興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

枝ぶりすっきり 梅花しっとり

2024-02-22 | 随感・偶感・歳時感

わが家の梅が今年も咲いた。

例年より花数が少ないのは、枝の剪定をしてもらったからだ。
といってもプロの庭師を呼んだわけではない。

昨年末、伸びすぎた金木犀を市のシルバー人材センターに頼んで伐ってもらった折、わきの梅の木も ‘ついでに’ 伐ってもらったのだ。

来てくれたシルバー人材センターの方は、素人のわたしから見ても実にバランスよく、梅の枝を刈り込んでくれた。心得のある人だったのかもしれない。

瓢箪から駒、金木犀も含めて、プロの庭師よりはるかに安く伐ってもらえたと思う。

 

 

 

     

三十数年前、苗木で買ったこの梅の木、いつの間にか樹肌が古木の風合いを帯びてきた。

こちら(わたし)も年取るわけだ。

おととい暑いくらいだったのに、きのう、きょうと真冬の気温に戻ってしまった。

今朝は夜来の雨。あすは雪の予報もある。

遠出をしようかと思ったが、やめて、すっきりした枝ぶりに咲いた梅花を肴に、梅見酒と洒落込むか。


ほめ言葉になっていない

2024-02-12 | 随感・偶感・歳時感

(すだれ)越しに入ってくる朝陽を受けて、観葉植物の葉に簾の縞模様が映っていた。

 

 

   

手前の葉には、奥の葉の影が落ちて、葉の濃淡がくっきり。これもなかなかおもしろい図柄である。

 

むかし、さる「生け花展」に行ったときのことを思い出した。

その展覧会の案内をくれた知人の作品は、部屋のすみに、白壁にいまにも接するような位置に置かれていた。

部屋の照明の加減で、その白壁には知人の生け花の影が映っていた。葉と枝の多いその作品は、壁のシルエットとともに微妙なハーモニー効果を醸し出していたのである。

「あれは影も含めて鑑賞するという演出だったの?」
と、後日その知人に会ったとき、わたしはほめるつもりで聞いた。

ところが知人はめんくらった表情を浮かべ、首をわずかに横にふりながら口をつぐんでしまった。彼女は生け花本体だけをほめてほしかったのだ。

考えてみれば一つの生け花展で、一つの作品だけそんな演出をするわけないではないか。

茶化すつもりはなくとも、無知と早とちりは人間関係を台無しにする。


2024 わたしの今年の漢字は「聴」

2024-02-05 | 随感・偶感・歳時感

        写真はわが家で作った恵方巻き。食べ始めだけ東北東を向きました。本記事と関係ありません。

 

2024年、わたしの今年の漢字一字は「聴」ということにしたい。
韓国語の勉強で、今年は「聴くこと」に比重を置こうと思うからだ。

わたしは長年韓国語の勉強を続けてきているが、とくに「話すこと」になかなか自信が持てない。
話すには、前提として十分に「聴くこと」ができなければならないのだ。

今通っている公民館の韓国語学習サークルでも、見ていると、韓国のテレビドラマが好きという人のほうが、上達が早いように思う。
耳が慣れているからであろう。

「文法」や「読解」、「作文」や「基本文型の反復練習」ももちろん大切である。しかし赤ちゃんは、おかあさんや周りの人たちの話を「聴くだけ」で話せるようになるではないか。

わたしは今年、 ‘韓国語学習の赤ちゃん’ になる。


感動は時空を超える

2023-12-31 | 随感・偶感・歳時感

ビデオ録画していた映画「小公子」を、先日カメラ屋さんでDVDにダビングしてもらった。

ビデオ再生機ははるか昔に捨ててしまい、見る術(すべ)のなくなった古ビデオ(テープ)が家に山ほどあったので、わたし自身の ‘終活’ とも思い、ぜんぶ捨てることにした。

その際、思い入れがあってどうしても捨てられないものが数本あり、それを今回DVD化した。映画「小公子」はそのうちの1本だ。

 

 

 

   

この「小公子」をどうしても捨てられなかった理由は、きわめて感動的な映画だったという明確な記憶があったからだ。
今回ダビングされたDVDで、久しぶりに見返してみて、やはりストーリーの随所で目頭を熱くさせられた。





   

