□156の2『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、早川八郎左衛門)

2018-12-24 22:16:22 | Weblog

156の2『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(18~19世紀、早川八郎左衛門) 

 

 早川八郎左衛門(1739~1804)は、江戸生まれの幕府の役人であった。全国各地の代官を務める。その早川が、羽州尾花沢から作州久世に転任したのは、1787年(天明7年)のことであった。それからの14年間というもの、代官の職にあった。この間、備中の笠岡代官と倉敷代官を兼務したというから、驚きだ。1801(享和元年)に武州久喜に転出した。

 そんな彼の久世時代の事績としては、『久世条教』を著したのを含め農民の教化に努めたという。この啓蒙書は次のような七箇条から成る。

 いわく、「勧農桑(のうそうをすすむ)」、「敦孝弟(こうていをあつくす)」、「息争訟(そうしょうをやむ)」、「尚節倹(せっけんをたっとぶ)」、「完賦税(ふぜいをまっとうす)」、「禁洗子(せんしをきんず)」、「厚風俗(ふうぞくをあつくす)」とある。

 このうち「禁洗子」には、こうある。

 「天と地と人とを合せて三才といふ。天は父、地は母、人は子也。人は天地の子なる故、その子たる人の為に、日月星の三光日夜行道怠るなく、地は天にしたがひて、陰陽寒暑の往来少しもたがはずして、五穀草木禽獣その外ありとあらゆるものを成育し給ふ事、みな人の為に無窮に勤給ふなり。

 此故に天地は人の父母といふ。父母は我ための天地なれば、我子をあはれむは天の道也。罪なき人を殺事は天の悪(にく)み給ふがゆゑ、天にかはりて上様より賞罰を行給ふ也。然るを此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事いかなる心ぞや。天地の道に背たる仕業なり。」

 「三子を産よし御聞に達すれば、貧富御糺の上貧なるものなれば、時刻を不移鳥目(ちょうもく)五十貫文被下事外の儀にはあらず。いかなる貧ものにても、二子までは母の乳房二ツにて養育すべけれども、三ツ子に至りては一人だけの乳房不足する故、其一人の養育手当として被下儀にて、上には赤子一人といへども如斯大切に被為遊ほどの儀なるを、親の身として子を殺す事言語道断の悪事也。」

(続く)

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