□10『岡山の今昔』吉備の埴輪の起源

2018-12-23 22:51:55 | Weblog

10『岡山の今昔』吉備の埴輪の起源

    埴輪(はにわ)というのは、吉備地方(現在の岡山県と広島県東部)では、弥生時代の墳丘墓に見られる、土を焼いて作られた造形物だ。ちなみに、楯築遺跡(現在の倉敷市、足守川を越えたあたりで南に見える弥生時代の墓)から出土している「楯築」は、ここでいう埴輪の先祖だと考えられている。

 話を戻して、最も古い時代の埴輪は、円筒埴輪、具体的には土器の台(特殊器台)と壺のセットであって、それが起源だと考えられている。

  元はといえば、死者に供えられたり、祭りに用いられたりしていたのであろうか。それが、畿内に大形の前方後円墳が形成されていくなかで取り入れられ、円筒埴輪として発展してきたものと考えられている。 

  だが、埴輪の元がそうだというには、それが殉死する人の代わりに作られたのに違いないという意見を退けることができるかどうか。因みに、『日本書紀』の垂仁大王32年7月の条において、野見宿禰(のみのすくね)が今までの殉死にかえて、埴土(粘土)をもって代わりとした旨、事細かに書かれている。

 それというのも、垂仁大王のおじの倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったとき、そばに仕えている人達も生きたまま墓に埋めてしまった。その部分の口語訳には、こうある。

 「死んだ大王の弟を葬る折り、近くに仕えていた人を、生きたまま墓のぐるりに埋め立てた。数日たっても死なず、昼夜となく泣き叫んだが、ついに死んで腐った。犬や鳥が集まって歯肉を食った。」(なお、当時はまだ「天皇」位はないので、「大王」とした。)

 それを聞いた大王は、これを憂えた。その後、皇后の日葉酢姫命(すばすひめのみこと)が死んだ。その時、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰が粘土で人や馬をつくって、これをいけにえの代わりに並べたらどうかと彼に提案し、承認をえた。それ以降、埴輪を古墳に並べるようになったというのだ。
 とはいえ、これは、あくまで伝説で、4世紀には人物埴輪はつくられなくなったという。

 

(続く)

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『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』へようこそ

2018-12-23 20:57:04 | Weblog

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『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』へようこそ
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訪問者のみなさま

 ようこそ、美作(みまさか)から小川町へ、わたしの故郷ページへ
 わたしのブログ『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』(全てが未定稿)を訪れていただいてありがとうございます。
 一つは、「美作の野は晴れて」です。第一部は私の小学校まで、第二部は中学校から高専までです。そして第三部は、それから現在までの私の歩みです。
 二つ目は、『自然と人間の歴史・世界篇』です。これは、宇宙の開闢(かいびゃく)以来の自然と人間の歴史を世界的視野で通覧するものです。主立った史料の紹介を兼ねていることもあり、その分だけ分量がかさみます(現在の見積もりでは、1000項目程度)。珍しいところでは、「列伝」としての人物紹介や世界の国・地域での動向追跡を試みています(以下、同じ)。

 三つ目は、『自然と人間の歴史・日本篇』です。これは、日本列島ができて以来の日本の自然と倭人・日本人の歴史を通覧するものです(現在の見積もりでは、700項目程度)。

 四つめは、「岡山(美作・備前・備中)の今昔」です。こちらは、岡山の郷土史です。こちらは、だんだんに足で出向いてつくっていくつもりでおります。地域の人などに元気になってもらえるような話題を何某か提供できればというのが、切なる願いです。
 これから、全体として徐々になりますが、新しいものに改訂していく予定でおりますので、ご理解をお願いします。中でも、新訂のものは、見出しにそれなりの識別を付けます(現在の見積もりでは、200項目程度)。
 恐れ入りますがお時間をいただいてご一読の後、よろしかったら、ご感想をお寄せください。これからの紙面づくりに参考にさせて頂きます。
 なお、現在までのところ、内容の未熟さ、誤り、表現のまずさ、誤字脱字なども非常に沢山あって、お読み苦しいことと察します。でしょうが、だんだんに訂正していくつもりでおります。なにとぞよろしくお願いします。
 それから、このブログの記述が、何らかのことに利用されることから生まれる損害等につきましては、当管理者は責任を負いかねますので、念のため申し添えます。学習会などで使われたりする場合には、その旨を事前にお知らせ戴けるとありがたいです。
 以上
2018年12月22日更新、丸尾泰司(在・日本国埼玉県比企郡小川町)

