尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

木下恵介の「日本の悲劇」

2013年06月03日 21時41分43秒 |  〃  (旧作日本映画)
 木下恵介監督の1953年松竹映画「日本の悲劇」。ベストテン6位。この年は異常な当たり年で小津の「東京物語」が2位、溝口の「雨月物語」が3位だった。どちらも世界映画ベスト50に選ばれた映画である。翌年の「二十四の瞳」以後、木下作品は判りやすくて泣ける感動路線が多くなる。しかし、52年の「カルメン純情す」や53年の「日本の悲劇」は、木下作品の中でも異例なほど社会批判が強い。特にこの「日本の悲劇」はある家族の解体を通して、日本社会を冷徹に見つめている。風刺というレベルをはるかに超え、生きていくのが嫌になるほどだ。実際に望月優子演じる母親はラストで死を選ぶ。
(写真の右が望月優子)
 父親は空襲で死に、母親が娘と息子を育てている。母親は熱海で女中をして、娘は小田原で洋裁と英語を習い、息子は東京の大学へ行っている。母親を演じるのは望月優子で、そういう役柄が多かった。子ども思いながらも、うっとうしい親をうまく演じている。「日本のお母さん」という役柄が定着し、後に社会党から参議院議員になった。突然働かざるを得ない女は、闇屋か水商売しかない。闇屋をやっては捕まり、子どもはそれをバカにされ母親が恥かしい。

 その後、熱海に行って働き、いつも酒の匂いをさせている。結構男に言い寄られている。子どもからすると、すべて子どもための苦労だと言われると、ありがたいとは思いつつ、恩着せがましい母親がうっとうしい。息子は闇屋の母をバカにされたのに反発して勉強に励み、東京で医学部に行っている。子供のいない医者に養子に来てくれと言われ、本人もそのつもりで移り住んで「お父さん」と呼んでいる。母親は捨てられたのである。

 一方、娘は美人に育ち(桂木洋子。SKD出身で、作曲家の黛敏郎夫人)、母は良縁を探すがなかなか見つからない。母がふしだらな女中では嫁の口があるわけないと、娘は自覚している。母親だけがそれを判ってない。英語教室で教師の上原謙に言い寄られ迷惑に思うが、教師の妻に一方的に誹謗され反発する。母親は客の口車に乗って株で損して娘の貯金を充てにするが、娘は英語教師に誘われ岡山に夜逃げする。母親は東京の息子に相談に行くが相手にされず、絶望してしまう。

 主要登場人物も、脇役的な人物(英語教師の妻、土地を貸している親戚、母親が勤めている店の客や同輩など)も皆感情移入できない人物ばかりで、「名もなき庶民の美しい心」など微塵もない。現実の日本の中にいる、小心でカネとイロにしか関心がない貧しい庶民ばかり。これが現実であり、主人公ならずとも生きているのが嫌になる。「二十四の瞳」は確かに悲しいが、皆善き人ばかりで、我々も頑張って生きて行こうとポジティブな気持ちが最後に残る。「日本の悲劇」には善き人がいない。あるいは皆少しは善き人で、厳しい現実を生き抜く中でゆとりを失っている。それが現実だろうが、ヒットする映画にはならない。誰しも自分の醜い姿を見せつけられるような映画は見たくない。だから、この映画は大変な傑作にもかかわらず、木下映画の中でも上映の機会が少なく、あまり知られているとは言えない。
(木下恵介監督)
 当時のニュース映画がたくさん挿入され、この映画が「時代の証言」として作られたことを示す。貧しさゆえに助け合うのではなく、貧しさゆえにいがみ合う人々。このような映画が当時作られていたということはもっと知られていい。「二十四の瞳」の感動の裏に、このような日本の貧しい現実があったことを。監督は怒りつつも、佐田啓二演じる流しの演歌歌手がうたう「湯の町エレジー」を母親に捧げさせている。母親が親切な人間だったことをよく知っていたのだ。それは子どもに判らない。母親をすべて背負っては子どもはやっていけない。解決法のないまま悲劇に至る姿を映画は静かに見つめる。

