尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

宮部みゆき「希望荘」、3・11前後の日々

2019年06月22日 22時11分38秒 | 〃 (ミステリー)
 宮部みゆき(1960~)の「杉村三郎シリーズ」第4作「希望荘」。2016年6月に刊行されて、2018年11月に文春文庫に収録された。このシリーズは数多い宮部作品の中でも一番好きなんだけど、文庫を半年も放っておいた。面白いのは判っているけど、ミステリーに気が向かない時もある。読み始めて、圧倒的な「読みやすさ」(リーダビリティ)に改めて感銘を受けた。とにかく面白くて判りやすくて、奥が深い。世代的にも出身地的にも、感覚に合うんだろうけれど。(宮部みゆきは東京都江東区出身で、深川四中、墨田川高校を卒業している。東京東部が舞台の小説も多い。))

 「杉村三郎シリーズ」は今までに5冊書かれている。「誰かSomebody」(2003)、「名もなき毒」(2006)、「ペテロの葬列」(2013)、「希望荘」(2016)、「昨日がなければ明日もない」(2018)である。杉村は児童書の編集者だったが、映画館で痴漢から救った女性と付き合うようになる。それがたまたま財閥の今多コンツェルンの庶出の娘だった。その病弱な女性を愛し、周りには「逆玉」と揶揄されながらも結婚を決意する。義父の条件は、出版社をやめてコンツェルンの社内雑誌の編集を担当するというものだった。こうして社内外の様々な問題にぶつかる中で、謎と向き合ってきたわけである。

 僕は第2作「名もなき毒」に非常に感心し、このように現代を描き続けてゆくのかと思った。そうしたら「ペテロの葬列」では、単なる犯罪の観察者に止まらず、バスジャックの被害者となった。そして様々あって、コンツェルンを退社し妻とも離婚するに至る。いやあ、そんなことがあるのかと、僕も他人事ながら(というか、架空人物だから他人ですらないけど)、杉村の今後を心配していた。

 「希望荘」を読むと、杉村は一人になって、一時は故郷の山梨県に帰った。産直グループで働くうちに、東京の大手探偵社の所長と知り合い、結局東京に戻って「杉村探偵事務所」を開いた。場所は東京都北区の北部である。もっとも仕事の大半は、その大手の「オフィス蛎殻」の下請けである。嬉しいことに昔会社の近くにあった喫茶店「睡蓮」のマスターも近くで「侘助」という店を始めた。(ホットサンドが名物。)事務所は古い家で、情味あふれる地元の土地持ちが大家。そういう新しいつながりも出来る。

 そういう地元つながりで最初の依頼が来る。「死んで引き払ったはずの店子を上野で見た」という「事件」とも言えないような調査依頼。そこから思いがけなく見えてくる現代人の孤独が「聖域」で描かれる。続く「希望荘」では、最近介護施設で死んだ父が死ぬ前に昔殺人事件に関わったかのような「告白」(とまでも言えないような思い出話)をした。その真相を確かめて欲しいという依頼である。この作品は、非常に奥が深い。1975年の事件を今追うと、もう東京も全然変わっている。人間の心のひだを心静かに見つめる著者の手さばきに感銘する。「死んだ老人の孫」という新キャラクターも趣深い。

 第3作の「砂男」は山梨に帰っていた時期の物語で、杉村の実家の様子が初めてよく判る。産直グループで働いていて、人気のそば・ほうとうの店に届けたら留守だった。家まで行くと、なんと仲よさそうに見えた夫が行方不明だという。妻の昔の友人と不倫して家出したかもという話なんだけど…。この話を追うごとに裏には裏があり、思わぬ真相に見えてくる人間の闇に驚き。そして最後の「二重身ドッペルゲンガー」では、2011年3月11日のまさにその日が描かれる。杉村シリーズの前作「ペテロの葬列」は2010年から地方紙に連載されたから、当然「3・11」前を描く。「希望荘」は時間的には「東日本大震災」をはさんだ時期になっている。震災当日の記述も出てくる。

 震災で行方不明になったらしい雑貨店の店主。その行方を捜すといっても…と思っていたら、ここでも思わぬ展開が。大津波の映像、原発事故への心配など、当時の東京で普通に生きている人々をリアルに描いている。誰もが思い出すだろう、あの時期を後世に残す「震災後文学」でもある。そしてこの作品でも「人間を見る目」に恐れ入る。初期作品は暖かな後味が印象的だったが、宮部作品も次第にビターになってきた。人間には他人にのぞき込めない深い闇もあるということだろうか。それとも日本社会の変容が反映されているのか。

 松本清張作品は、書かれていた当時はただの娯楽読み物のように扱われていた。しかし、今では「松本清張作品に見る昭和30年代の日本社会」なんてテーマは、日本文学だけじゃなく歴史学や社会学の卒業論文として全然おかしくない。そして、100年後の人々が20世紀から21世紀の日本社会を知ろうと思ったら、宮部みゆきの「火車」「理由」「模倣犯」などを読むだろう。論文もいっぱい書かれるだろうと思う。そんな中でも一番中心的に論じられるのは、杉村三郎シリーズだと思う。特に「3・11」を扱うこの「希望荘」は重要だ。普段ミステリーを読まない人も是非読んでみて欲しい。
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