19世紀末のイギリス。ドリンコート伯爵家を舞台に、二人の伯父と父の死により突然貴族の跡継ぎとなったアメリカ育ちの少年、セドリックの物語。

感動したのは、セドリックの純真で愛情深い心、慈しみのこもった心に、である。
自然な何気ない言動で、お城(伯爵家)で働く使用人たちや領民たちの心をほどなくとらえてしまい、やがてかたくなで傲慢な祖父、ドリンコート伯爵の考え方や心もしだいにとかし、和らげていった。

セドリックとともにイギリスに来たセドリックの母、エロル夫人の愛情豊かな、それでいて毅然とした態度もすばらしい。
セドリックの幸せを第一に考え、人としての在り方を教え、伯爵のアメリカ人一般や自分に対する偏見には一歩も引かない。

セドリックのやさしさも、強さも、他者の幸せを考えることのできる資質も、この母の育て方によるところが大きかったのだろう、と思わせてくれた。

 

 

   

「小公子」の原作者はフランシス・ホジソン・バーネット。1886年に「LITTLE LORD FAUNTLEROY」という題でアメリカで出版された。
以来世界各国で翻訳出版され、日本でも1890年、若松賤子の翻訳、「小公子」というタイトルで初めて紹介された。

原作出版から140年、その間映画化も数度におよび、映画だけでなくアニメなどさまざまな媒体でも広く取り上げられてきた。
日本では原作の新訳もいくつかある。

名作は時代を超え、国を超え、表現媒体をまたいで広がっていくものだと思う。感動は時空を超え伝播していくのだ。


*今回わたしがDVDにダビングした映画のキャスト等の一部をここに記しておきたい。
  セドリック:リッキー・シュローダー
  ドリンコート伯爵:アレック・ギネス
  エロル夫人:コニー・ブース
  監督:ジャック・ゴールド
  制作:ノーマン・ローズモント
  脚本:ブランチ・ハナリス
  音楽:アリン・ファーガソン
  原作:フランシス・ホジソン・バーネット
  制作年:1981年、イギリス

*わたしがビデオに最初に録画したのは1988(S63)年8月6日、NHK総合で放映されたもの。今から35年前。
*最初のビデオ録画のせいか、今回のDVDへのダビングのせいか、音声が日本語吹き替えのみになっていた。(冒頭画面ではBILINGUAL<二か国語>とあったのに)
これが唯一残念である。でも吹き替えの声優の方々はとても上手く、役柄にピッタリであった。


真夏、早朝の菜園作業

2023-08-24 | 随感・偶感・歳時感

今朝早く、菜園のひと畝を耕してきた。

早朝にもかかわらず、きょうも蒸し暑い暑さ。今年の夏はいったいどうなっているんだっ。(と怒ってもしょうがない)
いくら暑くても、畑の夏の収穫物の片づけと、秋の準備、畝の土作り、その季節その季節の毎日の地道な作業は、休みなく続けていかねばならないのだ。

きょう耕したこの畝は、イチゴが植わっていたところ。このあとは9月に入ったらレタスを植える予定。(今年、イチゴは失敗でした)

菜園は、すでにハクサイやカリフラワーなどの、秋野菜用のマルチを張り終えている。

わたしの耕作者としての作業スタイルは、例によって「がに股耕法」。(一般に通用する用語ではありません。わたしの体形からくる家族内用語。念のため)
足を大きく開き、腰をぐっと落として鍬を振り下ろすやり方。見た目にはカッコ悪いが、力も入れやすく、ギックリ腰も避けられそう。

「菜園作業には、夏休みや冬休みはないの?」
と菜園管理者の家内に聞くと、
「ない!」
とにべもない返事。
「冬は寒中耕起もあるし」
「・・・・・」

寒中耕起とは真冬に畝を深く掘り起こし、地中の土を冷たい寒風にさらす作業。
寒風にさらされた土は、夜に凍って日中の陽に当たると溶ける。これを繰り返すと土はやわらかさと通気性を増す。害虫の卵や病原菌の駆除もなる。

菜園には年中休みがない、といっても、われわれは結局素人菜園。野菜を育て出荷しているプロの農家さんは、ほんとうに大変だと思う。

ついでに言っておくと、にべもない返事をする家内は、熱中症予防にわたしが畑で飲む梅酢入りの水を、前日から作って、冷凍庫で凍らせておいてくれたり、首に巻く冷凍保冷剤を準備してくれたり、さまざま気を遣ってくれている。(と一応言っておこう)