 伊豆は東京の奥座敷だから、「伊豆の踊子」以来、実にたくさんの映画に登場する。この映画では熱海のロケがある。また母親が列車に飛び込むシーンは湯河原駅。温泉は出てこないが、同年の「東京物語」にもあるように熱海が宴会旅行のメッカだった時代の映画である。近江俊郎が歌い大ヒットした古賀メロディ「湯の町エレジー」がテーマ曲のように流れている。この歌も映画化されているが、東海道新幹線ができるまでは伊豆と言えども結構東京から遠い。そういう時代の映画である。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「二十四の瞳」を今見直すこと

2013年06月03日 20時06分42秒 |  〃  (旧作日本映画)
 壺井栄原作「二十四の瞳」(1952)を、松竹で木下恵介監督が映画化(1954)した。その年のベストワンであるのみならず、戦後日本のもっとも有名な映画であり、日本の戦争映画の代表作となった。僕の世代だと木下版の映画は映画マニア以外はあまり見ていないと思うけど、話は有名だから知ってるだろう。1987年に朝間義隆監督でリメイクされ、また何度もテレビ化されている。僕は数十年前に見て以来2度目で、デジタル・リマスター版(2007年)は初めて見た。デジタル・リマスター版の美しさは非常に優れたもので、古い映画を補修していく重要性を強く感じた。

 多分1978年頃にフィルムセンターで木下恵介特集があり、ベストテン級の作品は大体見た。その時は「運命に流されていく」主人公を美しく描きあげる後期の作品群に違和感が強く、「二十四の瞳」も名作だけども不満が多かった。僕は日本の近現代史専攻で、当時盛んだった民衆史の影響を強く受けていた。闘わずに泣いているばかりの「泣きみそ先生」でいいのか、戦死した教え子の慰霊をして泣くだけでいいのか。「美しい風景の中で詠嘆する」映画を作っていていいのか。そういう「センチメンタルな反戦」で、戦争を真に批判できるのだろうか。

 同じ年に木下監督は「女の園」を作っている。これは京都の古い女子大の学園紛争を描いて、ベストテン2位になった。3位が「七人の侍」、4位が山村聡「黒い潮」、5位が溝口「近松物語」。こうしてみると他は「闘う物語」だが、「二十四の瞳」が一番闘わない感じがする。その頃の歴史学では「民衆の戦争責任」や「銃後の女の戦争責任」も問題視されていた。「二十四の瞳」では戦争が自然災害みたいに、自然に起こり自然に終わる感じだ。戦争は国策で起こり、国策で終わったものであるにもかかわらず、映画の中ではどこからかやってくる災いのような感じで描かれている。

 今回見直したら映画の印象がかなり違った。センチメンタルなのは確かだが、何という上品なセンチメンタリズムだろうか。涙で売ろうというような安直な描写は全くない。遠くから見つめているようなロングショットが意外なほど多い。周りでも泣いている人は多いようだったが、あまりにも過酷な生徒の人生そのものが自然と涙を誘うのである。同時代の人間が皆泣いたのは当然だろう。主人公の大石先生も、単に「泣いている先生」ではなかったように思える。

 作文を使って授業をして、校長からくれぐれも注意するように言われる。1928年(昭和3年)に始まり、その年入学した1年生が卒業するとともに学校を辞めた。武張った時代に教室の自由も失われ、生徒も軍人志望が多くなる時勢にやる気を失ったのである。同時に長男を身ごもっていて、育休どころか産休もない時代だから、妊娠をきっかけに家庭に入って三人の子を産んだ。国策(「産めよ殖やせよ」)に協力したとも言えるが、反面では「戦時教育に抵抗して辞職した」という一面もある。だから戦争が終わると教壇に復帰するのである。大石先生は「国民学校」時代には教壇にはいなかったのだ。

 大石先生は確かによく泣いた。感激するとすぐ泣く。自分の子どもから、戦死すれば「靖国の母」になれると言われ、そんなものになりたくないと言う。「意気地なし」と言われると「意気地なしで結構」と言い放つ。この「意気地なしの美学」のようなものが全篇を覆っている。軍事優先時代に、あくまでも「子供の気持ちに寄り添おうとした」のが大石先生だった。戦死は嫌だ、夫や子供が死ぬのは嫌だ、嫌なものを嫌だと言えないのも嫌だ。これは反戦の原点である。だから二度と戦争は嫌だという気持ちはある時点までの日本国民には言わずとも共有されていた。そういう国民的記憶が忘れられつつある現代では、この「二十四の瞳」から再出発する必要があるのではないか。

