◎41の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』中国の隋と唐

2017-09-25 23:37:22 | Weblog
◎41の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』中国の隋と唐

 581年、北朝・北周の外戚である楊堅が建国したのが、隋(ずい、中国読みでスイ)である。589年には、南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。これにより、後漢の滅亡以来、約350年続いた魏晋南北朝の分裂時代を終わらせる。彼が即位して文帝となると、統治には、律令制を採用する。北魏の均田制、租庸調制、西魏の府兵制などを継承してのことである。二代目の煬帝(ようだい)になると、土木工事に民衆を駆り出す。副都の洛陽の建設など土木工事に農民を徴発し、その生活を困窮させた。運河の開削には、多額の資金を要した。そのことで、できたばかりの国家財政は逼迫していく。
 煬帝はまた、外征にも精を出す。遠征先は、朝鮮半島を本拠とする高句麗(こうくり)であった。朝鮮半島では三国時代が次第に統合に向かい、それらの中では高句麗が強大になりつつあった。その遠征は、612年に始まり、3度に及んだ高句麗遠征を行ったが、その遠征中に内乱が勃発して中止となる。一方、北方では、隋からの圧迫で、モンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民が築いた国家の突厥(とっけつ、552~744)が東西に分裂し、東突厥は唐の支配下に入る(その後のことだが、682年、再び自立して第二帝国を築く。それからウイグルに滅ぼされるまで持ちこたえた。東突厥は独自の突厥文字を有したことで知られる。この時代、ヨーロッパではフランク王国などのゲルマン民族の諸国の形成の時代であり、西アジアのアラビア半島にムハンマドが登場し、イスラーム教が創始されていた。
 あれやこれやの強行に対する不満から民衆の反乱が起き、それの鎮圧に時間を費やしているうちに、隋の屋台骨は大きく揺らいでくる。617年に武将であった李淵(りえん)が挙兵すると、長安に向かう。首都が反乱軍の手に落ちるのが濃厚になり、すでに諸侯に人望のなくなっていた煬帝はいち早く首都を落ち延び、自らが造らせた大運河で結ばれた南方の揚州(江都)に逃れる。しかし、その地で部下に殺され、隋は滅亡する。その後の混乱を収拾したのが、李淵の勢力であった。11月には長安を占領する。618年5月、長安の李淵は隋の恭帝(煬帝の子)から禅譲された形をとり皇帝・高祖となり、唐(とう、中国読みはタン、618~907))を建国し、諸侯に号令するにいたる。翌年5月に15歳の前皇帝の恭帝を殺害したことで、隋は完全に滅亡する。
 その唐だが、当面は国内固めに時間を費やすことになっていく。内紛も抱える。高祖の後は彼の二男の李世民(りせいみん、698~649)が継ぐ。反乱軍は、事実上、かれが率いていた。建国の最大の功労者であった。競争者となっていた長男と弟を「玄武門の変」で倒し、高祖は仕方なく李世民を後継者にし、自らは引退を決め込む。新皇帝となった李世民こと太宗だが、頭脳明晰な上に類い稀な政治能力を持つ専制君主であったらしい。優秀な部下を身分を越えて抜擢するなど、「貞観の治」を主導する。その唐は、7世紀には最盛期を迎える。その地理的領域は、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや東南アジア、さらに北東アジア諸国をうかがうまでになっていた。そればかりではない。この頃までに、唐は、朝鮮半島や渤海、それに日本などに、政制や文化などの実に広い分野で多大な影響を与えている。
