○○45『自然と人間の歴史・日本篇』倭の五王の時代

2016-07-01 09:38:29 | Weblog

45『自然と人間の歴史・日本篇』倭の五王の時代

 それからまた時代が下って、5世紀の中国と、その周辺の地域の出来事を記しているものに、『宋書』と言う書物がある。これがカバーする年代は、南朝の宋(ソン、420~479年)・斉(中国語には無い漢字のため代わりの文字で代用、チー、479~502年)・梁(リアン、502~557年)の3国に仕えた沈約(441~513年)が、487春に斉の武帝に命ぜられて編纂し始めた史書である。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体の正史であるが、本紀と列伝は翌年の2月に完成したが、その完成には10年以上の歳月がかかり、その時期は梁に入ってからの502年頃とされている。なお、「南朝の宋」ということでは、陳(557~589年)(日本語には無い漢字のため代わりの文字で代用、チェン)を加えた4つの王朝である。
 その『宋書』の倭国伝において、「倭の五王(わのごおう)」の名が出てくる。すなわち讃、 珍、済、興、武の5人が倭王として連続して宋に朝貢を重ねていた。それに至る中国大陸では、420年の禅譲により東晋から宋への王朝権力の移動があった。439年には北魏が華北を統一し、南の宋と南北朝時代へ入っていく。
 そんな時の倭から宋への話のとっかかりは、421年、倭王の讃(中国黄泉では倭讃、姓が倭で名が讃となる)が宋(420~479年)に使者を派遣、朝貢したのに始まる。南朝宋の武帝は倭讃の朝貢を喜んだものとみえ、彼を「新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に任官した。所轄ということでは、百済(くだら、朝鮮語ではペクチェ)の領分は除いてある。倭讃は、この後の425年にも使者を宋に派遣して、国書を奉った。『宋書倭国伝』には、こうある。
 「倭国在高麗東南大海中、世修貢職。
 高祖永初二年、詔曰、「倭讃萬里修貢。遠誠宜甄可賜除授」
 太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表献方物。
 讃死弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。
 二十年、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。
 二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
 済死。世子興、遣使貢献。
 世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。
 順帝昇明二年、遣使上表。曰、
「封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極、道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不已。毎致稽滞、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、控弦百万、義声感激、方欲大挙、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今欲練甲治兵申父兄之志。義士虎賁文武効功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆戴、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節。」
詔除武、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王。」
倭国在高麗東南大海中、世修貢職。
 高祖永初二年、詔曰、「倭讃萬里修貢。遠誠宜甄可賜除授」
 太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表献方物。
 讃死弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。
 二十年、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。
 二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
 済死。世子興、遣使貢献。
 世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。
 順帝昇明二年、遣使上表。曰、
「封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極、道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不已。毎致稽滞、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、控弦百万、義声感激、方欲大挙、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今欲練甲治兵申父兄之志。義士虎賁文武効功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆戴、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節。」
詔除武、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王。」(原文の難解な文章の訳と解説は、岩波文庫に紹介されている)
 この上表文を中国大陸の南半分を領していた宋王朝に提出した倭の王のねらいとするところは、何であったのだろうか。それはおそらく二つあって、一つは祖先の功績を強調し、それにふさわしい任官をしてもらうことであった。いま一つは、鉄資源や、大陸及び朝鮮半島のもろもろの高い技術を自分の国に導入したかったのではないか。その手始めとして、421年と425年に宋への朝貢を敢行した讃なる倭の王と見られるものの、邪馬台国の流れを汲む人物かどうかははっきりしていない。
 邪馬台国時代、倭の王権は二人から成り立っていたとされ、一つは神聖系統、もう一つは執政系統に分かれていた。この王の出目は不明ながらも、ともあれ、なかなかのやり手であったのではないか。讃(さん)が死ぬと、後には弟の珍(ちん)が立って倭珍となり、430年と438年に宋に朝貢に行く。珍が死ぬと、済(せい)が後を継ぎ、重ねて倭から宋に朝貢した(443年と451年)。済は、讃や珍とは別系統の王であり、5世紀中ごろに即位した允恭(いんぎょう)大王だと言われる。済の後は世子の興(こう)が継いで462年に宋への遣使を行い、宋への任官を果たす。そして興の後は弟の武(ぶ)が襲名し、倭武を名乗って478年に、上記の『宋書』にある上表を行い、またもや任官を果たすのだった。
 その武が使いを送った478年の3年前、475年には朝鮮半島にある高句麗の長寿王(好太王の後)が百済の漢城を落とした。百済と友好関係にあった倭は、勢いに乗って南下しつつある高句麗の「道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷」(上表文)との政治的圧力に対抗するために、宋に何とかしてほしい。具体的には「窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節」(「どうか私に高句麗王と同じ開府儀同三司(かいふぎどうさんし)の称号を与えてください、そうなればさらに忠勤を尽くします」)とかけあったのだ。それにしても、先の上表文には殊更に倭王武の勇猛果敢ぶりを宣言していることがある。「祖禰自ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五カ国、西は衆夷を服すること六十六カ国」という下りを推測するに、いかにも自分の代で倭の支配は盤石になったと強調している。畿内から中部、さらに東海へと支配を進めつつあったヤマト政権の面目新たにというところであろうか。もっとも、「北は海を渡り平らげること九十五国」(同)になると、はて日本列島にそんなところがあったのだろうかと、朝鮮半島の南の島々も入れての話ではないかと、首をかしげざるをえない。のみならず、自分の周りを「毛人」とか「衆夷」というのであれば、自らについては、その頃の日本列島における数ある部族同盟の一有力首長として力を蓄えていたのであって、九州辺りから畿内あたりに進出していく途上にある、つまり現在進行形で書かれた領土拡張を伝える文章なのかもしれない。
 その辺りの事情については、吉田晶氏は、「吉備氏の反乱」の可能性を述べながら、当時、既に「大王」(おおきみ)なるものが成立していたとの仮説に立ちつつ、その国内及び国外における位置について、次の一説を投じておられる。
 「さきに前方後円墳の全国的普及をもって、畿内勢力を中心とする全国的な部族同盟形式の第一歩であるとした。大王は畿内の有力首長たちの形成した部族同盟の最高首長であった。五世紀のいわゆる「倭の五王」は基本的には、以上のような歴史的な性格をもつ存在だったのである。
 大王は全国の首長勢力を代表して、中国の宋などと外交を行った。だが、大王は各地の大首長に対して隔絶した地位を占め、中央集権的に各地域を支配していたのではない。このことを象徴的に物語っているのは、宋から与えられた将軍号であろう。倭王にはつねに安東将軍の将軍号が与えられたが、438年に倭王珍(ちん)の使となった倭隋(わずい)らに、平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍号が与えられている。これらは宋の序列では、ともに三品下階に属し、倭王とそれ以外との序列差はきわめて少ない。ところが百済の場合、458年の時点においては、百済王は鎮東大将軍で二品にあり、王族に与えられた最高位が三品下階の下位の冠軍将軍であった。つまり百済では、王とそれ以外の間に明確な差があるのに対し、倭の場合、その差がきわめて少なく、将軍のあり方は、大王と大首長層の間に隔絶した政治上の上下関係があったことを示していないのである。」

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