菜園から汗だくで帰ってきて、家で浴びるシャワーはまた格別である。

 

 

 

   

菜園に行く途中の生垣にいる生垣だるま。剪定が終わってスッキリ、ハンサムになった。


生活即メモ

2023-08-23 | 随感・偶感・歳時感

古い雑誌を整理していて、「サライ」の1998年8月20日号の中に、画家杉本健吉氏へのインタビュー記事を見つけた。
25年も前の記事だが、読み返してみると、たいへん味わい深く、おもしろい。

 杉本健吉氏(1905-2004)は画家、挿絵画家。昭和25(1950)年から連載の吉川英治『新・平家物語』の挿絵を担当。名コンビとして知られた。このインタビュー時(1998年)は92歳。

この記事の中で、わたしがいちばんおもしろいと思ったのは、杉本氏が「生活即写生」と語っているところだ。
いつも、矢立て(携帯用の筆記用具)や短い鉛筆を、人差し指と中指の間にはさんで持ち歩き、風景、仏像をはじめ、見るものすべてをデッサン(写生)していたという。(戦後奈良に行っていたころか)

描くことを「理屈ではなく、手に覚えさせようとした」とも言っているから、杉本氏は日々の暮らしの中で、デッサンの修練を意図して生活習慣にしていたのだ。

生活即写生・・・この伝で言えば、わたしの場合は「生活即メモ」かもしれない、と思う。

いつも本ブログ用の記事のネタを探していて、思いつくとすぐにメモ用紙にメモしたり、外に出ていれば写真(これもメモのうち)に撮ったりしているからだ。

散歩のときなど、カメラ(スマホ)を小さなバッグ(ポシェット)にかならず入れて出る。半ば生活習慣化しているといってもいいだろう。

もちろん大家杉本健吉氏の絵の世界と、拙ブログは比ぶべくもないが・・。


暑さを和らげ、風を通してくれる

2023-07-28 | 随感・偶感・歳時感

一週間ほど前、2階の南西角の部屋に簾(すだれ)を掛けた。
南側の窓に一つ、西側の窓に一つ。

去年秋、家の外壁塗装をした際、古い簾を捨てて、そのままになっていたのだ。

 

 

     

この部屋の北側のすみっこに、わたしのささやかな書斎コーナーがある。

「ここが世界の中心です」
と紙に書いてあるのは建築家で社会事業家、ウイリアム・メレル・ヴォーリズ (1880-1964) の言葉。
わたしは昔この言葉を知って、 ‘自分の生きている今と、住んでいるこの場所をいちばん大切に’ という考え方であろうと理解し、ずっと大事にしてきた。

この書斎はまさに、わたしにとっての「世界の中心」なのだ。

 

 


   

ただ、この世界の中心は南西の角、盛夏には昼から夕方まで暑さが引かなない。
簾がどんなに有用なことか。

簾の効用は夏だけではない。春も秋も窓を開け網戸だけにしておけば、涼しい風を通してくれるし、外からの視線も遮ってくれる。

この春先から、簾を 「早く掛けよう早く掛けよう」 と思いつつ、時日を経、蒸し暑い梅雨に入ってしまった。
先日ようやく梅雨が明けて、そのタイミングで重い腰を上げたという次第。

 

 


    

この簾を窓枠に吊り下げるにあたっては、わたしが一つ工夫した点がある。

それは簾の下部を、窓の手すり(柵)にかたく結びつけてしまわないことだった。ヒモの長さにゆとりをもたせた。
風が吹いたとき、簾のすそがゆらゆらと揺れる幅をもたせるためだ。
簾の揺らぎは見ていても心地よいものだ、と思う。

そんなことから、わが書斎に名前を付けようと思いついた。
思いついたものをいくつかあげてみる。

 揺簾庵(ようれんあん)簾風庵(れんふうあん)涼風庵(すずかぜあん、りょうふうあん)
 揺蘆庵(ようろあん)風芦庵(ふうろあん)揺葦庵(よういあん)葦簀庵(よしずあん)など。

どれもイマイチである。何よりも、わたしの書斎ならではの意味付けがなされていない。

そんなことを考えているうちに、先日簾を吊るしているときに、簾にアブラゼミが留まったのを思い出した。

 

 

    

アブラゼミ(油蝉)をヒグラシ(蜩)に替え、

 蜩庵(ひぐらしあん)