 二十四の瞳だから12人。男5人のうち、戦死3人、一人は戦傷者で盲目である。女7人のうち、一人は結核で死亡、一人は村を捨て行方不明。結局大石先生が教壇に復帰した時に集まった元生徒は7人に過ぎない。なんという凄まじい犠牲だろう。戦争、貧困、病気が皆を苦しめていた時代だった。こういう「近過去」を永遠に忘れずに語り継ぐという意味で、この映画や原作の価値は今もゆるぎない。でも女には参政権も与えられていなかった時代の話である。今は泣いているだけでは済まない。声を挙げるべき時に声を挙げるのは、国民の権利であり義務である。

 この映画で忘れていたこと。岬の分教場で大石先生が教えたのはたった半年だった。ずっと教えたように思い込んでいた。男先生は笠智衆で、歌ったりしている。これも忘れていた。大石先生の夫役は天本英世で、後に岡本喜八映画で怪演する印象が強いが、この役は忘れていた。教師の最大の仕事は子どもを十分にいつくしむことだという、教育の原点を知らしめるような映画だ。今も生命力があるというのはスタッフ、キャストの力であるが、今の教育が忘れているものとも言える。とりあえず、今は戦争で死ぬ生徒はいない。これが戦後の最低の達成点であり、それは大きな成果である。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「犬の伊勢参り」という出来事

2013年06月01日 00時05分05秒 |  〃 (歴史・地理)
 平凡社新書「犬の伊勢参り」(仁科邦男著)という本は書評で見て買った。出てるのは知ってたけど、動物不思議物語みたいな本だと思って、本格的な歴史の本だと思わなかった。でもこの本は、江戸時代を中心に昔の文献を丹念にあたった「研究書」である。結構原史料が載っていて一般的に読みやすい本ではないが、とても面白い中味なので紹介しておく次第。

 一言で言えば、江戸時代には犬が伊勢神宮にお参りし、住む村に帰ってきたという「奇譚」がいっぱいあったという話である。ちゃんと村人の方で「代参」として送り出し、神宮では「伏せ」をして「礼拝」してお札を貰って帰ってくる。そんなバカな…と思うだろうが、史料がいっぱい残っていて実証可能なのである。それどころか、「豚の伊勢参り」まであった。ここまで来ると、宣伝か物語と思うのが「近代人」というものだ。だから司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で、そんなことがあるわけないから「伊勢神宮の御師」(参詣人の世話や祈祷などを行う下級の神官)の創作した「伝説」だと決めつけているという。

 もちろん、今、愛犬を道に放しても伊勢神宮に向かって歩き出したりしない。まあ駅くらいなら付いてくるかもしれないが。人間はみんな交通機関で移動してしまって犬は乗せてもらえない。江戸時代は皆歩いていた。歩いて伊勢神宮まで行った。「おかげ参り」と言って、突然ものすごい数の人間が伊勢神宮にお参りする事もあった。式年遷宮が20年ごとにあるから、その度に日本中で伊勢参りがある。60年くらいすると行ってない人が増えるから、大挙して仕事を抜け出して押しかける珍事が何回か起こった。400万人くらいが一度に押し掛けたという。そんなにたくさんの人が歩いて伊勢神宮に向かっていれば、中には付いて行ってしまう犬がいる方がむしろ自然ではないか。
(伊勢参りする犬)
 犬は今は「」に帰属している。鎖につながれているか、それとも室内で歩けるかは違うが、散歩以外は家から出られない。人を咬む犬もいるから勝手に歩かれても困る。犬の方も飼い主に懐いていても、伊勢神宮までは行きたくもないだろう。でも昔は違った。ある程度昔の人は憶えているだろうけど、昔は「野良犬」がたくさんいた。たった50年くらい前のことだけど、もう皆忘れかけている。そして、江戸時代には「野良犬」がいなかった。「野良犬という概念」がないという意味である。