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(参考)
『自然と人間の歴史』(世界と日本の2篇)を記入するに当たって留意したい事項(2018年11月10日時点でのもの、自身への覚書)


1.自然の辿ってきた「歴史」についても、人間の歴史の理解を助ける範囲で入れる。これをもって「歴史」といえるのかどうかは、未だに知らないが、あえて試みたい。
1.歴史的真実かどうかが確かめられない、神話や伝説の中にも、某か学ぶものがあると考えている。宗教は、今日まで文化の中の大いなる要素の一つとなってきたのに鑑み、なるべくわかりやすくその動きを記したい。
1.その時々の世界の動きと、日本を含む各国・各地域の動きを関連して理解するよう努めたい。世界篇においては、すべての国・地域の歴史を概観するものにしたい。
1.現代史は、21世紀現在までとして扱うことにする。ただし、歴史はイコール過去(人間自身でいうと、個体としての死の積重ね)であって勝手に変えることはできない。
1.史料の引用に当たっては、ある程度詳しく、丁寧、わかりやすい紹介を加えたい。
1.現在進行中の事象についての評価は、一日経つ毎に、改ざんすることのできない過去へと変化して止まない。この観点から、ぎりぎりの線まで紹介したい。
1.年の記述の中心を、西暦もしくは西暦中心のものにしたい。西暦を先ず入れ、必要ならその後にくる括弧内に、その国内の暦を入れておくのを基本としたい。
1.国語辞書や漢和辞書の類をほとんど引くことなしに読んでもらいたい。そのため、やや難しいと思われる漢字には、「現代かな」をふっておく。「旧かな」は、追々「現代かな」に改めたい。
1.歴史史料の紹介は、できるだけ、ある程度まとまった、一区切りとして行いたい。また、その出所をできるだけ記入すること。
1.特に、漢文での紹介は、おりにふれ、書き下し文や現代語訳を添付すること。
1.歴史上の人物がどのように生き、何をもたらしたかを簡単に紹介する記事を、織り込んでいくこと。人物紹介には、上から目線で人物を選択することはしたくない。
1.歴史事象をどう認識するかについて、説の分かれるところでは、なるべく2説くらいは紹介したい。その際は、筆者の立場がわかるようにしたい。
                     2018年11月10日現在でのもの、以上
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 早いもので、このブログを始めた2004年から数えて10余年になります。日本国内、岡山県内でまだ行っていないところが無数といっても良い程に、実に多く、(自分と家族の健康上のことや、こちらでの用事もかなりあるので当面は無理かもしれませんが)いつか機会を得て、愛用のリュックサックを背中に担ぎ、県内などを巡り歩いてみたいです。
 定年退職後の要諦は体を大事にしていくことにあるようで、「日々是好日」のつもりで気持ちはできるだけ明るく、いまの体で自分のできることを精一杯取り組んでいます。

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 世界の、この100年間から200年くらいの政治経済社会の歩みを、15本のホームページで概観しています。建設中です。こちらも、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

中国の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo9

韓国の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo10

ソ連・ロシアの政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo11

アメリカの政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo12

ヨーロッパ連合の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo13

日本の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo14

ASEAN(アセアン)政治経済社会の歩み
http://www3.hp-ez.com/hp/maruo15/page1

インドの政治経済社会の歩み
http://www4.hp-ez.com/hp/india/page1

ブラジルと中南米諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo17/page1

アフリカ諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo18/page1

中東・アラブ諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo19/page1

カナダ、オセアニア及び太平洋諸国の政治経済社会の歩み
(準備中)

東欧・北欧諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo20/page1

中央アジアとその周辺国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo23/page1

世界の政治経済社会の歩み
(準備中)

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◻️104の1の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、岡山桃太郎伝説)

2018-12-23 18:58:55 | Weblog

104の1の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、岡山桃太郎伝説)

 さて、ここで備中の領有については、近世になって大いなる変動期を迎える。1582年(天正10年)、織田信長に毛利攻めを命令されていた羽柴秀吉は、三万の軍勢で備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略していた。その中でも頑強な抵抗を見せたのが備中高松城の城主清水宗治であって、秀吉は利をもって降伏するよう勧めた。しかしながら、義を重んじる宗治はこれに応じることなく、城に立てこもった。
 ところで、この地は、現在の地理でいうと南に山陽本線と山陽道という、日本の大動脈が走っている。それでいうと岡山から西へ庭瀬、中庄、倉敷と来て、そこからは伯備線に乗り換えて清音(きよね)、総社(そうじゃ)へと北西方向に向かう。川辺の堤防をぬけると、いよいよ高梁川にとりつく。

