美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

枕草子はほろびゆく権門への挽歌である(池田龜鑑)

2024年09月21日 | 瓶詰の古本

 清少納言は、恩讐をこえた高い世界にすんでゐる。枕草子的世界は、何人をも恨みはしない。道長も、彰子も、その他すべての人々が、同じやうに招かれる明るい華やかな饗宴である。かうして、中関白家的なものは、万人のためのものとなつた。個性的なものは、普遍的なものの中に、その本来の自らの個性をもつて参加し、正しく自らを位置づけたのである。中関白家の門閥の内部における動揺、焦燥、自己否定、さうしたものは、自己に加へる何物ももたなかつたやうに、他に寄与する唯一つのものももたなかつた。浮薄な徒の自信のない言動に対して、清少納言は憤りもしたであらうし、慨嘆もしたであらうが、やがて、さうしたこと自身が愚かしい自己矛盾にすぎないことに気づいたであらう。西の京にうらぶれて、まづしい老後の姿をさらしても、そこには精神の豊かさと高さとがあつた。生活の現実と苦闘しながらも、彼女の前には、若く高貴な定子の幻影があつた。彼女の行く道は、孤独のやうに見えても寂寥の道ではなかつた。平穏な、優雅な、静謐な道であつた。清少納言らしい清純な、明朗な生き方があり、彼女ひいては中関白家の過誤のつぐなひ、名誉の回復の道があつたのだ。深刻悲痛に見えた中関白家の没落の歴史は、いま枕草子をかいてゐる彼女にとつては、曙の海の潮ざいのやうに、あたらしい生命の誕生の声として、すがすがしく、しかも誇りかに回想し得られたのだ――と思ふ。枕草子を、反覆してよむ中に、いよいよその感を強くするのである。
 源氏物語には、ふかぶかとした陰影がただよひ、余情がありそこはかとない和やかな情感のたゆたひがある。枕草子には、青春の明るさ、感覚と言葉の新しさ、すみきつた知性の返照がみられる。一方は深い人間的感動に沈み、一方は明るくするどい観照に徹してゐる。このやうな個性をもちながら、しかも、二つの作品には、どこかになつかしい心の微風が感じられる。それは、例へば、前者においては花の香をはこぶほのかな夕ぐれの風であり、後者においてはさはやかな夜明の海のそよ風であつて、幽玄と明澄と、性格的な相違はあつたにしても、それらは平安時代の「みやび」の精神を象徴し、人間性の永遠を示唆するものであつた。一方的でなく、極端でなく、中正優雅な世界のものであつた。そのやうな意味において、清紫二女の作品は、すべての人々の魂をうるほし、その精神を豊かにすることの出来るものである。
 枕草子は敗者の作品ではあるが、敗残の文芸ではない。崇高といふ言葉は、われわれの精神生活において、容易に使はれるべき言葉ではないが、清少納言のやうなしつかりした生き方があのやうな動揺と混乱のさ中になされ、つひに枕草子のやうな異色のある作品をなさしめ、その精神の系譜を長く後世に伝へたといふことは、やはり崇高の言葉をもつてよぶに値するものではないかと思ふ。

(『清少納言論』 池田龜鑑)

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一度も逢ったことのない詩人が送って来た含羞混じりの詩稿を読んで、翌日その処女詩集へ序文を寄せた太宰治(宮崎讓)

