切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都市西京区 十輪寺・・・在原業平が居た証拠?

2017-09-22 23:56:23 | 撮影

 十輪寺は京都市西京区の大原野小塩町にある。
 

 京都市街地より少し小高い、丘陵地の緑に囲まれた所に比較的小さな境内を構えている。
 十輪寺は通称「業平寺」とも呼ばれ、平安時代初期の歌人、在原業平のゆかりの寺と言われている。

  

 駐車場から緑の木々に囲まれた参道を少し登ると、小さな表門がある。中に入って社務所で拝観料を納めて境内に入る。社殿内部の一部が撮影禁止。それ以外は比較的自由に撮影できる。狭い境内には、かなりの巨木から小さな木々まで、そして色々な花も咲き、池もあってなかなか風情がある。
 その端に鐘楼があって、本堂とともに、京都府の有形文化財に指定されている。京都の端の方にあったこの地も応仁の乱で大半が焼けている。本堂などもそれ以降の再建となる。

    在原業平の墓 
 
 鐘楼のすぐ近くにはいくつかの石仏が並べられ、これはかなり古いものから比較的新しい江戸期のものと思われるものもある。その先を少し上ると、在原業平のお墓と言われる宝篋印塔がある。あくまでも言い伝えなので、本当にここで業平が亡くなったのかと言うと、確証はない。
 さらにその先を上っていくと、業平が塩焼きを楽しんだと言う塩窯の跡が保存されている。彼が恋焦がれている人に送ったといわれる塩焼きだが、これも伝承と言うことになる。しかし、かなり古くから言い伝えられており、この地域の小塩町と言う地名は、塩焼きの塩からきていると言われているので、本当なのかも知れない。
 ただ、在原業平のゆかりの地や伝承などについては、各地に残されており、東京にも業平橋と言うのがある。どこまでがどの様に本当なのか、色々調べてもよく分からない。しかしやはり、晩年の業平がここのお寺に、一時住んでいたと言うのはおそらく本当なんだろうと思われる。この点についても、隣の滋賀県にも、晩年暮らしたと言われる地があるが、やはり当時から恋多き貴族として、また優れた歌人として名を馳せていた業平のことであるので、各地に伝承が残ったんだろう。

塩窯の跡  

 境内を一通り回って本堂に入る。本尊らしき仏像は見られない様だった。たぶん公開される日が決まっているんだろう。比較的新しい阿弥陀如来らしき仏像があった。廊下を渡って社殿に入ると、撮影不可のなかなか見事な襖絵の部屋が並んでいる。この襖絵自体は比較的新しく復元されたもの。往時のお寺にあった貴重なものとして、撮影は不可となっていると思われる。
 室内から境内を見ると、また違った風情が楽しめる。秋の紅葉の隠れた名所としても知られており、行くならば是非紅葉の時期が良いだろうと思う。写真で見たが実に見事と言える。

         

 お寺の沿革などについては、パンフレットにあった説明文を、また 同時に掲載されていた写真も載せておく。
 在原業平の歌には有名なものが多いが、百人一首にも選ばれた句を載せておく。



『十輪寺
創建

 嘉祥三年(八五〇)文徳天皇の御后染殿(そめどの)皇后(藤原明子(あきらけいこ))の世継誕生を祈願し、めでたく皇子御降誕、後の清和天皇になられたことから文徳天皇勅願所となる。その後藤原北家(花山院(かさのいん)家)が帰依され、一統の菩提寺とされた。
御本尊
 伝教大師御作の延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)である。等身大木像の坐像であらせられ、その御腹に巻かれた腹帯で染殿皇后が安産されたことから腹帯地蔵尊と称し、今も子授や安産を願う婦人達の厚い信仰をあつめている。秘仏で年一回八月二十三日が御開帳日である。
本堂
 創建当時の伽藍は応仁の乱で焼失し、現存は寛延三年(一七五〇)の再建である。屋根は鳳輦形(ほうれんがた)という御興(みこし)を型どった非常に珍らしいものであり、内部天井の彫刻も独特の意匠が施されている。文化財指定。
鐘楼
 寛文六年(一六六六)十月頃の建立で、同様に文化財指定。
コメント
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