 この川を渡って清音の堤防の坂を下ったところが、伯備線の清音駅になっている。これより総社地区に入る。履く備前のさらに北にあるのは、吉備線と国道180号線であって、吉備線の岡山から発して、西に向かって三門、大安寺、一の宮、吉備津そして備中高松とやって来る。備中高松から西へは、足守川を渡って直ぐの足守、服部、東総社と来て、列車は総社へとすべり込んでいく。

 このあたりを舞台にしての作り話では、『桃太郎伝説』が名高い。これにまつわる話は、現在の山梨県の大月市をはじめ、全国にかなり多くあって、互いに「こちらが本家本元だ」ということなのかもしれぬが、以下は岡山に限っての話にさせてもらおう。

 この話の主人公の桃太郎は、桃から生まれたとされる。だから、そのような人間はいる筈がなかろう。それでも人として振る舞い、また大きくなってからは動物たちを家来に従えて旅する訳なので、そのことに例を借り、処世訓なり現世への戒めなりを印象深く人民大衆に訴えたものと考えられよう。

 いまこの話の原型ができたといわれる、室町時代の中盤から末期にかけて振り返ると、「戦国時代」や「下克上」(げこくじょう)とも形容される、油断ならない状況であった。この政治的混沌の時期には、『かちかちやま』や「舌きり雀」などの寓話も作られた。私たちの『桃太郎』伝説も、この時期に出来上がったと考えられている。前者の物語からは、同時代の殺伐たる空気が読み取れる。
 実は、2016年春から、吉備線の愛称というか、別名というか、それがJR西日本の提案で「桃太郎線」と呼ぶことになったそうだ。それにしても、「桃太郎線」が、なぜここに登場してくるのであろうか。それこそは、この寓話にまつわるミステリーなのだが、その出所については確かなところは分からない。ともあれ、話は現代の明治・大正のあたりから、この国の中世から近世までに遡る。

 大方の向きが唱えている結論から言うと、前に述べた吉備津彦命と鬼の戦いの伝説が、別にあるところの桃太郎の寓話(ぐうわ)と結びついて、その結果『桃太郎』伝説が生まれたのではないかという。

 この二つの話を結びつけた立役者としては、岡山市の彫塑(ちょうそ)・鋳金(ちゅうきん)家の難波金之助(1897~1973)であって、彼は先の大戦前から「桃太郎会」を結成して吉備津神社を参拝し、両者の結びつきを大いに宣伝したとのこと。戦後になると、「桃太郎知事」と呼ばれる三木行治が岡山国体(1962)のシンボルに採用、そのあたりから行政も入っての「おらが国の桃太郎話」が喧伝されるようになる(詳しくは、例えば2016年6月4日付け朝日新聞、「みちものがたり・吉備路(岡山県)」)。

 要は、先の大戦前までの日本の各地で、人々は苦しいことも多々あったであろう、それらを吹き飛ばして何とか明るく生きていきたいものだというのが、たまたま室町頃からの桃太郎話に飛びつき、全国各地でその土地、土地にふさわしい話に脚色され、再出発をしたのであったようなのだ。ひょっとしたら、この話の原形にあるのは、その時代に生きた人間の息遣いであって、作者の心情はもっと切なく、例えば平和な世を希うものであったのかもしれない。

 

(続く)

 

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□218『岡山の今昔』20世紀の岡山人(安倍磯雄)

2018-12-23 10:35:04 | Weblog

218『岡山(美作・備前・備中)の今昔』20世紀の岡山人(安倍磯雄)

 

 安倍磯雄(あべいそお、1865~1947)は、幕末の福岡藩士の家に生まれた。

 この人の岡山とのかかわりは、彼が岡山キリスト教会の牧師を務めていた時のことであった。具体的には、1887年以降、91年から95年に帰国するまでのアメリカ留学の時期を挟んで、1997年まで続いた。