2024年09月18日 | 瓶詰の古本

 太宰治の死の一ヶ月程前、私は女房の病気やその他、苦しいことが重つて、どうにもならぬとこまで行詰り、三十四枚の小説を書き、さすが自身ではもつてゆく気はしなくて郵便で送つたことがあつた。ちようど彼がサッチャンとすべり落ちた人喰川の対岸の桜並木を歩きながら、私は私なりの悲痛な思いで歩いたことがいま思いだされる。
 太宰治と初めて知合つたいきさつを、その小説にも少し書いたが。
 銀座裏のミュンヘンというビヤホールで飲みながら、買つてきた雜誌の中のデカタン抗議という短篇を読み驚嘆し、その夜は、その短篇のために、テーブルいつぱいジヨッキを林立さして泥醉し麹町六丁目にあつた下宿にかへり、作家に出す初めての手紙を書いた。
 私は妙な思いやりから、思いやりとは変な言葉だが、皆んな色々と繁忙だろうに、と思うとつい、弱気、恥かしがり屋の、まためんどくさがり屋でもある私は、手紙を出すことも、訪ねるということもできないのであつた。またそれ程、感心はしても、ほれこむ作品に接したことがなかつた、私という男はほれこまなければなにもできない性質の男なのである。
 当時私は、詩にも小説にも絶望して、ぎりぎりの探究の果てに、やつと光りを見出し、散文詩型の長い詩を三篇書き上げ、いささか期するところがあつた。
 ところが「デカタン抗議」である、私はペシヤンコになつた、素直に負けた、むしろ、こころよい敗北であつた、私は彼にほれこんで終つた。
 彼との交遊はそれを機会にはじまつた。
 私がはじめて詩集を出版する時、本屋が誰かの序文がないと一寸具合が悪いというので、速達でゲラ刷を送り序文を頼んだ、ところが折返し速達で序文が送られてきた、私はその時の感激をいまだに忘れない。詩集は彼の序文のために当時としては異例の再版になり本屋は大喜びであつた。
 その後、まだ料理屋、カフヱーなどが自由に営業できた頃、三鷹の彼の家を朝から夕方までかかつてやつと探しあて、初対面し、三鷹の町を飲み歩き、町中のカフヱー、料理屋を二回づつも廻り最後に八百屋の店で、白緑色鮮やかな、ネギに目をうばれた私は、それを買い求めた、そのすきに、彼は紅いリンゴをいくつもふところにねぢこみ素知らぬ顔で表に出た。ネギ、をぶらさげた私と、リンゴでふところをふくらませた彼と夜更けの町をひよろひよろとさまよつた、そうしたことが酒飲みの無邪気さとして許された、のびやかな時代だつた。
 戦争末期、私は工場に徴用され新潟県の田舎町に工場疎開で連れてゆかれた。
 彼も甲府や郷里に疎開して逢う機会はなかつた。
 終戦になり、彼は三鷹の家にかへり、私も現在の寮にすむようになり、歩いて十分程のところだもので度々訪ねるようになつた。
 彼も、私の十八畳の部屋に訪ねてくれ、配給の酒をくみ交したこともあつた。
 彼はひどい含羞み屋で、私の女房が応接にでても顔そむけて、ぼそぼそと用件をつげるというようなところもあつた。
 運悪く私も女房も家を空けていた時、はしりの筍を縄で結へ持つてきてくれたことがあつた、隣りのおばさんにことづけてあるのを外出先からかへつて知り、そういう時の彼に逢へないのはいかにも残念であり、人嫌いな彼には残酷な思いさへしたことであつた。

(『太宰治のこと』 宮崎讓)

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「インテリ」は嫌われると分かっているのでそれを恥じ悪ぶって見せる有象無象はいくらでもいるが、金銭的成功こそ知力学力優越の証明だと陰に陽におごり高ぶる根性だから太宰治の魂とは永劫交錯しない(豐島與志雄)

2024年09月14日 | 瓶詰の古本

「‥‥この頃、教養人は、強くならなければならない、と私は思ふやうになつた。いはゆる車夫馬丁にたいしても、バカヤラウと言へるくらゐに、私はなりたいと思つてゐる。できるかどうか。ひとから先生と言はれただけでも、ひどく狼狽する私たち、そのことが、たゞ永遠の憧れに終るかも知れないが。――教養人といふものは、どうしてこんなに頼りないものなのだらう。ヴァイタリティーといふものがまつたく、全然ないのだもの。」
 これは、私の或る著書の解説として、太宰治が最近書いた文章の一節である。随つて、この私に関するものであるが、実は、太宰自身の感懐の一端だと、文意からして見られる。
 茲に言ふ教養人とは、知識豊かで作法正しい文化人の謂では勿論ない。或る種の躾けを身につけて、慎み深く、羞恥心強く、心ばえやさしく生れついた人のことだ。――さういふ風に生れついた人だと、私は太宰を観る。而も彼の生家は、旧家であり大家である。彼のうちには、古くからの血が凝集し淀んでゐたらう。その上、早くから健康を害し、麻薬にも親しんだ。体躯は頑丈で、しんが強かつたやうだが、最後まで肺の宿痾は癒えず、薬剤を離さなかつた。
 自分自身が頼りないのだ。文学をやりかけたからには、どうしてやりかけたかは神のみぞ知る、ひたむきにやり遂げるより外はない。捨身の途だ。彼は「新約書」を最も愛読し、どういふ風に読んだかは分らないが、捨身の心構へを知つてゐた。だが、生身の人間を取扱ふ文学にあつては、肉体を殺して魂を救ふことには、憂苦が伴ふ。憂苦の底から、人間としての愛情の手を彼は差伸べる。
 作家にとつては、その作品の一つ一つが、何等か永遠恒久なものを求むる魂の彷徨の、途上の足跡である。太宰のこの足跡には、彼が差伸べた愛情の手の、或は受諾がこめられてをり、或は拒否がこめられてゐる。多くは、受諾と拒否とが交錯し綯れ合つてゐる。一方的な端的な愛情表白を、彼は自ら恥ぢ照れて、その照れ隠しに、己が愛情を自ら踏みにじるやうな擬態さへも装ふ。そして痛快さうに嘯く。そこに彼の作品の道化た面貌が生ずる。
 作品は現実の転位の場に於て構成されるものであり、虚構の世界に実現する。そしてこの虚構の世界での、太宰の道化た面貌は、微妙な表現の綾を纒ふ。或はひらひらと舞ふ蝶の翼の如く、或は蜘蛛の糸を伝はる露の玉の如く、変転自在で不定着な美しさを持つ表現だ。
 この表現の綾をめくれば、太宰の愛情の指向が明瞭になる。純なもの、やさしいもの、無垢なもの、功利的に利用され得ないもの、つまり無償の美を、彼は愛する。意義づけること、価値づけることを、彼は常に避ける。たゞ美しく光つてゐること、それだけでよいではないか。意味を探す必要はない。だが、無償の美は、至つて脆く害はれ易い。それは身を以て護らねばならない。そしてこの愛情が強ければ強いほど、その反対物に対する憎悪も強い。さういふ愛憎の烈しさが、太宰の作品の底にひそむ。