 太宗が志半ばで死ぬと息子が後を継いで高宗となる。その彼は凡庸であって、その死後の690年には高宗の妻が唐王朝は廃し、自分は武則天と号し、武周王朝を建てる。つまり、女帝になったのだ。705年には、老齢になっていた武則天が失脚して唐王朝が復活するにいたる。その唐も、8世紀になると、色々と混乱や停滞が見えてくる。712年、李隆基が即位し、玄宗となる。彼の治世の前半は開元の治と謳われ、唐は絶頂期を迎える。しかし、前には下り坂がみえ始めていた。中央アジアにまで進出していたのだが、751年にアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。玄宗は、長い治世の後半には政治への意欲を失うにいたる。宰相の李林甫ついで楊貴妃妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、節度使の安禄山と対立し、755年、憤慨した安禄山(あんろくざん)は反乱を起こす。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。安禄山は、北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていたことから、挙兵でたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ、自らは大燕皇帝と称するにいたる。
都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡する。その途中で、反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は殺さる。力を落とした玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位する。その後は、諸侯やウイグル族の援軍を得て、863年に乱を平定する。この9年に及んだ内乱を「安史の乱」という。唐の国威はこの時大きく傷付いており、それからも前世が行われることなく、国勢はますます傾いていく。
 9世紀も半ばになると、官吏を巻き込んでの権力闘争や内乱が相次ぐようになる。874年には、黄巣による乱が起きる。これを「黄巣の乱」といい、全国に波及していく。黄巣は長安を陥落させると斉(せい)を建てるも、政務を執行できず、略奪を繰り返した挙句に長安から退出する。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から名をもらい、朱全忠と名乗る。この頃、唐の地理的領域は、首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小していた。藩鎮からの税収も多くが滞って、もはや財政的に困難となりつつあった。河南地方の藩師(長官)に封じられた朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移し、王室の権威を巧みに自身の勢力拡大に利用していく。
 そして迎えた907年、朱全忠は弱気になっていた哀帝より禅譲を受け、新王朝の後梁(こうりょう、中国読みはホウリャン、907~923)をひらき、これで唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎなかった。各地には節度使から自立した諸国が群雄割拠していた。後梁は、これらを制圧する力を持っていない。中国を再統一する勢力がいないことになり、いわゆる「五代十国」時代(907~979)に入っていく。それまで東アジア文明をリードしていた力は失なわれ、周辺の朝鮮、契丹(きったん)や日本など、開放的な要素を兼ね備えていた唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は、以後、独自の発展を模索していくことになっていく。