 牧師というからには、信者や教会を訪れた人々への対応があったであろう。日曜礼拝には、参加者に説教をしていたのであろうし、地域の人々ともかかわりが生まれていた。

これらのうち、地域へのかかわりも重要であったらしく、彼の自叙伝「社会主義者となるまで」の一説には、こうある。

 「然し一方には特殊の中から教会員になった人があった。岡山の隣接地に竹田村という特殊があった。其処から中塚(なかづか)という一家族が率先して岡山教会員となった。其家には多少の資産があったのみでなく、主人には相当の教養があった。毎日曜の午前には教会堂で日曜学校が開かれ、幾組にも分れてバイブルの講義を聴くことになって居た。教師は教会員中の元老が務めるのであって、中塚も其一人であった。(中略)

 私は赴任後此光景を見て感激に堪えなかった。キリスト教の精神が博愛主義であり、平等主義であり、平民主義であることは同志社時代に充分に会得していた。私がキリスト教に引き付けられたのも全くこの精神のためであったと言い得る。」(改造社版と光善社版がある)
 なるほど、その時の出会いにより、何がそこまで自分の心をつかんだのかということが、ここに記してある。その心のあるところへ、何かしらの形なりで迫って来た、特別の思いが込められているようで、面白い。

 後に早稲田大学の教授となった安倍は、キリスト教社会主義者の一人として、また日本における「野球の父」としても名を馳せていく。その多感な青年時代、教会活動で接したかかる情景が生涯を通じて支えの一つになったであろうことは、想像するに難くなかろう。

 

(続く)


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□104の1の2『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、桃太郎話2)

2018-12-23 10:34:19 | Weblog

104の1の2『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、桃太郎話2)

 それが何であれ、郷土のよい話として人々によって受け継がれていくためには、何があればよいのだろうか。それにしても、物事、馴れないところで具体的な選択肢を伝えるには、先ず話の筋道を整えることが大切であって、その何よりもこの寓話に「凄惨さ、残忍さ」が感じられる場合には、それをぬぐい去る仕掛けが必要であった。

 案の定、岡山人がこの寓話を導入する時には、そうはうまくならなかった経緯があるようだ。そのためか、吉備線のみならず、宇野線の名称についても、また地元の人たちに提案があった模様。提案を受けての地元の反応は、前向きのものではなかった、とも言われる。その理由としては、桃太郎寓話と地元の利益とが容易に結びつくのではなく、「唐突感」があったからではないかと、勝手に想像するのだが。
 それでは桃太郎話の未来を切り開くには、どうしたらよいのであろうか。そのためには、例えば、あの勇ましく、軍隊調の歌をなんとかしてほしい。全部をご存知でない方もおられるかと、歌詞には、こうある。
 「1.桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたキビダンゴ。一つわたしに、下さいな。
2.やりましょう、やりましょう。これから鬼の征伐に。ついて行くなら やりましょう。
3.行きましょう、行きましょう。あなたについて、どこまでも。家来になって、行きましょう。
4.そりゃ進め、そりゃ進め。一度に攻めて攻めやぶり。つぶしてしまえ、鬼が島。
5.おもしろい、おもしろい。のこらず鬼を攻めふせて。分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや。
6.万万歳、万万歳。お伴の犬や猿キジは。勇んで車を、えんやらや。」(作詞:不祥、作曲:岡野貞一氏による歌詞)
 この歌については、あたかも、ほのぼの、ほかほかとした、血の通った「鬼退治」として、前向きの印象を持たれる人が多いのかもしれない。ところが、中身は相当に異なっている。1~3番目は、違和感はあるものの、まあ、普通の範囲内だろう。だが、それの歌も4番目、5番目の歌詞へと進むにつれ、なんだか様子が怪しくなっていく。最後では、主観としては、何というか、ガチガチという位に固くなだ。だから、おしまいまで歌う気がなくなってしまうのだ。なにしろ、岡山県人にとっては、子供の頃からの、余りに身近な歌なものだから、多分にこれまで幾たび歌ったか、数え知れない。それでも、なんだか寂しい気がしてならない。
 この作り話の由来は、万物を干支(えと)でもってあてはめようという、陰陽五行説と関わりがあるのかもしれない。江戸期までには、今日に知られる全体の構成が出来上がったらしい。この物語は、鬼門の「丑虎」(うしとら)に対して、従わない者と見立て、力をもって征伐を加える構成になっているのは、室町以来の伝統をっているのかもしれない。

 しかも、桃太郎一人で征伐したのではなくて、猿や鳥や犬に黍団子の半分ずつを与え、彼らのやる気を引き出したことになっている。一部には、この話の発祥を岡山の吉備の里に見立てる向きもあるものの、元々はそうでなかった。その種の話は、日本全国に散らばっているとみる方が道理にかなっているのではないか。あわせて、全国で新規まき直しの話の伝わっていた愛知・犬山や高松・女木島(めぎじま)の『鬼ヶ島』洞窟話とも連携するなどして、今世紀を見据えた平和を愛する桃太郎話の構築に努めたが良いのだろう。