(『太宰治の癇癪』 豐島與志雄)

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一葉さんの文章句法を子規先生と語る、思い出すに涙がほろほろこぼれて来る(佐藤紅綠)

2024年09月11日 | 瓶詰の古本

 一葉さんが死んだ翌年頃でした、正岡(子規)先生が私にたけくらべを読だかと問はれました、読みましたけれども解りませんと答へた、すると先生は笑つてあれが解らないやうぢや仕様がない、天下の名文だのにと言はれました、私は先生から天下の名文といふ声を聞て非常に驚いて早速読で見ました、気の故かも知らんが成程名文だと思ひました、翌日先生の病床に侍して、名文ですなと昨日の御言葉を鸚鵡返しに言ふと先生は何処が名文だと屹度向はれたです。
 一体うちの先生は妙な人で、折り折り試験めいた事を門人に喰はす、うつかりすると頗る狼狽する事があるので、そこの骨(こつ)は私が横着もの丈けにちやんと心得て居る、前夜もたけくらべを読だ時に既に其の下心をして読だのだたら驚かない、例令ば西鶴の骨に近松の肉を着けたやうなものですと答へた、すると先生は只だ其んな平凡な事を考へたのかと横を向かれた、いや其れ許りではありません、今の作家でいへば露伴と紅葉を兼ねた筆致と思ひますと言ふた、うむ爾かと先生はいふた、露伴は筆が剛健であるけれども色気が乏しい、紅葉は流麗であるけれども力が足らぬ、色気と力とを兼ねて、一葉一流の情のある色彩で運んで行く其間の句法の引締つて居る事は天下無比ですと恁う言ふと先生は枕を代えて、引締つて居る、爾だ一点の隙もない、いゝ処に気が付いたと機嫌がよかつたです、私は嬉しいので未だに忘れない。
 つい此頃も一葉全集を取出して見て、其時の事を思ひ出し、うちの先生も一葉さんも既に亡き人だと思ふと詰らない話だが只だ訳なしに涙がほろほろこぼれて来るです、回想は妙なものですね、もう一返繰返して読て見ると、十年前に私が先生の前で言ふた事と今とは考が違つて居ません、文章は実にうまいものです、引締つて居るです、私は確かにたけくらべの文は露伴紅葉以上だと今でも信じます、さうです、文章の上です小説としては別問題でせう、何だつて今日はモウパツサンやダンヌンチオが流行り出してる時代でせう、今日の小説としては如何なものか其れは言はないでもわかりませう。

(『一葉女史の作品』 紅綠)

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学者もどきの論調や口先広言の宣伝に馭されるかしてであれ、偽善や理不尽を憎む真率な心根が独裁(的扇動)者に跪伏する熱い忠誠へと一気に変異することなどあるだろうか(ローゼンベルク)

2024年09月07日 | 瓶詰の古本

「ナチス官吏新聞」一九三四年四月十五日。古典的ともいふべき簡潔さで以下の短文章において、ドイツの全官吏に対するナチスの要求が叙述されてゐる。それらの要求によつて官吏は官僚の牙城から引出されて、再び人民の味方とならざるをえなくなつたのである。

 国家に対する官吏の関係に二種ある。一つは国家及びその元首において、言はゞ雲上に高く王座する権力が理解され、その権力は、独裁的に上から巨大な官吏の階級組織を指導するのであり、もう一つの関係においては人格的な忠実及び義務感情が支配するのである。エヂプトの国家、後にはローマ帝国が第一の種類の官吏国家であつた。前者においては、最上の官吏を通して神の如く崇められるファラオー(エヂプト王。)が支配し、後者においては、ツェーザール或ひはアウグストゥスの姿において一人の半神が支配してゐる。
 ゲルマンの人間は本能的にかくの如き関係に対して反抗し、そして国家に奉仕する要素をば常に、ドイツの太公(ヘルツオーク)或は王を彼の扈従と共に結びつける形式と結合した。それがプロイセンの官吏並びにプロイセンの官吏の本来の秘訣であつた。後の時代には抽象的な学説に影響されて、ドイツ本来のこの有機的真理が忘却された時があつた。例へば一九一八年十一月九月(十一月九日、ミュンヒェンにおいて共和政体が布告され、九月皇帝は退位した。)以前並びにそれ以後の官吏は、屡々人民の被委託者よりは上から支配する族籍(カステ)の所属者といふやうな気持をもつてゐたのである。
 かういふ把握は、ナチス革命によつて根本的に変化せしめられた。そして官吏青少年の教育はそれがためにヒットラー青少年の教育と全く等しい意味において、総統に対する扈従といふ直接的な人格的な忠実感情の上に建設されねばならなくなつた。この決定的な内面の転回に、未来におけるあらゆる外面の形式も依存してゐる。それがためにドイツの官吏団体の上には、非常に大いなる責任と共に、己れの職分を果すべき、元気よく堪へらるべき義務も存するのであるが、さうすれば新しい世界観的及び国家的の根本形式の上に、新しい生活が活動し始め、来るべき世紀の暴風雨に反抗せずにはゐない新しい生活形式が設定されるやうになるであらう。

