東アジア歴史文化研究会

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大正天皇と「平和大国日本」のビジョン  

2017-06-04 | 皇室関係
内に「皇室と人民の接近」を図られ、外には「平和大国日本」のビジョンを体現された大正天皇。

■1.「国際協調に基づく積極的平和主義」

安倍首相が5月27日、地中海の島国マルタにて、第一次大戦中の日本軍戦没者の墓地に献花し黙祷を捧げた。大正6(1917)年、日英同盟に基づくイギリスの支援要請に応えて派遣された駆逐艦隊が地中海で暴れ回っていたドイツ軍の潜水艇からイギリス・フランスの輸送船を護った戦いで戦死した英霊の墓であるーーl
大戦後の日本は世界平和を実現するために設立された国際連盟に常任理事国として参加。特にその連盟規約に人種平等を謳おうと奮闘して、世界の有色人種の衆望を担った[b]。さらに日本はワシントン軍縮会議(1921年〜)に主要国として参加し、世界平和を牽引した。

安倍首相はフェイスブックで「万感の思いを込め、御霊(みたま)の平安をお祈りしました。日本は、世界から信頼されていますと、申し上げました。日本はこれからも、国際協調に基づく、積極的平和主義を貫きます。墓前で、誓いました」と発信している[1]。

まさにこの「国際協調に基づく積極的平和主義」のモデルが大正日本であり、その象徴を体現されたのが大正天皇だった。

さらにドイツ、ロシアなどの王室帝室が次々と消え去って行く中で、大正天皇は国内にあっては「皇室と人民の接近」(当時の新聞報道)を図られ、君民一体の麗しい国柄を強化された。さらに皇后と4方の皇子たちとの和やかな家庭生活は、国民に近代的家庭の範を示された。
大正天皇の示された外への「国際協調に基づく積極的平和主義」と内での君民と家族の和は、21世紀の日本の進むべき姿を指し示している。


■2.一般人の暮らしているより広い世界を見聞する

大正天皇、すなわち嘉仁(よしひと)皇太子はご幼少の頃から病弱で、学習院は中等1年を修了した時点で中退。その後は赤坂離宮内で国学、漢学、フランス語の個人教授を受けられたが、一時は重体に陥ったほどのたびたびの病気で中断を余儀なくされ、成績も思わしくなかった。

心配された明治天皇は、17歳年上の有栖川宮(ありすがわのみや)威仁(たけひと)親王を東宮輔導(皇太子の教育係)として配された。明治33(1900)年、皇太子は九条節子妃(さだこ、後の貞明皇后[c,d])と結婚され、その報告のため伊勢の神宮などを参拝された後に、三重、奈良、京都を回られた。

皇太子は京都帝国大学付属病院では14歳の脊髄病患者と22歳の火傷患者に病状について質問された。明治天皇の場合は全国行幸をされても一般国民に直接話しかけられることはなかったが、皇太子はたまたま二人の患者の姿を見るに忍びずに、声をかけたのである。思わぬ出来事に「二人の絶えず感涙に咽(むせ)びた」と報ぜられている。

同行した有栖川宮は、皇太子が巡啓を元気でこなされたことを見て、東京に帰るとすぐにさらなる長期巡啓のプランを練った。節子妃との結婚で皇太子の健康が回復しつつあり、巡啓で一般国民の広い世界を見聞することが、皇太子の心身の成長に良いと考えたのである。


■3.巡啓が育てた皇室への親近感

その思惑通り、皇太子は長期の地方巡啓に活き活きと取り組まれた。しかし、そのスタイルは明治天皇とは大きく異なっていた。明治天皇の場合は、事前に準備されたコース、スケジュールを厳格に守られたが、皇太子は随所で予定コースを変えたり、計画外の場所を訪問された。その方が一般庶民の生活の実情を見聞したり、直接言葉を交わせると考えたからだった。

たとえば明治35(1902)年の東北6県と栃木県を回る巡啓では、5月26日に新潟物産陳列館で、岩の原葡萄(ぶどう)園製造のブドウ酒を見て、「ウム、そうか之(これ)が有名なアノ葡萄酒か」と感嘆され、その晩に葡萄園経営者・川上善兵衛のもとにご訪問の意思を伝えさせた。

皇太子は29日に葡萄園を訪問されると、「如何にして醸造するや」「日本人が己(おの)れ一箇の資力にして是(これ)だけの事業を成せしは感心の至りなり」等々と発言されている。こうした御言動がそのまま新聞に報道され、人々は何を言い出すのか分からない皇太子に初めて接して戸惑いながらも、皇室に対する親近感を抱いていった。

