切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府木津川市 相楽神社・木津惣墓五輪塔 ~ 重要文化財

2017-07-01 23:24:16 | 撮影

 今日は雲が出ているものの、朝から青空が広がり、絶好の撮影日和。
 午前中に出発。京奈和自動車道ぶっ飛ばし、と言っても、片側1車線なのですぐに前の車に追いついてしまい、法定速度も70㎞ということで、だいたい80km あまりで流れていた。それでも早々と木津川市に到着。
 実は現役時代に勤めていた職場のわりと近くで、今から行く相楽神社も、その前の道を何度も走っていた。当時はお寺や神社にほとんど興味がなく、ここを走っていながら全く知らなかった。今回はあらかじめ木津川市の文化財を調べて回っており、今日の目的地は2箇所。一つは相楽神社。二つめが木津惣墓五輪塔。

  
(明和の刻銘) 
 相楽神社は国道163号線沿いにありすぐにわかる。少し横道に入っただけで、非常に静かで石鳥居の前にはいくつもの石灯籠が並んでいる。刻銘を見ると大半は読めなかったが、明和や寛保などの江戸時代後期の元号がいくつか確認できた。
 門を入ると境内が広がり、正面に拝殿があり、その奥に本殿と両側にいくつかの末社が並んでいる。本殿は国の重要文化財。左の末社、若宮神社は府の登録文化財。
   
 参拝した後、近づける範囲内で写真を撮る。全体に派手な色はないが、落ち着いた構えをしていて風格みたいなものが感じられる。
 あちこち写真を撮っていると、一人二人と参拝者がやってきて丁寧に時間をかけて参拝している。決して観光客が来る様な神社ではないが、地域のなかでも存在感は大きいようだ。この神社で行われるいくつかの行事は、まとめて京都府の指定無形民俗文化財となっている。思った以上に見応えある神社だった。
      

神社を紹介した説明書が置かれていたので、その文を以下に紹介しておく。(一部略)

相楽神社 解説パンフレットより
『相楽神社 (さがなか じんじゃ)
相楽神社は木津町大字相楽(さがなか)地区(旧相楽村) [北ノ庄、大里、曽根山の三区] の産土神として祀られ、氏子は心の拠りどころとして信仰厚く、又、最近は近郷新開地からの参詣者もふえ、正月の初詣ででは門前列をなす賑わいである。創立は定かでないが、明治十年(一八七七) 「延喜式」神名帳に相楽郡の一座「相楽神(サカラカノ)社」と、明記されていることが分り、それまでは誉田𡋾命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)、神足仲彦命(かんたらしなかひこのみこと)(仲哀天皇)・気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)の八幡神を祭祀されてあるので八幡神を祀る神社の総称である「八幡宮」で呼ばれてきた。今も「はちまんさん」と呼ぶ古老もあり、社頭には八幡宮の額が掲げられている。
 当社の大祭は正月一日の元旦祭、二月十五日の祈年祭、十月十七日の秋祭の三回で、中でも秋祭は宮座の総集会ともいえる行事が行われ、南・北両篭り所に九座九十人の十人衆が紋付羽織の衣装で当屋から有職料理の饗応を受ける。当日は三区から子供御輿もかつぎ出され賑やかである(大正初期までは大人がかつぐ本みこしも出たが、その後、中絶)。大祭の外、毎月朔日、十五日、二十八日には月例祭、又、氏子から祈祷申出の宮参り、十一月の七五三参り等、月数回、神饌を供し、祝詞を奏し、神楽をあげる。
 当社は古い社殿や伝統的な祭事がよく保存されて、信仰の神域であるが、又、有形、無形の行事も多いので、近年、史家、学徒の訪れる数も多くなってきた。