(『官吏と總統』 ローゼンベルク 吹田順助譯)

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最近買った本

2024年09月05日 | 瓶詰の古本

「惡靈」(ドストイエフスキイ著 森田草平譯 國民文庫刊行會 大正5年)
「宝石 第六巻第二号」(岩谷書店 昭和26年)
「天国荘奇譚」(山田風太郎 桃源社 昭和39年)
「対極」(アルフレート・クービン 野村太郎訳 法政大学出版局 1971年)
「ヒトラー日記」(リチャード・ヒューゴー 田中昌太郎訳 東京創元社 1984年)
「芥川龍之介全集 第一巻」(芥川龍之介 岩波書店 1995年)

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幻夢創造者への憧れを懐深く蔵し、うつつに悠揚たる人格と誼みを結ぶ喜び(梅崎春生)

2024年09月04日 | 瓶詰の古本

 応召の時、今まで書き溜めた日記帳のたぐひを友人にあづけたところ、その友人がまた外にあづけ、復員してきたらもうどこにあるのか判らなくなつてゐた。その日記帳がつい近頃、偶然の機会で私の手もとに戻つてきて、久しぶりでなつかしい旧友にめぐり合つたやうな気がした。一番なつかしかつたのは中学五年の時の日記で、昭和七年新潮社版の『新文芸日記』といふのである。当用日記でなく、こんな日記を買つたのは、私が文学少年だつたせゐである。
 この日記は文芸日記だけあつて、月々の最初の頁に作家の筆跡をのせてゐて、三月の最初の頁は、江戸川乱歩の筆で「恐ろしき身の毛もよだち美しさ歯の根も合はぬ五彩のオーロラの夢をこそ。乱歩」と印刷してある。日記が戻つてきて、久しぶりにその筆跡に接し、当時のことを思ひ出した。当時の私は甚しい探偵小説熱にとりつかれてゐて、そのおかげで学校の成績もあまり良好ではなかつた。
 日記の巻尾の現代文士住所録でしらべると江戸川乱歩氏の住所は「東京市外戸塚町源兵衛一七九」となつてゐる。戸塚源兵衛が当時は東京市外だつたといふところにおもむきがある。
 現代文士年齢表といふところを見ると、江戸川乱歩氏は三十九歳のトップに名があげられてゐて、つづいて小島政二郎、瀧井孝作、佐佐木茂索などの名がある。平林たい子だの伊藤整などはその頃まだ二十八歳だ。三十九歳といふと、今の私と同じ年齢である。
 日記の末尾に、次のやうな社告が出てゐる。
『本日記の月々のはじめに掲げてある文壇十二名家の題辞――その真筆原稿を、本日記の読者諸氏にお頒けします。いづれも色紙に書かれたもので、諸氏の書斎を飾るに足ることは申すまでもありません。
 希望者は、巻末挿入のはがきに、某氏筆希望と記し、昭和七年二月一日迄に本社にお送り下さい。希望者多数の場合は、抽籤によつて選定します。なほ抽籤の結果は「文学時代」三月号で発表します。
         新潮社出版』
 彼は早速巻末挿入のはがきに、江戸川乱歩筆と記入し、新潮社に送つた。そして「文学時代」三月号に私の名はなかつた。
 戦後乱歩氏と近づきになり、一緒に新宿で酒を飲んだり、映画にチョイ役として共演(競演?)したりもした。そのよしみで言ふのではないけれども、江戸川さん、二十数年前の「恐ろしさ云々」の文句を色紙に書いて、それを私にいただけませんか。いや、そのうちにムリヤリにいただきに上ります。

(『恐ろしさ身の毛もよだち…』 梅崎春生)

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一緒に戯れ可愛がっている魚にかかった針金を外してくれたと、池の白蓮から恩返しをもらった男(田中貢太郎)

