。いったいどういう意味か?

 たとえば私は実名でブログを書いているが、これを読んでいるのは別に知人だけじゃない。ふだん仕事でおつきあいのあるメディア関係の方々や取材先、その他もろもろの人も目にしている。私が知らないだけで、思わぬ人が読んでいる可能性もある。

 なんせ実名ブログだから、Googleで何かの検索中にたまたまココを見つけたとしても、「あっ、これ松岡さんじゃん」とすぐわかっちゃう。この状態でヘンなこと、まちがったことを書けば、「松岡さんて、こんな人だったのね」とたちまち白い目で見られてしまう。

「あんな人に原稿を依頼するのはやめよう」(非常にコワイ言葉だ。両手が震えてきたぞ)などと信用をなくしたら一巻の終わりだ。つまりひとことでいえば、これは「世間体」なのである。

 別に私に限った話じゃない。たとえばAさんがいつも使っているHNで、どこかのサイトに罵詈雑言を書いとしよう。その「どこか」はAさんの巡回先である可能性が高い。

 すると似たようなサイトを巡回しているAさんのネット上の知り合いが、それを目にする可能性は高い。「Aさんて、電波だったのね」。そんなふうに思われ、友人をなくしてしまう。つまりネット上における世間体が歯止めになるわけだ。

 だれにでも覚えがあるだろう。何かがきっかけですっかりキレまくり、ブログのコメント欄や掲示板にハチャメチャなことを書き込んだ。で、「送信する」ボタンを押しかけた瞬間、思いとどまったことが。

 そのときあなたの頭によぎったものは何か? 「刑法に触れるから」ではないだろう。「人に見られるから」であるはずだ。

 たとえ実名に紐付けられてなくても、いつも使っているHNはネット上で実名と同じ機能を果たす。趣味などを通じてAさんが築いたコミュニティとAさんは、HNで結び付けられている。

 罵詈雑言を書いたせいでHNが穢れてしまえば、Aさんはかけがえのない自分のコミュニティを失う危険性がある。これはリッパに抑止力になるだろう。

「世間体を気にする」といえば、なんだか形だけの体裁にこだわる形式主義みたいで評判がよくない。だが実はもっと深い意味がある。世間を考えれば人は行動を律するようになる。他人に迷惑はかけないし、いい評価を得ようと努力もする。

 つまり「世間体を気にする」とは相手を思いやることであり、「こんなことを書いたら本人は傷つくかな?」とイメージすることだ。また人のために何かをし、尊敬されることでもある。人間が社会的な生き物である限り、自分の姿の映し絵である「世間様」はどこまでもついてくる。

 世間体は古くて新しい言葉だ。地域共同体が存在し、まだ近所づきあいが活発だった時代には、世間からつまはじきにならないことが行動の指針だった。だがリアルの世界では、その世間体なる感覚は崩壊した。

 そしていま、ネット界を律しているのが、ネットワークという名の「世間」なのである。

【関連エントリ】

『小倉さんの実名制は、能力があっても存在価値がゼロになる暗黒世界だ』

『小倉さん、論理の飛躍は計画的に』

『小倉さん、印象操作はほどほどに』

『【匿名論争始末記】トラックバックスパムと議論の「呼びかけ機能」のあやうい関係』
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