(続く)

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◻️104の2『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、高松城水攻め)

2018-12-23 10:33:05 | Weblog

104の2『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、高松城水攻め)

 さて、ここで備中の領有については、近世になって大いなる変動期を迎える。1582年(天正10年)、織田信長に毛利攻めを命令されていた羽柴秀吉は、三万の軍勢で備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略していた。その中でも頑強な抵抗を見せたのが備中高松城の城主清水宗治(しみずむねはる)であって、秀吉は利をもって降伏するよう勧めた。しかしながら、義を重んじる宗治はこれに応じることなく、城に立てこもった。
 ところで、この地は、現在の地理でいうと南に山陽本線と山陽道という、日本の大動脈が走っている。それでいうと岡山から西へ庭瀬、中庄、倉敷と来て、そこからは伯備線に乗り換えて清音(きよね)、総社(そうじゃ)へと北西方向に向かう。川辺の堤防をぬけると、いよいよ高梁川にとりつく。

この川を渡って清音の堤防の坂を下ったところが、伯備線の清音駅になっている。これより総社地区に入る。伯備線のさらに北にあるのは、吉備線と国道180号線であって、吉備線の岡山から発して、西に向かって三門、大安寺、一の宮、吉備津そして備中高松とやって来る。備中高松から西へは、足守川を渡って直ぐの足守、服部、東総社と来て、列車は総社へとすべり込んでいく。

現在のおよその行路はざっとこのようなのだが、総社に入って最初に現れる川こそが、この戦国末期の戦いに際し、攻防に大きな影響を与えたとされる足守川(あしもりがわ)なのである。
 この地この時、秀吉が黒田勘兵衛の入れ智慧でとったとされる戦術の名は、「水攻め」なのであった。この周りの線に従っては、当時毛利方の援軍四万がぐるりと楕円陣を北向きに構えていた。そのあたりから北に向かっては、丁度すり鉢のような地形になっていて、それをぐるりと鳴谷川、長良川、血吸川などの小さい川がその周りを取り囲むように経由して、やがて合流する足守川の方へと向かって流れている。地質学者の宗田克己氏による推理(「私考」)には、こうある。
 「高松城は当時沼の城として、低湿地の城として、中央に築城されその要害を誇っていたのであるが、これが近くに足守川という天井川があってのもので、もしも堤防が決壊でもすれば、簡単に浸水することに気がつかなんだらしい。

これは私考であるが、このあたりは50ミリの雨で水田が冠水するほどのところであるので、秀吉の攻め込んだ時ももう一帯が冠水していて、それに長雨をたたられ、秀吉にしてみれば手も足もでなくなっていたところ、ふと思いついたのがいっそのこと、もっと浸水させて城に水が乗るまでにしてやろうと、足守川の堤防を決壊して見ずを仕掛けたまでのことで、歴史に伝わるほど秀吉は大したことをしでかしたとは考えていなかったのであろうと思う。」(宗田克己「高梁川」岡山文庫59)
 たしかに、梅雨時ともなればこれらの川らかは水かさが増し、ただでさえ湿地帯になるというのがふさわしい地形ではある。その湿地帯の中心部にある城に向かって、北西方面から下ってきて、そこからは西から東へと流れているのが立田川であって、この川の丁度、現在の吉備津駅と備中高松駅とに位置する「蛭ケ鼻」を羽柴軍が堰き止めた。高いところでは「7メートル」とも言われる土塁でぐるり囲んだという。そうなると、降りしきる五月雨は湿地帯の真ん中につくられていたこの城の周囲に溜まるばかりであった。人が自由に身動きできない状況をつくり出したことにより、毛利の軍勢は孤立無援と化した高松城の援軍に駆けつけることができなくなってしまった。
 その両軍にらみ合いの最中の本能寺の変により、主君の信長が殺されたのを知った秀吉は、急遽毛利と和睦した。その停戦協定には、「高梁川より西は毛利、東は宇喜多」の支配下に入ることが記されていた。美作ではその後も、宇喜多の支配を拒む勢力が反旗を翻したものの、すでに態勢は決まった。そして迎えた1584年(天正12年)秋までには、美作全域が宇喜多に帰したという。
 

 

(続く)

 

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