尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

鶴見俊輔さんの逝去を悼む

2015年07月24日 23時51分30秒 | 追悼
 鶴見俊輔(1922~2015)さんが亡くなった。7月20日、肺炎。葬儀は行わないという遺言に基づき家族で火葬したという。93歳。年齢を考えれば、やむを得ないというしかないんだろうけど、それでもとても残念な気がするのは、2004年に出た「同時代を生きて」(岩波書店)という本があるからである。この本は、同じ1922年生まれの瀬戸内寂聴ドナルド・キーン両氏との鼎談をまとめたものだが、瀬戸内、キーン両氏が未だ社会的発言を行っていることを思えば、まさにいま「日本が鶴見俊輔を失う損失の大きさ」を痛感するのである。

 鶴見俊輔という人は、若い頃にたくさん読んでいて、最も大きな影響を受けた人だと言ってもいい。ウィキペディアをみると、「哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者」と書いてある。まあ、別に間違いとは言えないけれど、「政治運動家」なんて肩書きを誰が書いたのか。鶴見俊輔さんが「運動家」だった時期なんて多分ないだろう。いや、「べ平連」があるだろう、最近も「九条の会」呼びかけ人だろうという人がいるかもしれないが、こういうのは「運動家」としてやっているわけではない。最近亡くなったべ平連事務局長の吉川勇一氏などは、紛れもない「運動家」であって、社会運動のプロとしての優れた事務能力を発揮した。しかし、鶴見俊輔という人は、「一人の人間として」やるべき行動をしているだけであって、政治運動家ではない。良し悪しの問題ではなく。

 「哲学者」という肩書は、僕の学生時代に読んだ本には大体そう書いてあったように思う。「アメリカ哲学」などでプラグマティズムを日本に紹介した「哲学者」。「思想の科学」を舞台にした学際的研究や「シロウト」ライターの発掘などは、その日本における実践というわけである。しかし、同時代の実感としては「近代日本思想史研究」のような仕事が多かったように思う。しかし、研究が主眼なのではなく、自分が生まれた日本をモデルにして、「自分の頭で思想のありようを考える人」という感じがした。だから、自分を語った本、自分の経験をもとに書いた本も山のようにある。1971年の岩波新書「北米体験再考」やメキシコの大学に招かれた時の思考「グアダルーペの聖母」(1976)などがとても面白く、「自分」からモノゴトを考えている人という感じがした。これは当たり前のようでいて、フランスの最新思想は…とか、マルクスいわく…とか、そういう人がいっぱいいた時代なんだから、新鮮なのである。こういう人のことを、「思想家」と呼ぶんだと僕は思ってきた。

 業績に残る一番の仕事分野は、紛れもなく近現代日本の思想、文化研究である。しかも、一人で論文や専門書を書いた「業績」ではなく、集団研究や対談などが多い。その代表が思想の科学研究会で行った「共同研究 転向」(1959~1962)で、昔は分厚い3巻本がいつも古本屋にあったものである。いまは「転向」と言っても何のことかわからないかもしれない。戦前にマルクス主義者だったものが、特高警察の弾圧にあって、獄中でほぼ一斉に「日本思想」に移った。これが「狭義の転向」で、50年代から70年代頃までは、非常に切実なテーマだった。今思えば、聞きかじりでマルクスのご託宣を語るのと、天皇賛美の呪文を唱えるのとは、頭の働きとしては全く同じだということは、誰にでも判る。だけど、権力の圧力に屈したという「自我の屈折」がどれほど大きなものだったか、今ではあまり通じないかもしれない。それを受けて、久野収との共著「現代日本の思想」(岩波新書、1956)、久野収、藤田省三との鼎談「戦後日本の思想」(1959)が生まれた。これこそ一番面白い近現代日本思想史で、その後読み直していないので判らないけど、多分今でも刺激的だと思う。そして、さらに後に「戦時期日本の精神史」(1982)と「戦後日本の大衆文化史」(1984)がまとめられた。短い本だけど、集大成的な本だと思う。

 その後は大きな絵図を描くよりも個別の人物を取り上げたケース・スタディとして、「高野長英」(1975)、「柳宗悦」(1976)が出た。これも今では書かないと通じないかもしれない。高野長英は江戸末期の蘭学者で、弾圧で捕えられたのちに脱獄し全国で支援者に匿われて蘭学研究を続けた人物である。これはつまり、べ平連の活動に呼応して、米軍を脱走する兵隊が現れ、その人々を全国で匿い外国に逃したという自分の体験なのである。権力に屈しない人々を江戸時代の同国人に発見したのである。柳宗悦は民芸運動の主導者だが、同時に朝鮮、沖縄などの文化を「発見」した人でもあった。そして朝鮮の光化門を総督府が取り壊そうとしたときに、柳が抗議の声をあげ保存されるようになった。また三一独立運動に際しても植民地政策を批判する「朝鮮人を想う」を発表した。70年代というのは韓国軍事政権に対する民主化運動が燃えあがった時代で、日本でも政治犯救援などの連帯運動が盛んだった。鶴見さんもその中にいたわけで、そういう中から日本人の中の朝鮮支援運動を振り返って柳宗悦を再発見したのである。今は時代の制約を指摘されることもあるが、とにかく「柳宗悦という人がいたんだ」ということが、70年代の日本人には勇気を与えたのである。後に「夢野久作」(1989)、「竹内好」(1995)も書くが、鶴見さんの好みが判る人選だと思う。

 その他、とにかく編著なども多く、例えば今の柳宗悦も「近代日本思想体系 柳宗悦集」を編んでいる。今は岩波文庫にいっぱい入っているが、当時はこの本しかなくて、これで勉強したのである。一方、筑摩書房の「現代漫画」全27巻(1970~71)を佐藤忠男、北杜夫と共編している。マンガを文化の対象として取り上げた最初の頃の話で、僕はこの中の「つげ義春集」を買って、初めて「ねじ式」などを読んだのである。多分高校生の時で、その解説が初めて読んだ鶴見さんの文章かもしれない。そう思うと、ウィキペディアを見ていると、オーウェルの「右であれ、左であれ、わが祖国」(1971、平凡社)も鶴見さんの編だとある。そうだったか、この本も持っている。とすれば、こっちの方が早いかもしれない。こうしてみると、70年代にいろいろな本を読み始めた時に、さまざまな分野で鶴見俊輔という人にめぐり合っていたことが思い出されてくる。

 鶴見俊輔という人を語る時には、父と母、母方の祖父、姉(鶴見和子)、いとこ(鶴見良行)などのことがよく出てくる。それは非常に大事なことだが、多くのことが語ると思うし、本人も語っている。特に、絶対おススメが、上野千鶴子、小熊英二との「戦争が遺したもの」(2004)というすごい本がある。これは上野千鶴子という人のプロデュ―サーとしての偉大さもよく判る非常に重要な本で、インタビューをもとにした本だから、鶴見俊輔を最初に読むには、まずこの本だと思う。あんまりたくさんの本があるので、僕も半分も読んでないから、これからの楽しみがあるというものである。僕が勉強し始めた1970年代の本を中心に書いたけれど、鶴見俊輔さんには他にもいろいろ思い出がある。直接話を聞いたことはあっただろうか。京都中心の活動だったから、韓国政治犯救援運動なんかでも、あまり集会では聞いていないと思う。1996年にあったFIWC関西委員会の「らい予防法廃止記念集会」には鶴見さんは話をしただろうか。筑紫哲也さんと森元美代治さんの話があったことは確かだが。

 筑紫哲也はFIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)の関東委員会のキャンパーだったけれど、朝日新聞の記者になってから「交流(むすび)の家」建設運動を取材した。同志社大学教授だったときに、ハンセン病元患者がホテルで宿泊を断られた話を講義で語って、聞いていた学生が「泊まれる宿舎を作ろう」と動き始めた。それが奈良の「大倭紫陽花邑」(おおやまとあじさいむら)につくられた「交流(むすび)の家」である。僕は1980年の関西委員会主催の韓国キャンプ(韓国の山奥にあるハンセン病元患者の定着村でワークキャンプをする)の準備キャンプで初めて訪れた。各園から入所者を迎えて囲碁将棋大会などを80年代頃まで行っていたと思う。僕はここに新婚旅行で泊るというバカ者だったので、そこが鶴見俊輔から始まるという話は非常に大切なものになっている。木村聖哉・鶴見俊輔「『むすびの家』物語」(1997)という本が出ているから、今は品切れらしいが図書館などでぜひ読んでみて欲しい。
    
 今、ちょっとすぐ目についた鶴見さんの本を並べて見たが、70年代頃の本は引っ越し何回かの間にどこにあるか、すぐに出てこない。「戦後を生きる意味」(1981)という本もあったけれど、中身は忘れてしまった。「柳宗悦」はもう一回読み直したいと思って、目につくところに出したあったので、これはすぐ出てきた。鶴見俊輔さんと言えば、「思想の科学」なんだけど、もう長くなったので詳しくは書かないことにする。大学の同窓生が思想の科学社に勤めていた時期もあって、80年代初期には東京読者会によく出ていた記憶がある。多分何回か、読者会の記録を書いたかもしれない。「思想の科学」の戦後思想史における重要性は今は書く余裕がない。最後にちょっと書いておくと、鶴見俊輔は「60年安保」の時に東京工業大学を辞めた。もちろん、その前に中国文学者の竹内好が都立大学を辞めた。民主主義を破壊する岸内閣の下で公務員を務めるわけにはいかないからである。今、安倍内閣の安保法制をめぐって、憲法違反の法律だという学者がたくさんいる。それはいいけど、自分が違憲だと信じる法律が成立してしまったら、国公立の教員をしていていいのかという覚悟を持っているのかどうか。学者側も試されているのではないか。別に辞めなくてもいいんだと思うが、僕はあえてそう言いたいのである。それは竹内好や鶴見俊輔という人の大きな影響を受けた僕の偽らざる思いである。
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