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「外交も戦争も全て情報戦によって決まる-コミンテルンと昭和史の真相」②共産主義の謀略、浸透工作に日本は無防備だっ

2011-06-16 | 歴史の書き換え
「外交も戦争も全て情報戦によって決まる-コミンテルンと昭和史の真相」


②共産主義の謀略、浸透工作に日本は無防備だった

そもそも地理的にも身近な脅威であるソ連に対抗するために反共を国是とせざるを得なかった大正の日本であったが、1925年(大正14年)には日ソ基本条約を締結して世界でもいち早くソ連を承認して、外交関係を持とうとしたことを忘れてはならない。そこには、戦前の日本が一貫して、共産主義の謀略や浸透工作に、主要国の中で最も鈍感であったことが要因としてあった。しかし共産主義とソ連の工作はすでに広く深く日本国内にエリート層を中心に浸透しており、思想的な広がりを食い止めるために同時に制定したのが「治安維持法」だった。

共産主義は、国家の転覆を主要目的とした政治運動である。それを犯罪とするならば、治安維持法が言論弾圧をして戦争のための国家体制を整え、暗黒の時代をもたらしたという議論は、いわば取り締まられる「犯罪者」の立場に立った議論であり、国際的にはソ連・コミンテルンの立場に立った偏った評価である。治安維持法の制定、あるいは日本共産党や労働党員ら一千人が検挙されて言論の大弾圧といわれた昭和3年の「三・一五事件」、本質的には対外防衛、国家安全保障問題だったのである。

しかし、治安維持法それ自体は、欧米の反共法に比べ、実質的には穏やかなものであった。とくに、工作や転覆活動を取り締まる立法としては、甚だ不備なものであった。治安維持法を制定せざるをえない考えられた本当の理由は、共産主義イデオロギーが当時の日本でエリート層を中心に大きな影響力を持ったということにあったのだが、「思想」のみを問題にしたから、共産主義者の本質たる「偽装」を簡単に見逃し、「天皇」支持を唱えさえすれば「健全思想」と思い込み、多くの「偽装転向者」を支配層に受け入れてしまった。この事は、日本にとって誠に不幸な歴史の巡り合せであった。

ロシア革命から半年もしないうちに米騒動や過激な労働争議が続発し、同時に「大正デモクラシー」に発する各種の過激な破壊衝動が社会を覆っていた。明治後半から文明開化、西洋思想が蕩々として入ってきていた帝国大学のインテリ層、欧化主義のエリート層にとっては、こうした社会情勢もあって共産主義イデオロギーが「進歩的」に映ったのは一層大きな悲劇であった。京大教授であった河上肇がドイツに留学し、最新のヨーロッパ理論として共産主義思想を熱心に紹介し、欧米の「最新のものに飛びつきたい」といいう明治末期以来の気質の染まったインテリがこぞってそれに飛びついた。

その代表格が、日本史上最大のスパイ事件ともいえるゾルゲ事件において、ソ連工作員、リヒャルト・ゾルゲとともに摘発され死刑になった尾崎秀実である。尾崎は大正デモクラシーの唱道者であった吉野作造のつくった「東大新人会」に属したため共産主義に傾斜した。大正11年に結党された日本共産党の主要な活動家も、その多くは東大新人会の出身者であった。

このように、東大のキャンパス全体が大きく共産主義イデオロギーへの流れに傾斜していた。特に法学部や経済学部といった、いわゆる「社会科学」を学ぶ場に共産主義にシンパシーを感じる学者と学生が集まったのである。彼等は後の昭和10年代、政治や経済システムの範をソ連に取り、統制経済を推進した革新官僚、いわゆる「革新派」となる。共産主義運動に関与したとして治安維持法違反で摘発される「企画院事件」起こしたのも彼らである。

また大正末期から昭和初期にドイツに留学したり、東大に「依託学生」として入学したりした陸軍の軍人らが共産主義・社会主義の洗礼を受け、やはり昭和10年代に陸軍統制派として力をふるうようになった。統制派将校の武藤章、あるいは国家総動員体制をアピールした陸軍パンフレット「国防の本義と其強化の提唱」の執筆者とされ、内閣総合計画局長官も務めた池田純久らである。「天皇制」と共産主義・社会主義が共存しうるという、北一輝以来の思想的混迷が、軍人や高級官僚に蔓延していった。これこそ日本をあの悲劇に導いた最大の要因の一つであった。当然、ソ連・中国共産党の工作はそこを突いてきた。

勿論、彼らが直接的、意識的にコミンテルンに関わっていたとは考えられないが、二重、三重のクッション、たとえば共産主義者あるいはコミンテルン・エージェントであることを隠していた尾崎のような人物の接近を許し、無意識のうちに工作を受け動かされたエリート官僚・軍人は少なくなかったはずだ。そしてモスクワや延安がこうした各ネットワーク全体をオーケストレートしていくというパターンが作られていったと考えられる。こうしたパターンのコミンテルン工作の影響が、昭和戦前期の日本の指導者層には、それこそ充満していたであろう。






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