2024年08月31日 | 瓶詰の古本

 橋のまはりの池の中には、瓦斯燈の燈を受けて白や紅の蓮の花が青絹を地にして咲いてゐるのが見える。遠くの暗い水の中には附近の人家の燈火が錦のだんだらを織つてゐる。其の蓮の花も池の水も、これまでに鼎の見た花でも水でもなかつた。それは気品と云ふよりは神秘の影の縹渺としてゐるものであつた。
「此処よ」
 二人は電燈のほつかりと点いたこぎれいな家の前に来てゐた。鼎は辯天堂の傍に一軒の料理屋があることは知つてゐるが、さうした家は知らないので不審した。
「入りませう」
 女が入つて往くので鼎も其のまま入つた。二人の小女が出て来て一行を右の方の室へ案内した。其処は六畳ばかりの奥まつた室で、紅い燈が静に点いて、室の真中に食卓をおき、正面の平床には淡彩のある画の軸をかけ、下の花瓶に女郎花のやうな花を活けてあるのが見られた。
「お坐りなさいよ、私も坐りますわ」
 鼎は白昼飲んだ酒の醉が出たやうでぼうとなつてゐた。其の鼎の眼に小女の酒や肴を運んで来るのが見えた。
「さあ、お酌いたしませう、おあがりなさいよ」
 鼎は云はれるままに酒を飲んだ。女の白い顔は近くにあつたり遠くにあつたりした。
「踊りませう」
 女はほつそりした白い姿が蓮の花の動くやうに見える時があつた。
「あなたは、さつき私の可愛がつてる子供の面倒を見てくださつたわ、ね、私はそれが嬉しいので、あなたにお礼にあがりましたわ、でも、これがお眼にかかる最後ですわ、あなたは、私と別れたなら、何の汽車でも好いから、すぐ其の汽車に乗つて旅に出てくださいね、忘れてはいけないのですよ、すぐですよ、そして、一月か二月の後には、私の変つた姿をお眼にかけますわ」
 女と話してゐた鼎は何かの拍子に驚いて眼をさました。そして、鼎は驚いた。彼は朝の上野駅の待合室に腰をかけてゐた。鼎は其のとき私と別れたら何の汽車でも好いから、すぐそれに乗つて旅に出てくれと云つた女の詞をはつきりと浮べた。と、急に旅行がしてみたくなつたので、其の時発車しようとしてゐる青森行の汽車に乗つて、水戸の友人の許へ往つた。
 其の日は九月一日の大地震の日であつた。鼎は清島町の住居を心配したが、どうすることもできないので、瀧野川にゐる友人の許へ手紙を出して置くと、一箇月目に返事があつて、其の家が地震に潰れた上に焼けたことや、婆やは田舎へ帰つたと云ふことを書き、同時に仕事のあることも書いてあつたので、十月になつて東京へ帰り、ひとまづ友人の許に落ちついて焼跡を彼方此方と見て歩いた。まづ不忍池畔へ往つたところで、彼の鳥屋が焼け残つてゐるので、ちよと寄つて挨拶をしようと思つて、辯天堂の入口になつた石橋の傍まで往つたところで、ふと、地震の前夜のことを思ひだして、解けない謎を解かうとした。と、橋の左側の水の中がむくむくと動いて、鯉であらう三四匹の魚が浮いて来たが、其の魚といつしよに白い人間の腕のやうな物がひらひらと見えて来た。それは大きな白蓮の花弁の一つであつた。地震の翌日の火事の火に蓮の花の皆散つてしまつた不忍池に、其の時蓮の花弁のあるのは不思議であつた。鼎はふと謎の女の私の変つた姿をお目にかけますと云つた詞を思ひだした。見ると其の花弁の一方は、藍色の山女のやうな魚がくはへてゐた。

(『蟲採り』 田中貢太郎)

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口達者で学業成績抜群の優越的知能は人を思いやる善心と全く因果関係がないので、私利欲心に知能をふりしぼる厚顔無恥の優越者は平然と現実の破滅をもたらす(桐生悠々)

2024年08月28日 | 瓶詰の古本

 ローゼンベルグはいふまでもなく、ナチス的世界観の建設者であつて、その形成と深化との為に、最初から、闘争の第一線に立つた人である。だから、ドイツの全体主義を批判するには、先づ彼の思想を分析しなければならない。
 彼はその著「理念の形成」に於て、「霊魂的に打建てられた人種学」を以て、ナチス的世界観中、特に優位を占むるものとなし、人種即霊魂、霊魂即人種であるといひ、又その著「二十世紀の神話」に於て「魂は内面から見た人種に外ならぬ、そして逆に、人種は魂の外面にある、人種魂を生き返らせるには、その最高価値を認識し、そしてその支配の下に他の諸価値のそれぞれの有機的地位――国家、芸術、及び宗教の地位――を指定する謂である。新しい生命の神話から、新しい人間類型を創造する。これが我々の世紀の任務であると言つてゐる。ドイツがしかく残忍にもユダア人を圧迫しつゝあるのは、怪しむに足らない。なぜなら、全体主義そのものは人種学であり、従つて人種偏見に陥つてゐるからである。
 尚こゝに注意しなければならないのは、ローゼンベルグはヱツクバルトの神秘主義から出発してゐることである。ヱツクバルトによれば「人間は自由であり、又あらゆる彼の善行の破壊すべからざる、うち克たれ難き主人であるべきはずである」だが、彼は人間のこの自由をヒユーマニズムにまで拡張しない。この自由なるべき人間、自由なるべき魂を以て、「霊魂の火花」によつて、自己の内部に於て、神と合一されるべきものとした。言ひかへれば、自由なる魂とは、霊魂と神との神秘的な合一、霊魂自身の深き内面に於ける神の神秘的な直感を意味する。一言にしていへば、神かゝりのものである。ローゼンベルグはヱツクバルトのこの神秘主義を生物学的、有機体説的に発展せしむることによつて、即ちゲルマン民族的な「自由」の概念に到達した。自由とは種への拘束の謂であつて、この事のみが最高可能なる発展を保証し得るのであると言つてゐる。全体主義が人間としての自由を拘束して、ゲルマン民族にしての自由のみを放縦に発展せしめてゐるのは怪しむに足らない。
 かく分析し来ると、ナチスの自由哲学は血の信仰、血の宗教である。第一に、それは哲学科学でなくて、血の宗教であり、第二に、それは全体人間の部分でしかあり得ない種族(人種)の魂を最高全体者となすものだから、それは却つて非全体主義であるといはねばならない。
 ヱツクバルトの神秘主義の復活は、現代に於ける非合理主義の、特にドイツに於けるその旺盛なることを物語つてゐる。だが、これは他の国に強いられるべき思想ではなく、又他国も遽に取つて以て、己の思想とすべきものではない。否、それどころではない。これはまた北方的ゲルマン的・ヨーロツパ的・人種のいはゞ先天的なる優越性を説くものとして、アジア及びアジア人に対して敵対的のポーズを示してゐるものである。ヨーロツパ的・ゲルマン的のものに対しては、アジア的なるものは一切悪であり、アジアの文化の劣等性はアジアの本性、アジアの血に基く永遠の宿命であるといふことになる。(昭和十三年十二月)