(続く)

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◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋と南宋

2017-09-25 10:20:55 | Weblog
◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋と南宋

 中国での北宋(ほくそう、中国読みはペイソン、960~1127)の建国は、戦いによるものではなかった。いわゆる「五大十六国」時代に属する後周(こうしゅう、中国読みでホウヂョウ、951~960)の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(ちょうきょういん)が、その後周最後の皇帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて建国した。その彼が志半ばで急死した後、弟の趙匡義(ちょうこくぎ、後の太宗・趙光義)が跡を継いで中国の統一を果たした。かれの時代、民政の安定と科挙制度の充実を図るのを急務としていたが、なかなかできなかったようである。
 1004年には、北方の遼が南下したが、真宗は遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦した。具体的には、国境の現状維持と不戦、それに宋が遼を弟とすること、さらに宋から遼(りょう、中国読みでリャオ、907~1125)に対し毎年絹200万匹、銀10万両を送ることなどが約束された。これを「?淵の盟」(せんえんのめい)という。1044年、西の西夏(せいか、中国読みでシーシア、1032~1227)が宋に対し、これも財貨を贈ることで和睦(わぼく)した。これを「慶暦の和約」(けいれきのわやく)と呼ぶ。以後、国政を整えるために、中央集権を目指すようになっていく。建国当初から、大商人・大地主の囲い込みや脱税そして役人の汚職が目立ってきていた。
 六代目の皇帝の神宗は、野心家であった。これらを鎮める策をとることで、王権を強め、もって国を安定させたいと思った。鋭気のある王安石を登用して国政改革にあたらせた。
神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して事に当たる。一連の政治は「王安石の新法」などと呼ばれ、方策は多岐に渡る。
 主なものとして、「青苗法」は、春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に利子を付けて返還させる貸付制度。「均輸法」は、農民の生産する物資を都に運ぶ際、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ることを約させた。「市易法」は、政府が中小商人に資金を貸し付け、物を買わせ、値が上がったときに売り出させて、中小商人を保護するとともに物価の安定をさせようとした。「募役法」とは、農民に労役免除の免役銭を納めさせ、それをもとに労役(差役)に従事するものを募集した。ある種の「失業対策事業」にもなったのではないか。「保甲法」は、その時々での傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。日頃はかれらを治安維持にあたらせ、農閑期には軍事教練を行う。さらに「保馬法」だが、保丁に対し、政府が馬を貸し与え、平時には農耕馬として飼育させ、戦時には軍馬として調達する仕組みであった。
 これらを概して、農民や坑戸・畦戸などの保護と、大商人・大地主の抑制を目的とした施策の二つにまとめられる。一言でなぞらえるなら、「富国強兵」というところであろうか。したがって、人民にとっては、負担が軽くなる分と、それが重く厳しくなる分との両方があったであろう。何よりも、富裕階層(士大夫)とその出身である官僚(旧法派)からの、激しい妨害を受ける。彼らには、このままでは既得権益を根こそぎとられる、との危機感も手伝ったことであろう。概して、人びとはかれの志の高いことを評価せず、ともすれば「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難したのは否めない。そうして王安石とそのグループが粉骨砕身するも、改革の成果はなかなか上がらない。そのうちに、改革の勢いは弱まっていくのであった。
 その頃の国境のことだ。1115年、満州から南下して来た女真族は金(きん、中国読みでジン、1115~1234)を建国していた。元々、遊牧民族が建てた。宋は金と共同で遼を攻撃する協定を結ぶ。これを「海上の盟」と呼ぶ。1121年、両国の軍は、遼を滅ぼした。その後の宋は、金と対峙する。金を牽制するため遼の残党との協力を画策しするにいたる。それで金の怒りを招き、1127、金の攻撃を受けて首都の開封が陥落した。皇帝欽宗らが北方へ拉致された、これを「靖康の変」と呼ぶ。開封を離れていた欽宗の弟趙構は、南遷して杭州で皇帝即位を宣言する。
 南宋(なんそう、中国読みはナンソン、1127~1279)は、即位した趙構は高宗となり、宋を名実ともに再興したいと考えた。はじめ岳飛(がくひ)らの活躍によって金に強固に抵抗する。だが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金と和平を結び、岳飛は殺される。秦檜の死後に金の4代目、海陵王が侵攻を始めたものの、金の皇族の完顔雍(烏禄)が反乱を起こして海陵王は殺される。完顔雍は金の世宗となり、宋と和平を結ぶ。同年、高宗の養子の趙慎が即位して孝宗となった。孝宗の時代、宋と金の関係は安定し、平和が訪れた。孝宗は無駄な官吏の削減・当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め・荒廃した農村の救済・江南経済の活性化など様々な改革に取り組んだ。なかなかの手腕で、南宋を戦乱の痛手から復興させた。
 1189年に孝宗が退位して上皇となり、趙惇が即位して光宗となると、歯車が狂い始める。1194年に孝宗が死ぬと重臣たちによって光宗は廃位させられ、反対派に対する大量弾圧が起こった。これを「慶元の党禁」と呼ぶ。 政治の実権を握った韓?冑らは、金がタタールなどの侵入に悩まされているのを好機として、北伐の軍を起こすが失敗する。1207年になると、金の要求で韓?冑を殺して送ることでその金と和睦するにいたる。1233年には、草原に興ったモンゴル帝国が金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して攻め、その翌年に金は滅びた。
 1235年、宋軍は北上してかつての都洛陽・開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であった。モンゴル軍との間でモンゴル・南宋戦争があり、長江流域を挟み一進一退を繰り返す。しかし、クビライが襄陽を陥落させる頃には宋は内部対立で崩壊に陥り、もはやングル軍の敵ではなかった。そして迎えた1276年、モンゴル軍に臨安を占領され、宋は滅亡した。その後、一部の皇族・官僚・軍人らが南に下って抵抗を続けるも、1279年に広州で元軍に攻撃され、宋は完全に滅びた。

(続く)

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