◎建物 ・相楽神社本殿 重要文化財 明治四十四年文部省指定(一九一一)
      三間社流造桧皮葺、各所に優秀な彫刻が施され、室町時代初期の造営
    ・若宮神社本殿 京都府登録文化財 昭和六十年指定(一九八五)
      相楽神社本殿の南側にある末社の一つで桧皮葺、一間社春日造で古式をよくとどめている。
      室町時代後期の造営
◎行事
 ・御田と正月行事 京都府指定無形民俗文化財 昭和五十九年指定(一九八四)
   当社に伝わる年頭の宮座の行事で、月月の降水量を占う「豆焼」--一月十四日夜、早稲・中稲・晩稲の作柄を占う「粥占」、稲作の年中の過程を模して豊作を祈る「御田祭」
  一月十五日、竹串に数十の餅を刺して花に見たてたものを奉納する「餅花祭」-ニ月一日、年間雨量を占う「水試」旧曆一月十五日等
その他参考事項
・末社 相楽神社本殿の両脇に五社ある。本殿に向かって左から松枝神社、鳥懸神社、若宮神
    社、本殿右側に子守神社、清水谷神社(これだけは南向)
    拝殿の南側に豊八稲荷社も祀られている(以前は本殿裏のサルスベリの樹下にあった)
・手洗石 寛政五年(一七九三)雨乞祈願のため氏子より寄進(昔は鳥居前、道路の東側にあった)
・鳥居 元禄十四年(一七〇一)丑寅村伝右衛門の子、大阪の忠兵衛から寄進
・鉾  京都の秋田某が、田地と共に北座に寄進した(神社宝物記録に鉾六本、長さ一丈二尺
    九寸と書かれている)
・不動寺と鐘撞堂 昔、神仏混淆時代に今の南座篭所の南側にあった。
    不動寺は真言宗の寺で文化元年(一八〇四)には無住となり、その後、廃寺となった。
・社務所西側にある樹齢定かでないケヤキの神木は平成三年(一九九一)植物部門「京都の自然 二〇〇選」に選ばれた。』


 次に163号線を東へ進み、木津川市役所の近くにある木津惣墓五輪塔へ向かう。少々分かりにくい場所にあり、国道から南へ入り、さらに住宅地の道を曲がって到着。それこそ住宅街のど真ん中にある。その一角だけ大きな五輪塔がドンと控えて、物凄い存在感がある。
 もちろんここにも京都府の説明板があって、しっかりと紹介されている。一角にはかなり古そうな石地蔵がいくつも並べられていた。五輪塔の台座には三面にわたって刻銘があり、自分にはよく判別できなかったが、当時の年数が刻まれており、建立された時がわかっている。正応五年(1292年)に木津川の氾濫で亡くなった人々の供養のために建立されたと考えられている。鎌倉時代になって百年目のことだ。700年余もこの地で人々を慰めてきたわけだが、おそらく当時の木津川はこの近くを流れていたのかもしれない。今は少し離れたところを流れている。この五輪塔は国の重要文化財。
   

 この五輪塔は地図にも全く載っていない。木津川市の文化財一覧のなかで所在地を確認し、大体の見当をつけてここにたどり着いた。この存在を知っているのは、地域の人と当該分野の学者や一部の熱心なアマチュア研究者位だろう。
 戻ってから改めてネットで調べてみると、少ないもののこの五輪塔をきちんと調べて、ブログやホームページで紹介している人がいる。刻銘もきちっと調べて参考文献にも目を通して、相当詳しく紹介されているの見てみると、本当に感心する。
 自分などこういうものに興味を持ち始めてまだ日が浅い、全くの初心者で、現物を見ながらまた写真に撮りながら、すごいなーとただ感心するばかりで、刻銘などが掘られていてもほとんど読み取れない状態。専門的な文献を読んでもおらず、改めて自分なりに少しでも勉強をしてみたいと思っているところ。
 寺院にしても神社にしても、仏教や神道と言う伝来してきたものであれ、古来からの信仰の対象となった、こういうものが人々のどんな思いから形成され、また広まっていったのか。また社会にどのような影響を与えてきたのか。そんなことを勉強してみたいと思う。やはり実物を見たりしていると、昔の人々の思いが僅かながらでも、伝わってくるような思いに囚われた。


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