清少納言は、恩讐をこえた高い世界にすんでゐる。枕草子的世界は、何人をも恨みはしない。道長も、彰子も、その他すべての人々が、同じやうに招かれる明るい華やかな饗宴である。かうして、中関白家的なものは、万人のためのものとなつた。個性的なものは、普遍的なものの中に、その本来の自らの個性をもつて参加し、正しく自らを位置づけたのである。中関白家の門閥の内部における動揺、焦燥、自己否定、さうしたものは、自己に加へる何物ももたなかつたやうに、他に寄与する唯一つのものももたなかつた。浮薄な徒の自信のない言動に対して、清少納言は憤りもしたであらうし、慨嘆もしたであらうが、やがて、さうしたこと自身が愚かしい自己矛盾にすぎないことに気づいたであらう。西の京にうらぶれて、まづしい老後の姿をさらしても、そこには精神の豊かさと高さとがあつた。生活の現実と苦闘しながらも、彼女の前には、若く高貴な定子の幻影があつた。彼女の行く道は、孤独のやうに見えても寂寥の道ではなかつた。平穏な、優雅な、静謐な道であつた。清少納言らしい清純な、明朗な生き方があり、彼女ひいては中関白家の過誤のつぐなひ、名誉の回復の道があつたのだ。深刻悲痛に見えた中関白家の没落の歴史は、いま枕草子をかいてゐる彼女にとつては、曙の海の潮ざいのやうに、あたらしい生命の誕生の声として、すがすがしく、しかも誇りかに回想し得られたのだ――と思ふ。枕草子を、反覆してよむ中に、いよいよその感を強くするのである。
源氏物語には、ふかぶかとした陰影がただよひ、余情がありそこはかとない和やかな情感のたゆたひがある。枕草子には、青春の明るさ、感覚と言葉の新しさ、すみきつた知性の返照がみられる。一方は深い人間的感動に沈み、一方は明るくするどい観照に徹してゐる。このやうな個性をもちながら、しかも、二つの作品には、どこかになつかしい心の微風が感じられる。それは、例へば、前者においては花の香をはこぶほのかな夕ぐれの風であり、後者においてはさはやかな夜明の海のそよ風であつて、幽玄と明澄と、性格的な相違はあつたにしても、それらは平安時代の「みやび」の精神を象徴し、人間性の永遠を示唆するものであつた。一方的でなく、極端でなく、中正優雅な世界のものであつた。そのやうな意味において、清紫二女の作品は、すべての人々の魂をうるほし、その精神を豊かにすることの出来るものである。
枕草子は敗者の作品ではあるが、敗残の文芸ではない。崇高といふ言葉は、われわれの精神生活において、容易に使はれるべき言葉ではないが、清少納言のやうなしつかりした生き方があのやうな動揺と混乱のさ中になされ、つひに枕草子のやうな異色のある作品をなさしめ、その精神の系譜を長く後世に伝へたといふことは、やはり崇高の言葉をもつてよぶに値するものではないかと思ふ。
(『清少納言論』 池田龜鑑)