(「畜生道の地球」 桐生悠々)

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繊細に過ぎる内心を叩き伏せようと、豪傑小説に流れる図太い超越思想を倦まず力説した人(芥川龍之介)

2024年08月24日 | 瓶詰の古本

 水滸傳らしい――と云つただけでは、十分に意味が通じないかも知れない。一体水滸傳と云ふ小説は、日本には馬琴の八犬傳を始め、神稻水滸傳とか、本朝水滸傳とか、いろいろ類作が現れてゐる。が、水滸傳らしい心もちは、そのいづれにも写されてゐない。ぢや「水滸傳らしい」とは何かと云へば、或支那思想の閃きである。天罡地煞一百八人の豪傑は、馬琴などの考へてゐたやうに、忠臣義士の一団ぢやない。寧数の上から云へば、無頼漢の結社である。しかし彼等を糾合した力は、悪を愛する心ぢやない。確武松の言葉だつたと思ふが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だと云ふのがある。が、これは厳密に云へば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云ふのである。いや、もう一層丁寧に云へば、既に豪傑の士たる以上、区区たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云ふのである。つまり彼等の間には、善悪を脚下に蹂躪すべき、豪傑の意識が流れてゐる。模範的軍人たる林冲も、専門的博徒たる白勝も、この心を持つてゐる限り、正に兄弟だつたと云つても好い。この心――云はば一種の超道徳思想は、独り彼等の心ばかりぢやない。古往今来支那人の胸には、少くとも日本人に比べると、遥に深い根を張つた、等閑に出来ない心である。天下は一人の天下にあらずと云ふが、さう云ふ事を云ふ連中は、唯昏君一人の天下にあらずと云ふのに過ぎない。実は皆肚の中では、昏君一人の天下の代りに彼等即ち豪傑一人の天下にしようと云ふのである。もう一つその証拠を挙げれば、英雄頭を回らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある。神仙は勿論悪人でもなければ、同時に又善人でもない。善悪の彼岸に棚引いた、霞ばかり食ふ人間である。放火殺人を意としない豪傑は、確にこの点では一回頭すると、神仙の仲間にはいつてしまふ。もし譃だと思ふ人は、試みにニイチエを開いて見るが好い。毒薬を用ゐるツアラトストラは、即ちシイザア・ボルヂアである。水滸傳は武松が虎を殺したり、李逵が鉞を振廻したり、燕青が相撲をとつたりするから、万人に愛読されるんぢやない。あの中に磅礴した、図太い豪傑の心もちが、直に読む者を醉はしめるのである。……

(『江南游記』 芥川龍之介)

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今朝、目が覚める時

2024年08月21日 | 瓶詰の古本

 夢が次第に薄れて行く半睡半醒の淡い時間、夢の中でせっかく心通じ合い親しく交感した人(達)と二度と再び会えなくなるという、索漠とした悲愁が濃く厚く胸にひろがる。幼児のように腕を掴まれ、夢から追い払われる余りな遣る瀬なさに打ちひしがれながら、いつまでも夢の中に居残りたいと霞みがかる記憶の余映に取り縋る。
 直面する別離の悲しみは過去のものではない。幾度となく襲って来た過去の悲しみはみんな流れ去ってしまっているから、過去のものであるはずがない。かと言って、その別離が未来で待つものの前触れであるはずもない。予知・予感は虚仮に等しく、未来と何の関わりないお遊びにほかならない。たとえ自分に与えられた過去や未来があるとして、これほどに痛切な悲しみを孕んだ別れはないだろうに。
 現実はとりもなおさず希薄扁平に出来上がっていて、そこで起こる偶然だとか必然だとかいう眉唾な現象は喋々するまでもない、はかない独り合点に過ぎない。こうした現象(と見えるもの)は、智慧の生噛りによる安物の神秘主義みたいなものだ。出来事が過去から未来へ一糸一筋に連なっているものであるとするならば、そこにおいて、偶然、必然を区別して何か魅惑的な彩りが添えられるとでも言うのだろうか。いっそ、夢の世界におけるように、論理の整合に束縛されることのない、緩急自在に可逆的跳躍的世界の方が清々しくも懐かしく、温かくも親しみやすい現実そのものなのではないか。
 夢の覚め際の別離の悲しみが底知れず痛切なのは、過去や未来の現実とは別のところからやって来るものとしたら、ひょっとして収まりがつくような気もする。
 夢とは、限りなく美しい喜怒哀楽に人をたっぷり浸しておきながら、あたたかい情感をいきなり断ち切り、我一人だけがそこから無体に引っ剥がされる痛苦を与え、幻覚として括れない実在が目の前以外にもあることを暗示するものとも。

