♦️145『自然と人間の歴史・世界篇』中世都市ヴェネツィアの自治

2017-09-10 23:12:26 | Weblog

145『自然と人間の歴史・世界篇』中世都市ヴェネツィアの自治

 初期のヴェネツィア共和国は、アドリア海の沿岸地域はもともと「東ローマ帝国」の支配下にあった。だが、このヴェネチア人たちは、したたかであった。地中海交易で力をつけていった。「自治権」を持っていたので、完全従属ということではない。697年には、最初の代表者(「Doge」(ドージェ)という)を選出した。これが「ヴェネチア共和国」の始まりであった。以来、中世はおろか、近代の1797年の共和国滅亡まで、ちょうど1100年を生き抜く。
 ドージェの選任方法は明確には定められておらず、有力な家門から選出するという慣例があるのみであった。それ故に、初期のヴェネツィアではドージェが自身の血縁者に後を継がせようとする傾向が強かった。政治の実権を握っていた貴族たちは、ドージェが世襲制となることで共和制が崩壊することを、恐れた。そこで、改革がなされる。ドージェが後継者を指名することを禁じる法律が制定された。1172年には、ドージェは40人の委員による選挙により決められることとなった。
 その選出の舞台は、大評議会という上級貴族の集合の場であった。大評議会とは、25歳以上の貴族全員で構成され、時代によって差はあるものの、1000人から1500人の男子の集まりであったという。これは立法機関であり、時によっては法的機関としても作用していたという。この大評議会の中枢が『元老院』であって、その中には元老院議員(追加議員を含む)と各部署の長官がいて、16世紀にはその総数は260名にもなっていたという。
 1268年に新たに制定された選挙方法では、さらなる工夫がよみとれる。ちなみに、このヴェネチア共和国の社会構造は13世紀末頃から貴族、市民、庶民の3層に分かれていて、その中の貴族だけが参政権を持っていた。まずは、30人の委員がくじ引きにより大評議会から選ばれる。それからは、籤(くじ)引きを含めたかなり複雑な手続きを経てゆき、ついにドージェが選ばれる、そのドージェは終身任期であった。
 なぜそんなに複雑な手続きにするのかは未だによくわからないものの、その手続きが「これでもか」とだんだんに継ぎ足されていくうちに、有力家門といえどもドージェの位を自由にすることは難しくなっていくのを意図していたのではないだろうか。た。この制度は共和国滅亡まで綿々として維持されたという。

(続く)

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♦️328『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義者鎮圧法

2017-09-10 22:22:22 | Weblog

328『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義者鎮圧法

 新しい国家としての統一がなってからのドイツは、近隣諸国との間でフランスの孤立を意図した同盟を結んでいく。1873年にオーストリア・ロシアとの間に三帝同盟を結んだ。また1882年に、オーストリアとイタリアとに働きかけて三国同盟を結んだ。その後バルカンで半島においてオーストリアとロシアとの対立が激化して三帝同盟が弱体化すると、1887年にはロシアとの間に新たな安全保障条約を結んだ。
 おりしも国内では、急速な資本主義化により、階級対立が激しくなりつつあった。1875年には社会民主主義のラサール派と、社会主義を標榜するマルクス主義派(アイゼナッハ派)がゴータで合同大会を開き、世界最初の労働者の単一政党である、ドイツ社会主義労働者党(1890年にはドイツ社会民主党に改称)を結成した。この時、歴史に名高い、『ゴータ綱領批判』がマルクスとエンゲルスによってなされた。労働者階級は、社会構造の変革にめざめつつあった。およそこれら動きは、ビスマルクの出身階層である土地貴族としての「ユンカー」や資本家層には大きな脅威となってきた。
 そして迎えた1878年には、皇帝狙撃事件が起きる。このときのドイツ帝国の首相はビスマルク(1871~90在任)であって、皇帝の下で国民に対しある種の独裁政治を行っていた。かれの政治手法とは、「アメとムチ」の使い分けで有名だ。その彼が、この事件を口実に議会の協力を得て制定したのが、通称「社会主義者鎮圧法」であった。もう一つの政策スローガンの「アメ」としては、労働者を社会主義者から遊離させるため、独自の社会保障制度の制定などの社会政策が進められた。この社会主義者鎮圧法だが、「社会民主主義、社会主義もしくは共産主義的な活動」によって国家、社会秩序の転覆を図ろうとする結社、集会、印刷物、寄付金の徴集などを禁止した。そしてこの目的を達成するべく、ほか、特定地域の部分的戒厳令の施行、違反者の居住地制限なども規定していた。
 さてもさても、この法律は時限立法で、その期限は延長をつづけ,結局12年間この法のもとにあったのだが。制定から10年後の1888年、ヴィルヘルム1世が亡くなり、フリードリヒ3世が即位したが在位わずか99日で没し、孫のヴィルヘルム2世(在位は1888~1918)が29歳で即位した。ヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法を維持するかどうかの扱いを巡って宰相のビスマルクと対立した。ビスマルクの方は、社会主義者鎮圧法の有効期間を延長しようとしていた。それに対し、1890年9月には、ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を否決した議会の決定、同法は失効した。同法施行後の10年間に、1299の印刷物、332の団体が禁止されたという。
 そればかりではない、ヴィルヘルム2世は、安全保障条約の更新をめぐってもビスマルクと対立していた。ヴィルヘルム2世は、友好国との安全保障条約の更新を拒否した。1890年、ビスマルクはとうとう辞職を余儀なくされ、ヴィルヘルム2世の親政が始まった。
 この頃までに、ドイツの資本主義は重化学工業を中心に工業がめざましく発展していた。1840年代の産業革命によって、その発展の基盤が整えられていった。その後1910年までにはイギリスを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第二の工業国となっていく。軍備についても増強していく。こうした培った経済力と軍事力を背景に、ドイツは「世界政策(新航路政策)」と呼ばれる積極的な帝国主義政策に乗り出していった。

(続く)

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