■4.「20世紀日本の最大のシンボル」

明治天皇の行幸は陸軍大演習の視察の他は農村の状況や地方の特産物の天覧が中心だったが、嘉仁皇太子は学校、物産陳列所、製紙工場、製鉄工場などへの巡啓も多かった。これは「教育産業御奨励の御趣旨」から、と報道された。

明治天皇は主に船、馬車、あるいは駕籠(かご)で移動したが、嘉仁皇太子は19世紀末最先端の交通機関である汽車を使われた。人々の歓送迎でも明治天皇の場合の提灯が、嘉仁皇太子の場合は電灯となった。

おりしも電灯、電話、鉄道、舗装道路が全国に普及しつつある時期であり、地方では行啓をこうした近代化の絶好の機会と捉えた。明治40(1907)年5月から6月にかけての山陰地方巡啓は、鳥取、島根両県が明治天皇の全国巡幸にも含まれていなかったため、両県知事の請願に基づいて行われた。

インフラの整備の遅れていた両県は、巡啓を絶好の機会として整備に取り組んだ。鉄道では山陰西線(現・JR山陰本線)の倉吉−鳥取間が巡啓の前月に開通。島根県内の鉄道開業は間に合わなかったが、出雲地方での道路の舗装が急ピッチで進められた。電気は鳥取市内で、皇太子訪問の日にあわせていっせいに点灯されるよう準備されたほか、電話も主要都市で新たに架設された。

行啓直前に下見をした内務大臣・原敬は「今回の行啓に付きては真に千載の一遇として人民の喜ぶ譬(たと)ふるに物なし」との驚きを日記に記している。

19世紀末から20世紀初頭は日本全体でインフラの整備が大車輪で進められた時期であった。1900年までの十数年間で鉄道の営業キロメートル数は10倍以上増えて6千キロメートルに達した。1890年に東京−横浜間で始まった電話サービスは、1907年までに主要都市間での長距離電話が開通した。

1905年に新聞の流通は160万部を超え、1907年には義務教育の就学率が100%に近づいた。アメリカの歴史学者フレデリック・R・ディキンソンは次のように総括している。

実際、嘉仁は1900年から天皇になる1912年までの間、行啓や近代国家形成の中で充実してきた鉄道、新聞、義務教育などの整備を通じて20世紀日本の最大のシンボルとなっていった。

■5.家庭生活でも20世紀日本の象徴

嘉仁皇太子は家庭生活でも20世紀日本のシンボルとなった。皇太子と節子妃はヨーロッパの君主制にならって、結婚式当時から「同格の夫婦」として振る舞った。皇族、高官、各国公使の祝賀も二人並んで受けられた。

また結婚式後の三重、京都、奈良への9日間の行啓は伊勢神宮への報告が主目的だったが、節子妃も同行したため、実質的に皇室初めての「新婚旅行」となった。

お二人は子供にも恵まれた。4人もの皇子が生まれ、健やかに成長していった。皇太子は子煩悩で、皇子たちと鬼ごっこしたり、食事後に母節子妃のピアノ伴奏で一緒に合唱したりした。巡啓の際には、皇子たちへのお土産を購入される姿も新聞に報道された。

こうした光景を見た侍医エルヴィン・フォン・ベルツは「日本の歴史の上で皇太子としては未曾有のことだが、西洋の意味でいう本当の幸福な家庭生活、すなわち親子一緒の家庭生活を営んでおられる」と観察している。

皇太子が皇子たちと遊ぶ家庭生活の光景は錦絵や写真で広く国民の間にも報道された。一般国民の家庭では1890年代では親子別々に食事をとっていたのが、1910年頃の明治末期には家族団欒の食事風景が普通になっていった。嘉仁皇太子は家庭生活の面でも近代化の象徴となっていたのである。


■6.「上下心を合わせての唱和」

明治45(1912)年7月30日の明治天皇崩御に伴い、嘉仁皇太子は践祚し、大正と改元された。 大正4(1995)年11月10日には即位の大礼が執り行われた。幕末の混乱期に行われた明治天皇の大礼に比べ、大正天皇の場合ははるかに規模も大きく、広く一般国民も参加するものとなった。

京都御所で行われた儀式では、皇族、政府高官、両院議員、外国公使など2千人余りが参列している。時の首相、大隈重信が国民の代表として中心的役割を果たした。

立憲政治の推進者である大隈に皇太子は好感を抱き、よくその意見に耳を傾けていた。一般国民には、進んで民衆の中に入っていく大正天皇と民権を尊重する大隈のコンビが、新しい民主主義の象徴のように見えただろう。

午sx後3時、君が代斉唱、天皇の大礼勅語朗読の後、3時30分ちょうどに大隈の音頭で、日本全国で万歳三唱が行われた。京都では、師団と第二艦隊が百一発の礼砲を放ち、全市の電灯が一斉にパッとつく、諸船舶、諸工場の汽笛が一斉に鳴り出す、諸学校の学生、諸会社の執務中の人々がいちどに立ち上がって万歳を三唱した。