とするのはどうであろうか。

わたしは一日のほとんどをここで過ごす。「日暮らし」「朝から晩まで」「ひねもす(終日)」「日がな一日」ここにいるといってもいい。退屈もしない。(昼寝はするが)

蜩庵、わたしにピッタリではないか。・・などと今考えている。


梅雨の晴れ間

2023-06-18 | 随感・偶感・歳時感

きのう、きょうと晴れて、梅雨の中休みだ。

「鬼の居ぬ間に命の洗濯」ということわざがあるが、「梅雨の晴れ間」にも命の洗濯をしようではないか。

「命の洗濯」とは、ことわざ辞典の決定版『故事俗信 ことわざ大辞典 第二版(北村孝一・監修 小学館)』には、
「平生の苦労から解放されて、寿命がのびるほど気ままに楽しむこと。」
とある。

辞典にあるからというわけではないが、人にはつねひごろ苦労や忙しさ、緊張があっても、一日の終わりには解放感を味わい、リラックスして気ままに過ごす時間が必要である。

上の写真はきのうの朝、わが家の庭に咲いたユリに、陽が当たり始めたところ。花にも陽の光は恵みである。


清らかな香り ザ・ピルグリム

2023-05-19 | 随感・偶感・歳時感

今朝早く雨戸を開けに庭に出ると、夜明けの澄んだ空気の中に、甘く清らかな香りが漂ってきた。

マイヤーレモンや温州みかんなど、柑橘類の花の先日までの強いにおいが終わったので、今漂ってくるとすればこの花の香りであろう。(上の写真)

「ザ・ピルグリム」という名前のバラだ。
わたしは鼻の利くほうではないが、近寄って嗅いでみるとやはりそのようである。

ピルグリムには「聖地巡礼者」という意味がある。

巡礼者には、宗教的理想を追い求める人というイメージがある。利欲に走らず、人々の幸せを祈り、みずからは道を修め、清らかな生き方をする人たちである。
ザ・ピルグリムというバラの命名には、そのような意味が込められているのであろうか。

宗教といえば 、「どんな御利益があるのか?」 にしか思いのいたらない俗人のわたしではあるが、せめてザ・ピルグリムの清らかな香りに浴したときくらいは、清らかな心を取りもどしたいものだ。

 

 

   

これはアナベルという名前のアジサイ。
花びらの一つ一つがだいぶ大きくなって、緑色が少し白っぽくなってきた。

あと何日かすれば、花の一かたまり全体がもっと大きくなって、次々に真っ白になる。
アナベルも、清廉潔白を絵に描いたような花だ。

きょうは昼前から雨になり、時折雨脚のつよくなる一日となった。気温がグッと下がり、きのうまでの暑さがウソのよう。

雨はあすの朝まで続き、あとは晴れる予報。今の時季の「適度な」雨は、花にとっても野菜にとっても恵みの雨となる。
何事も適度がいい。


2023わたしの今年の漢字は「静」

2023-01-26 | 随感・偶感・歳時感

年の初めに当たっての一年の心構えや目標を、漢字一字で表す「わたしの今年の漢字」、今年は「静」(せい、しずか)にしようと思う。

静思の静、「静かな時間を持つ」の静かである。

「学はすべからく静(せい)なるべし」ということわざがある。
ことわざ辞典の決定版『故事俗信 ことわざ大辞典 第二版(北村孝一・監修 小学館)の解説を見ると、
「学問は心を落ち着けて集中しなければ進歩しない。」
とある。

また、「急ぎの文(ふみ)は静かに書け」ということわざもある。
これも同辞典では、 
「急ぎの手紙ほど大事な用件が多いので、書き誤りや書き落としのないように慎重に書け。急ぐ文は練って書け。」
と解説している。

いずれも心静かに、集中して取り組まなければ、何事も考えを深め、成果を上げることはできないということであろう。

実際わたし自身、いらいらして物事が手につかないときや、本ブログを書くときなども考えのまとまらないことが少なくない。(しょっちゅうである)

