○○119『自然と人間の歴史、日本史・日本篇』承久の変後の政策(政策)

2016-07-19 22:23:47 | Weblog

119『自然と人間の歴史・日本篇』承久の変後の政策

 承久の変の乱後処理に伴い、全国でおよそ3千箇所もの朝廷の所領が幕府の財政に入った、とも言われる。幕府が行った朝廷側の財産処分などは、こう説明される。
 「後鳥羽上皇は膨大な所領の所有者であったが、幕府はそれらを没収した。すなわち庁分御領七十九か所、安楽寿院四十八か所をはじめ200か所を越える荘園がそれである。これらは上皇の兄、後高倉院(後堀川の父)に与えられたが院領の進止権(しんしけん)(自由に処分できる権利)は幕府が掌握した。上皇に近かった公卿はすべて遠ざけられ、あるいは解任され、かわってこれまで幕府と密接な関係にあり、承久の乱勃発時における情報提供者であった西園寺公経が朝廷の実権を握ることとなった。」(村山光一・高橋正彦「国史概説Ⅰー古代・中世」慶応義塾大学通信教育教材、1988)
 幕府はこうして手に入れた田畠を、新しい税法下で新たに補した地頭に管理させる。次に見える書置きは、幕府によるそのことの確認となっている。
 「去々年の兵乱以後、諸国の荘園郷保(しょうえんごうほ)に補せられるる所の地頭、沙汰の条々。
一、得分の事。
 右、宣旨の状の如くば、仮令(けりょう)、田畠(たはた)各(十一)町の内、(十)町は領家国司(りょうけこくし)の分、(一)丁は地頭の分、広博狭小を嫌はず、此の率法を以て免給の上、(加徴)は段別に(五)升を充(あ)て行はるべしと云々。・・・・・貞応二年(1223年)七月六日、前陸奥守(北条義時)判、相模殿(北条時房)」(『新編追加』)
 この新法を「新補率法」といい、その仕事を担う地頭のことを「新補地頭」と呼ぶ。また「加徴」というのは、いわゆる「兵糧米」とは異なる。それは、領主(国司)に納める年貢に加え地頭が徴収するもので、彼ら自身の取り分となる。それが1反当たり5升認められるというのだから、併せて、新たに獲得した幕府領地からの収益に係る新地頭の取り分全体としては、11町につき1町の免田、山や川からの収益の半分に、この1反当たり5升の加徴米が加わる仕組みとなっている。ちなみに、3代執権の北条泰時の婿、足利義氏は、この乱に寄与した功績により、美作国以下数カ所の領地を得ている。
 それでは、鎌倉初期の武家政治の仕組みはどうであったのか。1224年(元仁2年)に執権となった北条泰時が、連署(れんしょ)北条時房や評定衆(ひょうじょうしゅう)とともに編纂(へんさん)したものが、1232年(貞永元年)に制定された御成敗式目(貞永式目と通称される)である。武家政治の基本の約束事を述べたこの式目は、はじめは35条までが作られ、そのあと付け加えがあり、全部で51箇条になる。当時の社会の根本的な生産関係は、土地を巡るものであり、関係者に対し政治権力で土地を所有する権利を保障するものとなっている。
「第七条
一、右大將家以後代々將軍并二位殿御時所宛給所領等、依本主訴訟被改補否事
右或募勳功之賞、或依宮仕之勞拜領之事、非無由緖、而稱先祖之本領於蒙裁許、一人縱雖開喜悅之眉、傍輩定難成安堵之思歟、濫訴之輩可被停止、但當時給人有罪科之時、本主守其次企訴訟事、不能禁制歟、次代々御成敗畢後擬申亂事、依無其理被弃置之輩、歴歳月之後企訴訟之條、存知之旨罪科不輕、自今以後不顧代々御成敗、猥致面々之濫訴者、須以不實之子細被書載所帶之證文
第八条
一、雖帶御下文不令知行、經年序所領事
右當知行之後過廿箇年者、任右大將家之例、不論理非、不能改替、而申知行之由、掠給御下文之輩、雖帶彼状不及敍用」
 又、諸国の領国支配と幕府財政などの基本的仕組みについても、全国に守護と地頭を億こととし、次のように言及している。
「第三条
一、諸國守護人奉行事
右々大將家御時所被定置者、大番催促謀叛殺害人〈付、夜討強盜山賊海賊〉等事也、而至近年分補代官於郡鄕、宛課公事於庄保、非國司而妨國務、非地頭而貪地利、所行之企甚以無道也、抑雖爲重代之御家人、無當時之所帶者、不能驅催、兼又所々下司庄官以下、假其名於御家人、對捍國司領家之下知云々、如然之輩可勤守護所役之由、縱雖望申一切不可加催、早任大將家御時之例、大番役并謀叛殺害之外、可令停止守護之沙汰、若背此式目相交自餘事者、或依國司領家之訴訟、或就地頭土民之愁鬱、非法之至爲顯然者、被改所帶之職、可補穩便之輩也、又至代官可定一人也
ー中略ー
第五条
一、諸國地頭令抑留年貢所當事
右抑留年貢之由、有本所之訴訟者、即遂結解可請勘定、犯用之條若無所遁者、任員數可辨償之、但於爲少分者早速可致沙汰、至過分者三箇年中可辨濟也、猶背此旨令難澁者、可被改所職也」

