凄味は怪異談につき物であるけれど、凄味の多い怪異談はその割に少ないものである。尤も多くの怪異談はその話し方によつて凄味の出るときと出ない時とあるが、やはり凄味は材料の如何によつて左右される。
その材料にも色々あるが、主観的傾向を帯んだ怪異は、それを経験しる人にとつては、此上もなく凄いかも知れぬが、それを伝聞する場合にはそれ程凄くはない。之に反して、客観的傾向の多いものほど凄味は普通的であるやうである。その例として私はDufferin卿の経験した怪異談を紹介しよう。
D卿は一八九一年から一八九六年までパリーに駐箚した英国大使である。大使になるずつと以前、卿はある年アイルランドの旧友をたづねて、その家に宿泊したが、夜半に何となく胸苦しくなつたので、ベツドを離れて窓際に行き、月光に照された戸外の景色をながめた。するとむかふから一人の男が肩に何かを担いでゆるやかに歩いて来た。
やがてその男が目の前に来たとき、卿は男の肩にあるのが一個の棺桶であることを知つた。男はその時顔をあげて卿をながめたが、その顔はこの世のものとは思へぬ程蒼ざめて居た。さうして男は何ともいはずに通り過ぎ、程なく靄の中に姿を消した。
あくる日になつて卿はその家の界隈に死人はなかつたかとたづねたが、その家は勿論、附近にも不幸はなかつた。さうして、その男が誰であるか、又何処へ棺桶を持つて行つたのか、取り調べてもさつぱりわからなかつた。で、卿は恐らく幻影を見たのであらうと思つた。
幾年か経つた。卿はパリーに駐箚を命ぜられ、赴任して官舎にはいつた。ある日卿は晩餐会に招かれ、某ホテルに行くと、直ちにエレヴエーターへ案内されたが、突然卿は驚駭の叫び声を発して立ちどまつた。といふのは、エレヴエーターボーイが、嘗てアイルランドの夜半に棺桶をかついで通つた男だつたからである。そこで卿はその男の素性を知るためにくるりと後向いて事務所に行かうとしたがその時、ドシーンといふホテル全体をゆるがせるやうな大きな音が聞えた。
エレヴエーターの綱がきれて落ちたのである。乗つて居た客のうち半分は死に半分は助かつたが、ボーイは死人の仲間入りをした。
後に卿がホテルの支配人にたづねるとそのボーイはその日だけ臨時に雇はれたのであつて、名もわからねば住所もわからなかつた。
(『怪奇談叢』 小酒井不木)