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民衆会議/世界共同体論(連載第2回)

2017-08-11 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(1)民主主義の深化
 民主主義が地球的な価値観となって久しい。しかし、その民主主義が今、色褪せてきている。民主主義のモデルを称する諸国でも、議会政治は金権政治と同義となり、政治は財界・富裕層の利益調整の場と化している。一方で、しばしば米欧主導の戦争・軍事介入の大義名分として標榜される「民主主義」への反発から、イスラーム圏を中心に、反民主主義思想も過激な形で台頭してきている。
 そういう混迷した状況の中で提唱される民衆会議/世界共同体の構想は、改めて「真の民主主義」を追求・確立せんとすることに理念的な基礎を置いている。「真の民主主義」とは月並みな言い回しであるが、民主主義の深化と言い換えてもよい。
 現時点で世界のスタンダードとされている民主主義とは、ほぼ議会制民主主義を指す。あるいは大統領のような国家元首を選挙によって選出する制度が加味されることもあるが、そうした大統領選挙制も議会制民主主義を土台とすることではじめて「民主的」との評価を得られる。
 しかし、議会制民主主義は上述のとおり、真に民主的に機能していない。改革を施せば民主的に機能するというほど単純ではない。本来、議会制度は古代的・封建的な王侯貴族政治を市民革命により打破する中で成立した制度であり、普通選挙制の確立以降、選挙過程を通じて政治参加の枠を拡大した功績はあり、その限りにおいては「民主的」であった。
 ここで、あったと完了形で書かなければならないのは、議会制が民主的であった時代はもはや終わりを告げているからである。現代の議会制は財力と党派的なコネクションがものをいう金権・パトロン政治の代表例となっており、むしろ一般民衆を定期的な投票機械に貶め、日々の政治的決定からは遠ざける制度となっていることは明らかである。
 その意味では、もはや議会制と民主主義とを直につなぐ「議会制民主主義」という言い回しは正確なものではない。とはいえ、用語慣習上、当ブログでも「議会制民主主義」という言い回しを使ってきたのは事実であるが、本連載ではこの用語を以後、避けることにする。
 かといって、議会政治を独裁政治と同視するような性急さも避けなければならない。先に指摘したような議会制の歴史的な功績と現在的な限界性を両面考慮すれば、議会制は「限定民主主義」と呼ぶのがふさわしい―「議会制限定民主主義」―が、煩雑になるので、単に「議会制」と称すれば足りるであろう。

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