尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「きみはいい子」、原作と映画

2015年07月14日 00時06分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 中脇初枝原作「きみはいい子」(坪田譲治文学賞受賞)が映画化されて公開中。呉美保(オ・ミポ)監督の新作で、非常に面白く感動的な映画になっている。原作と映画のどっちがいいかは決めがたいが、ほぼ設定は同じながら細部で多少変えている。というか、原作は5つの短編で構成されているが、映画はそのうちの3つをうまく組み合わせて同時進行する物語になっている。これがとてもうまく出来ていて、感心した。しかし、原作も素晴らしくて、映画を見た人も、まだ見ていない人も是非読んで欲しい。とても心揺さぶられる作品で、ポプラ文庫(660円)。読めば誰かに薦めたくなる小説である。
 
 映画のプログラムに原作者の中脇初枝が文章を寄せている。その最後の部分を引用したい。
 「今日もきっと、どこかで泣いているこどもがいます。
  でも、わたしたちは無力ではありません。
  世界を救うことはできなくても、まわりのだれかを救うことは、きっと、だれにでもできると思うのです。
  観終わった後、そう信じられる映画です。
  映画にしていただいたことで、たくさんの方にそう思ってもらって、今度は、観てくださったあなたが、あなたの暮らす町の主人公になってくださることを、心から願っています。」

 もうこれで書きたいことは尽きているようなものなんだけど、原作者にこう言ってもらえるだけの出来になっている。映画「きみはいい子」は、まず小学校の先生、若い岡野(高良健吾)が老女の家に謝りに行く場面から始まる。小学生がピンポンとチャイムを押してまわったのである。これは原作では「小学校1年生のいたずら」だから、きっとそういうことかと思ったら、岡野先生は4年生の担任になっていた。これは原作では2年目の話で、新採1年目は1年の担任で、学級崩壊させてしまった。1年生の話では映画化が難しいだろうと思っていたら、4年の話に絞ってエピソードも混合している。岡野先生は善人そうだけど、指導力はあまりなく、いかにも最近の若い者が先生になってしまったという感じ。原作でも同じだけど、その雰囲気を高良健吾がうまく出している。

 そうやって学校の話が進むかと思うと、マンションに住む母親雅美(尾野真知子)がわが子に強く当たっているエピソードに変わる。たたいているから、これはもう虐待である。夫はタイに単身赴任中。一人でマンションで育児をしているが、他のママたちとの関係もうまくいってない。子どもがしくじると、許せない思いが強くなってしまう。ここは実際にたたくわけにも行かないから、どうするんだろうと思うと、後姿をじっくり映している。プログラムの尾野真知子の話だと自分の腕をたたいていた由。内面描写をできる原作のほうが判りやすいと思うが、公園での親子のようすなど映画で伝わることも多い。

 そこにもう一つ、老女と発達障害を持つ少年のエピソードが出てくる。この老女は冒頭部分で岡野先生が謝罪に来た時の人である。少し認知症ぎみかなという感じで、夫も亡くなり子どもはなく一人暮らし。戦時中に戦地向けのキャラメル作りに動員させられていたが、持ち出すこともできたのに自分はルールを守って持ち出さなかった。でも弟は疎開から戻ってすぐに死んだ。キャラメルを食べさせてあげればよかったと思っている。毎日登下校中に挨拶する少年と親しくなる。ある日鍵をなくしたと言って、ウロウロしている少年の面倒を見て、その母親と知り合う。その母は、近所のスーパーで老女を万引きかと見ていた店員だった。

 岡野先生のクラスには問題も多い。先生もだんだん疲れてくる。実家に戻ってきた姉の子どもが抱きしめてくれて、元気をもらう。そこから「誰かに抱きしめてもらうこと」という「難しい宿題」を出す。それは原作と同じだが、宿題を出すきっかけは映画の方がよく出来ていると思う。子どもたちの反応はぜひ映画で。一方、ママたちの出来事でも、同じマンションの陽子(池脇千鶴)の部屋で遊んでいた時に、雅美が切れかかり陽子に抱きとめられる。そして、老女は少年の母親を抱擁する。こうして、「近くにいる誰かを抱きしめる」ということの深い深い意味を感動的に伝えるんだけど…。そこで岡野先生は気付く。自分のクラスに今日欠席していた子どもがいる。その児童は母子家庭のはずが、母の愛人が家にて5時までは家から出ていろと言って、子どもは土日も雨の日も校庭でじっと時間が経つのを待っている。この子は誰にも抱きしめられることがなかったのかもしれない。先生は走る。走って走って、その子の家について…というところで映画は終わり。

 つい話を書いてしまったんだけど、これは本や映画で直接見てもらった方がずっといい。桜ヶ丘小学校という場所は、原作では横浜が舞台になっている。映画では北海道の小樽市がロケ地になっていて、検索すると天神小学校という学校がロケ地だという。丘の上の学校という原作の情景が、小樽に移って非常にうまく映像化されていると思う。学年主任の女性教師も出てきて、かなり考えられている脚本である。ストーリイばかり語ってしまったけれど、そういう筋書きを呉美保は、遠ざかったり近づいたりしながら巧みに演出し、自然な感じを出している。どの話も子どもが出てくるから、いかに自然な感じで演出できるかが勝負だが、ほとんどドキュメントみたいに見ることができる。そして大切ないくつかのシーンでは、後姿をじっくり捉えている。この映画ほど後姿が記憶に残る映画も珍しい。

 呉美保(1977~)は2014年の「そこのみにて光輝く」が映画賞独占の好評を得た。僕はそこまでいいのかなあと思わないでもなかったのだが。だけど、今回原作を先に読んでから見たら、これだけ子どもの演出ができる才能に感嘆した。監督は5月29日に男児を出産したばかり。お涙頂戴的な感動押し付け映画ではなく、じっくり人間を見つめて感動を作り出す。撮影(月永雄太)や編集(木村悦子)、音楽(田中拓人)も素晴らしいが、特に脚本の高田亮は特筆。「そこのみにて光輝く」でキネマ旬報脚本賞。「さよなら渓谷」などを書いている。

 ところで、原作の中脇初枝(1974~)は、1992年、高知県中村高校在学中に「魚のように」という作品で坊ちゃん小説賞を得たという作家である。今回までほとんど知らなかった。「きみはいい子」は名前だけは知っていた。今回、その後で書かれて、同じく桜ヶ丘を舞台にしている「わたしをみつけて」も読んでみた。こっちは桜ヶ丘病院に務める准看護師の女性の物語。僕にはこっちの方が感動的で、これも早くもポプラ文庫に入っているから、必読。両作とも「児童虐待」がテーマというか、大きなエピソードになっているが、どうも普通の意味での虐待を扱っている小説という感じではない。一人ひとりの登場人物たちが、「自分」をどうやって見つけていくかの物語で、読めば必ず誰かに薦めたくなる本である。間違いない。
 
コメント (1)
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