今年は、そんなときには意識して静思の時間を持ち、集中力を高めていけるよう心がけていきたい。

*上の写真はわが家の庭に咲いた花。名前が分かりません。


一陽来復

2022-12-22 | 随感・偶感・歳時感

きょうは冬至。二十四節気の一つ。

「北半球では夜が最も長く、昼が最も短くなる」日であり、「この日、ゆず湯に入り、カボチャを食べる風習がある」
と明鏡国語辞典に説明がある。

神宮館家庭暦には、冬至の説明の中に「この日を境に日脚が徐々に伸びていく」として「一陽来復」という言葉を紹介している。
この ‘一陽来復’ をデジタル大辞泉で調べると、冬至の説明のほかに、
「冬が去り春が来ること。新年が来ること。悪いことが続いたあと、ようやく物事がよい方向に向かうこと」
とある。

「一陽来復」・・いい言葉ですね。
コロナ禍も早く去って、世の中、ぜひとも良い方向に向かってほしいものです。

また、明鏡国語辞典には、一陽来復を「縁起をかついで『一陽来福』とも」表記するとあった。(復を福に替える)

縁起をかつぐといえば、カボチャやゆず湯も、縁起をかついで(福を願って)のことといえるであろう。


わが家では一日早く、きのうカボチャを食べた。(アズキとの煮物<上の写真>

 

 



     

ゆず湯にはおととい入った。

カボチャもゆず湯も、いちにち二日ズレたからといって、「福」が逃げていくことはないであろう。


抑えた声とシックな装い

2022-11-21 | 随感・偶感・歳時感

NHK・BS1の番組「ワールドニュース」を、ときどき見ている。

世界各国の放送局のその日その日のニュースを、順次紹介している番組である。

見ていると、ときに日本のテレビでは得られない視点があったりして、なかなかおもしろい。

例えばプラスチックごみによる海洋汚染の深刻さを、わたしが初めて知ったのは、この番組である。
海洋汚染が日本ではまだ、あまり話題になっていなかった数年前から、複数の国の放送局がとり上げていた。


それはともかく、きょうの当ブログの話題は、この「ワールドニュース」に登場する各国放送局のニュースキャスターについてである。

実は、わたしが気になるニュースキャスターが、二人いるのだ。

一人はイギリスBBCのフィオナ・ブルース氏。もう一人はフランスF2のアンヌ=ソフィ・ラピ氏。







   
   

上がBBCフィオナ・ブルース氏、下がF2アンヌ=ソフィ・ラピ氏だ。(いずれもNHK・BS1「ワールドニュース」より)


二人とも女性であるが、女性だから着目しているわけではない。
フィオナ・ブルース氏はその「声」に、アンヌ=ソフィ・ラピ氏はその「装い」に、大いに魅力を感じている。

フィオナ・ブルース氏の声は、低く抑制の効いた落ち着いた声である。それでいて発音が明瞭で聴き取りやすい。

イギリスのテレビドラマ「ダウントンアビー」などを見ていると、100年ほど前のイギリス上流階級の食事風景がよく出てくる。

食事の場では貴族のたしなみとして、和やかに抑えた声でユーモアを交えながら会話を楽しむ。
ときに話し手が、古典からの有名なフレーズを引用したり、気の利いた警句をまじえたり、さりげなく会話に知性と教養をにじませる。

そんな場に、このフィオナ・ブルース氏の声はぴったりだな、と思わせてくれる。


一方、アンヌ=ソフィ・ラピ氏の装いは、一言でいうとシンプルでシック、それでいて上品である。

例えば、紺系のジャケットに落ち着いた柄のシャツを合わせ、余計な飾りをほとんど付けない。
時折シャツのやや開いた胸に、ほとんど目立たない小さなネックレスを覗かせることもある。(おそらくプラチナの細い鎖に小さいダイヤモンド)

この控えめなお洒落はフランス流の「粋」かもしれないし、「ほんとうのお洒落は余計な飾りを削ぎ落としたところにある」とでも主張しているかに見えるアンヌ=ソフィ・ラピ氏の ‘お洒落哲学’ かもしれない。

「抑えた声」と「シックな装い」・・これは言葉を替えれば、どちらも「洗練の極み」であると思う。わたし自身が目指したい世界でもある。


ところで少し話題が変わるが、この2月にロシア・ウクライナの戦争が始まってからしばらくして、このNHK・BS1ワールドニュースの朝6時台放送分から「ロシア国営テレビ」のニュース枠がなくなってしまった。