 犬はそもそも鎖でつないで飼うものではなかった。村共同体で飼うものだったのである。そういう犬を指す言葉がちゃんとあり、「里犬」と言ったらしい。この言葉は戦国時代に日本に来た宣教師が作った「日葡辞書」に載ってるという。愛玩もするだろうけど、基本は「村共同体の番犬」である。隣村の境界まで行くと縄張りから外れるが、暮らしている村に見知らぬ人が来ると吠え立てるわけである。例外的に狩猟用の犬などは猟師との結びつきが強いから、そういう犬は「伊勢参り」はしない。

 犬は村全体で放し飼いされていたわけで、それが基本的な飼い方。人を怖がる犬もいるけど、誰にでも懐くような犬もいる。伊勢参りをする人に付いて行ってしまう犬がいても当然だろう。人々は「伊勢参りの犬」と認識したので、お札を付けてあげたり、村ごとの送り状まで作ったり、お賽銭を首に付けてあげたりするようになる。道中の宿場では、そういう犬が来ると首の賽銭から銭を少し取ってエサをあげて、寝る場所を世話したりする。誰もそのお金を取る人もいなかった。そういう時代だったのである。

 犬は人を見て行動する。神宮はこっちだよ、船に乗らないと川渡れないよとサジェスチョンすると、尻尾を振ってその通りにしたわけだろう。神宮について伏せをしたら、「参拝している」と人間が解釈する。エライエライとなり帰り道も指示してくれる。それで村まで帰ってきた犬が何匹もいたという話である。豚の話はもっと面白い。そもそも広島では犬はいなくて、豚が放し飼いだったという。ゴミ残飯を食べてくれたから有難かったのである。なんで豚がいたのか。西日本では、朝鮮通信使の接待のため豚の飼育が命じられていて、そこから豚が歩き回る状況があったのである。

 伊勢神宮自体は、犬に限らず穢れのある畜生の入域は禁じられていた。でも、犬はフェンスがなければどこからでも入ってくる。死んでしまえば「死穢」が発生する。それを避けるためどんな苦闘を繰り返したか。「神宮と犬、千年の葛藤」の章に詳しい。もともと平安時代の初期までは天皇でも鷹狩りをしていた。一番詳しい鷹狩りの書物は嵯峨天皇に時代に作られた。鷹狩りは武家時代の将軍の好みと思い込んでいたのでビックリ。やがて朝廷を細かい「穢れ」の決まりが覆い尽くし、天皇の清浄視、幼少天皇の時代となる。この「穢れ」感は日本の差別と密接な関わりがある。幼少天皇=藤原氏の実権確立と理解されているが、動物との関わりという視角から「天皇の清浄さ」が要請された経緯もあったかもしれない。犬の話から、王権論、差別論までつながっていたのである。

 犬のあり方は近代で変わる。外国人の持ち込んだ西洋犬は、家ごとに飼われしつけをされていた。攘夷の武士に襲われると飼い主を守る。そういう犬を「カメ」と日本人は呼んだ。語源は「come here」だそうだ。「来い」と言われたら、ちゃんと飼い主のところに来る犬が新鮮に見えたのだ。こうして「犬の文明開化」が始まる。犬は村共同体で飼うものから、だんだん個々の家で飼うものになっていった。

 人間はほんのちょっと前のことも忘れてしまう。特に高度成長、電化で暮らしは大きく変わった。半世紀前頃まで、冷蔵庫や洗濯機もない時代だったのに、その時代にどうやって暮らしていたのか。そういう時代には、チワワやトイ・プードルを飼ってる人はいなくて、柴犬系の雑種みたいな犬があちこちウロウロしていたのである。電車や自動車がある時代には犬も勝手に出歩くことは出来ない。伊勢参りをした犬がいたなどと聞くと、変な話、おかしな話、信じられない話と思い込む。本書にもあるが、これは「計算ができる象ハンス」というドイツの話と同じである。犬に信仰心があるわけがない。でも人間に懐く犬を、誰かが世話してあげれば「代参」くらいしてしまうのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする