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死刑廃止への招待(第9話)

2011-10-15 | 〆死刑廃止への招待

死刑制度は重大犯罪を抑止し、治安を確保するうえで必要ではないか?

 犯罪抑止力による死刑存置の理由づけは、かねてより最も科学的・実証的な理論とみなされて、学問的な論争の対象となってきたところです。
 しかし、抑止力という術語について法令に定義規定があるわけではなく、それは決して一義的に明確な概念ではありません。一般的に、刑罰の犯罪抑止力とは刑罰の威嚇力によって犯罪の発生を未然に防止する社会心理的な強制力を意味しており、中でも死刑の犯罪抑止力とは死刑制度の持つ格別の威嚇力をもって重大犯罪を抑止する効力として、刑罰制度を通じた治安確保の要とみなされてきました。

 とはいえ、この抑止力なるものの存在は、未確認飛行物体UFOの存在以上に確認の困難なものなのです。実際、死刑の犯罪抑止力の存在をいかにして調査・認識することができるのでしょうか。
 よく行われるのは、死刑制度の運用状況と代表的な死刑相当犯罪である殺人罪の発生率の上下の相関関係を分析するというものです。しかし、ここで直ちに疑問なのは、「抑止力」という以上は死刑制度の恒常的な運用によって発生を防止することのできた殺人罪その他の死刑相当犯罪がどれだけあるかを検証するべきではないかということです。
 殺人罪の発生率とは死刑制度の運用にもかかわらず殺人が発生してしまった抑止の失敗例のデータであって、そこから直接に死刑の犯罪抑止力を把握しようとするのは飛躍なのではないでしょうか。
 要するに、死刑の犯罪抑止力を真に確認するためには、「起きてしまった殺人事件」の数ではなく、(死刑のおかげで)「起きなかった殺人事件」の数を調査するべきであるのです。
 しかし、「起きなかった殺人事件」の数を調査するのは、事実上不可能なことでしょう。「起きなかった殺人事件」とは、何者かが殺人を思い立ったが計画・実行に至らなかったケースや殺人が計画されたが計画者が実行を見合わせたケースですが、こうした“挫折した殺人”は殺人予備罪などが成立する場合を除いては摘発対象とはならないため、警察・司法統計にも記録されないからです。
 結局、抑止力とは、それを検証することも反証することもできない、その意味で科学性を欠きながら科学の装いが与えられている「疑似科学」に属する概念である疑いが強いのです。要するに、それは信じるか、信じないかという“信仰”と呼んで悪ければ信頼の対象でしかないのではないかと思われるわけです。
 実際、死刑の犯罪抑止力の存在はひょっとするとUFO以上に信じられているようです。前出の2009年内閣府世論調査においても、「死刑を廃止すると凶悪犯罪が増える」と考える人の割合が62.3パーセントにものぼっているのです。

 ただ、そのような抑止力に対する信頼に十分な根拠があるかどうかをアンケート調査方式による経験的データで検証してみることはできなくありません。例えば、「あなたは、死刑の恐怖から殺人罪や強盗殺人罪などの凶悪犯罪の計画または実行を思いとどまったことがあるか」といった質問を無作為抽出した多数の人に回答してもらう方法です。
 実際のところ、皆様はどうでしょうか。少なくとも、筆者はこれまでの人生でそもそも凶悪犯罪を思い立った経験がないのですが、それは死刑の恐怖からということではなく、筆者の場合、凶悪犯罪へ赴く動機・情況がこれまでのところ全くなかったからでした。
 裏を返せば、仮にそうした動機・情況が偶発的にでも生じた時には、自分も凶悪犯罪に走ってしまうのか、それとも死刑の恐怖から思い止まるのか。率直に言って、よくわかりません。
 このように、実際「その時」に死刑の抑止力が作動するかどうかという問題は、“経験者”でなければよくわからないのですが、その点で一つ興味深い証言があります。1968年から69年にかけて連続4件の射殺事件を起こして死刑判決が確定し、獄中で作家活動も展開した永山則夫(1997年処刑)がこんなことを述懐しているのです。

「あの時期、後の二件は回避せるものであった。しかし、どうせ死刑になるという観念があれ等の事件を犯してしまった。「死刑になるという観念」それ故に惰走した。「死刑になるという観念」は凶悪犯を尚更、高段な凶悪犯罪に走らせてしまう、自暴自棄というのであろう。」(永山則夫『無知の涙』より)