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口達者な才子が学業成績抜きん出てどれほど偉くなろうと、豚的幸福は我が身のことと感知し得る正気が有るか無いかは全く別の話(夏目漱石)

2024年08月17日 | 瓶詰の古本

 「ハヽヽヽ夫れぢや刑事の悪口はやめにしやう。然し君刑事を尊敬するのは、まだしもだが、泥棒を尊敬するに至つては、驚かざるを得んよ」
 「誰が泥棒を尊敬したい」
 「君がしたのさ」
 「僕が泥棒に近付きがあるもんか」
 「あるもんかつて君は泥棒に御辞儀をしたぢやないか」
 「いつ?」
 「たつた今平身低頭したぢやないか」
 「馬鹿あ云つてら、あれは刑事だね」
 「刑事があんななりをするものか」
 「刑事だからあんななりをするんぢやないか」
 「頑固だな」
 「君こそ頑固だ」
 「まあ第一、刑事が人の所へ来てあんなに懐手なんかして、突立て居るものかね」
 「刑事だつて懐手をしないとは限るまい」
 「さう猛烈にやつて来ては恐れ入るがね。君が御辞儀をする間あいつは始終あの儘で立つて居たのだぜ」
 「刑事だから其位の事はあるかも知れんさ」
 「どうも自信家だな。いくら云つても聞かないね」
 「聞かないさ。君は口先許りで泥棒だ泥棒だと云つてる丈で、其泥棒が這入る所を見届けた訳ぢやないんだから。たゞさう思つて独りで強情を張つてるんだ」
 迷亭も是に於て到底済度すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙つて仕舞つた。主人は久し振りで迷亭を凹ましたと思つて大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張つた丈下落した積りであるが、主人から云ふと強情を張つた丈迷亭よりえらくなつたのである。世の中にはこんな頓珍漢な事はまゝある。強情さへ張り通せば勝つた気で居るうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落して仕舞ふ。不思議な事に頑固の本人は死ぬ迄自分は面目を施こした積りかなにかで、其時以後人が軽蔑して相手にして呉れないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのださうだ。

(「吾輩は猫である」 夏目漱石)

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父や母を想い生きて還る者、還らぬ者の間は紙一重もない(火野葦平)

2024年08月14日 | 瓶詰の古本

 ビルマから復員してきた高山三郎の歓迎会に、私もよばれた。私は一升びんと魚をさげていつた。
 うすぎたない松野町の陋屋は、その夜は、よろこびにかがやいて、かつてない豪奢なうたげの準備がすすめられてゐた。
「戦地では、お父はんとお母はんのことが忘れられんでな」
 復員軍人に特有な、うれしげな、さびしげな、当惑したやうな、ほうとした表情で、父に似た細面の三郎は、ぽつりぽつりと話すのであつた。
「激戦のときにや、なんぺんでも、死ぬ目に会うた。そんなときにや、持つとつたお父はんとお母はんの写真のことがすぐ気になつて、ポケツトから汗でよごれた写真をとりだして、地に埋めた。そんあとで、どうやら命びろひすると、また惜しうなつて、写真を掘りだした。そんなことが三四度あつた。そんたびによごれてな……、」
 こんなになつたと、大切にしてゐた一枚の写真を出した。
「ほう、そげえ、心配したかのう」
 タキは涙ぐんできいた。東作も胸がせまり、自分にはこんな悪い女房でも、やつぱり息子にとつては大切な母親なのだと、すばらしい発見をしたやうな顔をした。
「もうひとつ、お父はんが、出征のときとくべつに打つてくれた小刀、大事にもつとつたが、これは切れものぢやから、取られた」
 このごろ、また馬車を一台買つたといふ西作がきて、腐つたやうな赤鼻をなでなで、
「今夜は腰がぬけるまで飲まうで、南方に行つたもんな、たいそう酒がつようなつとるちゆうから、久かたぶりで太刀うちぢや」
 甥の肩をどんとたたき、腹をゆすつてわらつた。
 三郎はしづかなまなざしで、私の方をむいて、こんな話をした。
「博多からあがつたんです。コレラがはやつとるとかで、四日も沖にとめられて、ぢれつたかつたんですが、やつとあがれました。大濱の築港にあがると、あすこから呉服町の方にまつすぐに広い鋪装道路がつづいてゐるでせう。あのひろびろとした白い道路がたいへん美しくみえて、ああやつと日本へかへつたと、涙がでました。片倉ビルの高い建物を目標にして、駅の方に歩いてゆきました。復員の姿はだれもおなじで、乞食のやうな恰好です。暑い陽が照つてゐました。すると、私はそのひろい道路に向ふむきにしやがんで、なにかをひろつてゐる十くらゐの男の子にきづいたのです。なにをしとるかとききますと、どうせ、戦災孤兒かなんかでせう。可愛いい顔をあげて、もつたいないから米をひろつてゐるのだといひます。気がつきますと、左手に米粒をためてゐます。みると、その子供のしやがんでゐる足もとから、ずつと片倉ビルの方へ、一直線に、白い紐をひつぱつたやうに、米粒がならんでつづいてゐます。きつと、トラックか荷車かなんかが、こぼして行つたんですね。それを子供が一粒づつひろつてゐるんです。それをみると、私はまた鼻がつんとしてきましたが、なにか重かつた足どりが急にかるくなつたやうな気がしました」
 夏の日の鋪道を一直線につづいてゐる白い米の線、それをこつこつとひろふ孤兒、それをぢつと見てたたずんでゐる復員の兵隊、私の眼のまへに、その情景がはつきりとうかび、この兵隊が結婚することにきまつたといふ、久留米の在にゐるといふ先代肥後守の孫娘のことを思つた。