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆


○139『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(産業の発達)

2016-07-19 22:21:49 | Weblog

139『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(産業の発達)

 室町時代に入ってからの政治状況では、全般に「14世紀末から15世紀にかけて、諸国の守護はほぼ特定の大名に固定してくる。」(網野善彦「日本の歴史・下」岩波新書、42ページ)。このことは、「この時代(鎌倉時代)から南北朝時代、室町時代を通じて荘園は武家によってしだいに併呑せられ、貴族は実勢力の小さい一小階級として残存したにすぎなかった」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)と言われる。この間に武家相互のあいだにしばしば戦争が行われ、さまざまな場所で弱小なものが強大なものによってしだいに併呑されていく過程で、地方の権力が確立されてゆき、中央の幕府権力は名目だけのものとなっていったことが窺える。
 それでは、室町の幕府を初めとした諸権力を支える下部構造、経済はどのようであったのだろうか。農業面では、鎌倉期の二毛作が普及していく。二毛作で米、麦、そばの栽培開始が広くあった。従来からの肥料に代わって下肥の使用が開始された。灌漑も、戦国大名たちの地方制覇に従って、ますます組織的に行われるようになっていく。稲の品種改良として、早稲、中稲、晩稲の栽培が見られる。一部には、外来米の普及もあったらしい。どの栽培がさらに発展していく。殊に冬作に、豆作が普及していく。食料以外も、生糸や「からむし」と呼ばれる衣服の原料、染料そして荏胡麻(えごま)といったところか。
 これから述べる座とは、「英国中世のクラフト・ギルドあるいはドイツのツンフトに類似するもの」(土屋前掲書)としてあった。商品の製造、小売から、品物の運送や建築を手掛けるものまで、広範な業態を示した。畿内が中心で、淵源は鎌倉時代末の1323年(元享3年)に京都の綾小路町に紺座、七条町には干魚座があったことで知られる。
 やがて室町期になると、座が本格的な発展の時期を迎える。公家や寺社を本所(ほんじょ)と仰いで、彼らに労役や年貢(一種の営業税か(座役))を納入し、庇護を求め、商売の向きは独占的な特権を手にすることでの仕入れ、販売を行うことで収益拡大を目指した。大山崎油座(もしくは、荏胡麻油座ともいう、石清水八幡宮を本所とする)、酒麹座(北野神社を本所と仰ぐ)、綿座(祇園社を本所に戴く)といった、より大規模な座が繁盛の時を迎える。これらの民間の座に、公家を本所とする座、寺社の経営する座を加えると、あわせて数十もの座のあったことが史料にみうけられる。同様に奈良の地でも、寺社を中心にその展開が見られる。この組合は、はじめは商工業者の活動を促進する方向に展開したが、商品経済の発達につれ、やがてその閉鎖的なあり方が桎梏(しっこく)と化していく。やがて公家や寺社の統制力が失われてくると、かような性格を持つ座に加わらない新興商人たちの台頭を食い止めることができなくなってゆく。
 高梁正彦氏も、こう説明しておられる。
 「生糸は公家、寺社、武家などの支配者階級の要求によって生産され流通した。遠隔地から年貢米の京上が困難な時は生糸が代わって大都市へ納入された。十四世紀末には京都に綾座、錦座などが成立している。○(からむし)は当時の庶民から支配者階級までの日常衣服の原料である。全国的に生産されていたが、特に越後産が優れていた。京都、奈良
には十五世紀に白布座、布座が成立して商品経済化が進んだ。荏胡麻は灯油の原料で、前述の通り、離宮八幡宮の神人らが取り扱ったことで有名であるが、奈良では興福寺の大乗院を本所とする符坂油座があって、吉野地方生産の原料を独占して大和国中での油の専売権を強めていった。染料には茜、藍、紫などがある。」(村山光一・高橋正彦「国史概説Ⅰー古代・中世」慶応義塾大学通信教育課程教材、1968)
 この時代には、流通もさらに発展した。定期市として六齋市が立つようになっていく。鎌倉期の月に三度の市開催であったのが室町の世になると六度の開催に増えたわけだ。京都では、「淀の朝市」や「三条・七条の米市」が繁盛した。地方での市はこの時代、さらに発展していった。さらに、鎌倉期に続いて、小売業の増加も見られた。例えば、鎌倉期からの「桂女(かつらめ)」による売り歩きについては、次のように言われる。
 「戦国期に入る頃から、桂女は「勝浦女」「勝浦」と書かれるようになる。摂津の石山本願寺の証如のもとには、天文五年(1536)以降、連年、都市の始めに「佳例の鮒」「鰹一編・樽一荷」を持参して、「勝浦女」が訪れ、証如から毎年の祝儀・小袖などを与えられた(『証如上人日記』)。桂女はときには七月にも姿を見せ、小袖や鮎鮨を持参しており、そこには、かつての鵜飼の女性、鮎売の女商人の面影をうかがうことができるが、注目すべきは、天文五年正月一〇日に来た桂女が「和睦珍重」としてさきの鰹を持参しており、天文一二年(一五四三)には、「誕生の儀につき」として、昆布を持ってきている点である。」(「網野善彦著作集」第十一巻「芸能・身分・女性」岩波書店、2008)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