 「後の二件」とは、4件の連続殺人のうち後の2件を指しているのですが、その明らかに余分な追加犯行を死刑が存在しないがゆえにではなく、死刑が存在するがゆえに犯してしまったというのです。言い換えれば、死刑の恐怖どころか、「どうせ死刑になるという観念」から自暴自棄で突っ走ってしまったというわけです。
 従って、彼はいささか逆説的に「凶悪犯行防止のために死刑は必要だが、凶悪犯となった人間にとって、凶悪犯行を再び行わないために死刑は無い方がよい」とも述べるのです。
 永山が犯したような無謀で不可解な凶悪犯罪ほど、犯人は自暴自棄ないしは絶望に駆られており、死刑になることを覚悟し、あるいはそれを積極に“願望”さえしているもののようです。そういう場合には、死刑は抑止力になるどころか、永山の場合にそうであったように、逆効果的に犯罪誘発力となってしまうのです。

 死刑制度が凶悪犯罪を誘発する━。これは、死刑制度にとって一大スキャンダルです。しかし、私どもはそういうスキャンダルの中でも最大級のものをすでに経験済みです。それが、オウム真理教教団が惹き起こした2件のサリン事件でした。この2件とは、1994年6月の松本サリン事件(8人死亡、660人負傷)と、翌95年3月の東京地下鉄サリン事件(12人死亡、3794人負傷)です。
 第5話でもご紹介したように、日本では89年11月から三年四ヶ月間ほど死刑執行が休止し、93年3月に再開されています。そうすると、最初の松本サリン事件は93年3月の死刑執行再開から一年三ヵ月後、東京地下鉄サリン事件はほぼ二年後と、犯罪史上例を見ない2件の化学テロ事件は、死刑執行再開からわずか二年以内に相次いで発生しているのです。
 ちなみに、オウム教団が凶悪化への最初の一歩を踏み出したきっかけとされる坂本堤弁護士一家殺害事件(教団に対して批判的な弁護活動を展開していた弁護士と妻子の三人を殺害した事件)は、89年11月に発生しているのですが、この月には1件死刑執行が行われています。
 ここから、数々のオウム関連殺人事件の中でもとりわけ凶悪な三つの事件は、三年四ヶ月間の死刑執行休止期間中ではなく、その前後にまたがるように発生しているという皮肉な事実が浮かび上がります。わけても2件のサリン事件は、93年3月の死刑執行再開にあたかも誘引されるかのように、94年と95年に続発しています。これはまさにスキャンダルと呼ぶにふさわしい事態ではないでしょうか。
 なぜこのようなことになったかを考えるに、オウムが現存法秩序を超越した特異な信仰と思考様式を持つカルト集団であったということもさりながら、孤独な単独犯であった永山とは違い、組織犯罪であり、しかも犯行声明を出して実行組織を誇示する政治的事件とも異なり、実行組織は容易に特定されまいとの自信の下に計画・実行に及んだことにもよるものと見られます。
 従って、このケースは永山のような「どうせ死刑になる」との自暴自棄からの「惰走」とは異なり、犯行グループは特定されないゆえに「どうせ死刑にならない」との過信から敢行されたものとも考えられるわけです。
 このように犯人は特定されまいとの過信から犯罪の実行に及ぶということは個人の単独犯でもあり得るところですが、こうした場合に死刑の抑止力は何ら期待できないどころか、かえって“死刑への挑戦”としての凶悪犯罪を誘発しかねないのです。

 このようにして、オウム事件とは、死刑の犯罪抑止力に対する根拠なき信頼から私どもを目覚めさせるうえでも、極めて苦く、つらい教訓だったと言えるのではないでしょうか。

〔追記〕
より最近の事例として、2008年6月の秋葉原無差別殺傷事件(7人死亡、10人負傷)も、2007年頃から死刑執行人員が急増する最中に(07年9人、08年15人)発生しています。この事件の犯行当時20代被告人男性も孤独な非正規労働者で、類型的には上述の永山則夫型の「惰走」的犯行でした。奇しくも、永山事件初発からちょうど40年後に起きた事件でもあります。


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