こうした光景が全国で同時に繰り広げられた。大阪毎日新聞は「国と言う国の世にも多けれど、かくばかり上下心を合わせての唱和はあらじと思われたり」と報じている。

歴史学者三浦周行・京都帝国大学教授は20世紀の初頭においてドイツ、ロシア、オーストラリア、トルコなどの王室帝室が崩壊したのに対して、「独りわが皇室の日増しに隆昌を加えさせられるるは決して偶然ではあるまい」とし、その原因として「皇室と国民との間がいっそう接近した事」を挙げている。


■7.「全世界の代表者がもれなく集まった」

t大礼では世界各国の公使が参列したが、これも我が国史上初めてのことであった。大隈首相は「今回の如く全世界の代表者がもれなく集まったと言う事は実に世界の偉観で、我が国では空前のことであるが、東洋でもまた未曾有の盛儀」と評している。

大正天皇の登場は欧米からも歓迎された。『ニューヨーク・タイムズ』は1ページ全面を使って大正天皇を紹介し、「嘉仁は日本の近代的精神に完璧に合致し、いろいろな意味においても父宮には達しなかったヨーロッパの風習に染められている」と評し、その例としてヨーロッパ式の東宮御所、洋装好み、一夫一婦制、節子皇后のテニス好きなどをあげている。

スペイン公使が来日した際には、会食の席で皇太子が長時間フランス語で会話し、公使や他の列国の使臣を感激させたと伝えられている[2, p25]。明治天皇の御大葬で来日したアメリカの国務長官を歓迎した際も、「陛下はアメリカの長老と親しく話し、両国間の親密な関係にふれ、アメリカについて深い知識を示した」と、『ウォールストリート・ジャーナル』は報じた[3, p84]。

欧米からの賓客と親しく交際する日本の元首というイメージは、第1次大戦後、世界の五大国の一つとなった20世紀日本にふさわしいものであった。皇室史上初めて、裕仁皇太子を欧州歴訪に送り出して欧州各国から大歓迎を受けたことも、これに華を添えた。[e]


■8.大正天皇の象徴された「平和大国日本」のビジョン

1914(大正3)年から1918(大正7)年まで続いた第一次大戦は900万人もの犠牲者を出した。その反省から平和への希求が強まり、国際連盟が創設され、軍縮が進められた。その国際的リーダーシップをとった五大国の一つが日本であった。

原敬首相はパリ講和会議において「帝国は5大国の一として世界平和の回復に向かって努力するを得たり。ここにおいて帝国の位置一層重さを加ふると共に、世界に対する帝国の責任またますます重大なるを致せり」と高らかに宣言した。

 国際連盟の発足と同時に、大正天皇は「世界大戦に就いて平和克復の大詔」を発せられた。

「平和全く復するに至りたるは、朕の甚(はなは)だ懌(よろこ)ぶ所なり」と平和の回復を喜ばれつつ、平和協定の成立と国際連盟の創設を「朕が中心實(じつ)に欣幸(きんこう)とする所なると共に、又、今後國家負荷の重大なるを」感じざるをえない、と日本の世界平和に対する責務の重さを説かれた。

そのうえで「萬國の公是」に従い、「聯盟平和の實」をあげることを国民に求めた。F・R・ディキンソンはこの大詔について次のように述べている

五箇条のご誓文と同じく、平和克復の大詔は国民のあらゆる面に影響する根本的な改革の公式な声明文として読むべきである。そして、そのもっとも根本には五箇条の御誓文と同様、世界における日本国の位置について劇的に新しいビジョンがあった。

明治天皇の「五箇条のご誓文」では「天地の公道に基づくべし」「知識を世界に求め」と欧米先進国に伍していく日本国のあり方を希求したが、大正天皇の「平和克復の大詔」では世界平和を担う5大国の一員として日本国の責務を謳っている。この「平和大国日本」こそ「劇的に新しいビジョン」であった。

日本が国際政治・外交において中心的な地位を占めるようになれたのは、武力や経済力だけではない。世界平和を希求する国際的リーダーシップを発揮した国であったからこそであった。そしてその象徴が切実に平和を希求された大正天皇であった。

大正時代の「平和大国日本」のビジョンと、それを象徴された大正天皇の事績は、大東亜戦争後、戦前の全てを悪とする自虐史観によって覆い隠された。しかし現代の日本が「国際協調に基づく積極的平和主義」を求めるのであれば、すでにそのビジョンは大正日本によって示されているのである。

(文責:伊勢雅臣)

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