ロシアとウクライナの紛争については、さまざまな見方・考え方があって当然だが、ロシア国内でこの戦争がどう報道されているのかは気になるところだ。

NHKのワールドニュースは、ぜひこのロシア国営テレビ枠を復活させ、これまで通り流してほしい。
長年放送してきたコーナーではないか。

より広い視点からの価値観の異なる情報は、視聴者の状況判断に益することがあっても害となることはないはずだ。

ロシア国営テレビ枠の復活を、NHKに強く要望したい。


垢ぬけした着こなし

2022-10-11 | 随感・偶感・歳時感

わが家の庭に咲いた秋明菊。

写真ではかなり赤っぽく写ってしまったが、実際の花はもう少しくすんだ薄紫色。
「大辞泉」では淡紅紫色と表現している。

人にたとえれば、可愛らしさだけでなく内面の深みを加えた女性、はなやかな服でなくとも粋な着こなしのできる人、といったところか。

わたしは地味な服しか持っていないが、せめて姿勢をただし、垢ぬけした着こなしをしたいな。

先週末からぐっと冷え込んできて、もはや晩秋の趣きである。


人に自分を美しく見せる極意

2022-08-19 | 随感・偶感・歳時感

                       *わが家の庭に咲いたシレネ・カロニアーナ。本記事と関係ありません。


先頃、服飾デザイナーの森英恵さんがお亡くなりになった。

森英恵さんと聞いて、わたしが思い起こすのは、

「腰で歩く」

という言葉である。
むかし、とあるテレビ番組でご本人が語っておられた。

たしか、「いつもお若く見えますが、若さの秘訣は何ですか?」というような質問に答えての言葉だった、と記憶している。

腰で歩くとは、「腰を立てて背筋をスッと伸ばして歩く」という意味であろう。

いま考えるにこれは、本人の個人的な日々の心掛けというより、多くのファッションモデルを見てきたプロのデザイナーの、「人に自分を美しく見せる極意」の開示だったのではなかろうか、と思う。


 

 


      

わたしは本や人との出会いなどで知った教えや、心に残った言葉を集め、とくに気に入ったものをカードに書き、自分のための手製 ‘日めくりカレンダー’ を作っている。この「腰で歩く」はそのうちの一つである。(上の写真)

ただわたしの場合、これを見たその瞬間はスッと背筋を正しても、ほかのことを始めるとすぐに忘れてしまう。


若くて才能のある人たち

2022-08-05 | 随感・偶感・歳時感

先日8月2日、ヤクルトの村上宗隆選手が、「5打席連続本塁打」を放ったのには驚かされた。

日本プロ野球公式戦87年という長い歴史のなかで、なんとこれは新記録とのこと。
(これまでの最多連続打席本塁打記録は4打席)

 

 

 

    

わたしが驚いたのはこの大記録だけではない。村上選手の22歳というその若さに対しても、である。

王の記録もバースの記録も、この若さで、力まずに難なく超えてしまった(ように見える)

しかも、村上選手の試合後のインタビューを聞くと、素直に喜びを表しながら、「ちょっとねらっていましたけど」と、正直な、巧まざるユーモアも交えていた。
いくぶん子どもっぽさの残るそのリラックスした表情に、わたしはいっぺんで村上ファンになってしまった。

話題は少しそれるが、今朝のNHK「おはよう日本」の「おはBiz」のコーナーで、「災害後の保険金申請につけこむ悪質な仲介業者」がいることをとり上げていた。

契約者(被災者)と保険会社の間に入って保険金申請の仲介をする業者の中に、契約者には高額な手数料を要求する一方、保険会社には過大な額の虚偽の申請をする悪質業者がいるという話題であった。

この中でトラブル発生時、その事案の弁護を請負った経験のある弁護士が、契約者の注意すべき点を語っていた。弁護士の造力宣彦という人である。

わたしは造力氏の話を聞いて、その明快でムダのない話しぶりに惹かれるとともに、この人の若さにも驚いた。
わたしの見たところ、まだ大学生くらいにしか見えない。

将棋の藤井聡太5冠や、大リーグ・エンゼルスの大谷祥平選手の例を引くまでもなく、どんな分野にも、有名無名を問わず、若くて才能を持った人はいるものだ。(もちろん本人の努力もあることは間違いないが)

若くもなく才能もないわたしのやることは、こういった人々への応援しかないではないか。

テレビで大谷選手の出るエンゼルスの試合中継は時折見ても、日本のプロ野球中継はここ何年も見たことがなかったわたしではあるが、これからは村上宗隆選手のいるヤクルトの試合は見なければ、とも思っている。

*写真は東京新聞(2022年8月3日)から