(『小刀肥後守』 火野葦平)

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酒の虫(加賀淳子)

2024年08月10日 | 瓶詰の古本

 漢詩を読むと、しばしば「一杯の酒」とか「美酒」という語に接する。
 はては「揚子江ほどの酒を呑みほす」などという垂涎万丈式の文句がとび出してくる。壮大華麗、まるで酔ったような気分になる。
 さて、その揚子江で思い出すのは、昔春秋の時代のこと、史上に有名な越王勾践が呉の夫差を討伐した時のこと、
 ある者が干飯を一袋持ってきて捧げた。勾践は止むなく一袋の米を数万の軍兵に分配した。感泣した士卒らは数人で一粒の干飯をくだき割って、越王の厚意にむくいた。
 その後、ある者が戦勝を祝って、勾践に美酒を一樽プレゼントした。
 勾践はこの美酒を、戦塵にまみれた愛する部下にわけてやりたいと思った。しかし酒は一樽、部下は数万。どう分配のしようもない有様。
 しばらく思案していた彼は、部下を呼びよせて言った。
「貰った樽の酒は、かのとうとうたる揚子江に流せ」
「あの祝い酒を!」
「そうだ、将卒数万、われともどもに揚子江の水を飲んで戦勝を祝おう」
 ――支那のこういう逸話には、どことなく空とぼけた雄大なおもむきがある。
 酒といえば、私の脳裡にまっさきに浮かぶのは、かならず芥川の「酒虫」という短編である。有名な出世作の「鼻」と一連の皮肉な作品だが、劉という大酒呑みが登場する。
 (――長山では屈指の素封家の一人であるこの男の道楽は、酒を呑む一方で、朝からほとんど盃を離したということがない。それも「独酌するごとに、すなわち一甕を尽す」というのだから、人並はずれた酒量である。)
 この酒呑みの劉が、ある見知らぬ蛮僧にこうきかれた。「あなたでしょうな、酒が好きなのは?」「そうです」「あなたは珍しい病にかかって居られる。それを御承知ですか?」
 劉は頑健で病気などしたことがないので不思議な顔をする。
「酒をのまれても酔いますまいな」と更に坊主がいう。坊主のいう通り、劉はいくら呑んでも酔ったことがない。
 坊主は薄笑いを浮かべて、
「それが病の証拠です。腹中に酒虫がいるのです。それをのぞかないと、この病いはなおりません」
 そこで劉は、坊主に教えられた通り、炎天素っ裸となると、細引きをかけられて地面にころがされた。
 焼けるような夏の日ざかりに甲羅を干しているのだから劉はノドがひからびて目まいがしてくる。そのトタン劉のノドに蚯蚓ともヤモリとも知れぬ妙なものが這いあがってきた。しまいには鯰か何かのようにスルリと口から外へ飛び出した。
 その虫は坊主の横に置いてある素焼の酒瓶の中にポチャリと落ちこんだ。
 劉は「出ましたかな」と呻くようにいいながら瓶の方にいざりよった。瓶の中には肉色をした三寸ばかりの山椒魚に似た虫が、酒の中を泳いでいる。口も眼もある。泳ぎながら酒を呑んでいるらしい。劉はそれを見ると、急に胸がわるくなった、というのである。
 劉はその日以来、酒がメッキリ弱くなり、しまいには香を嗅ぐのも嫌になった。しかし、これには皮肉な結末がついている。
 大地主で恰幅のよかった劉は、段々やせて健康を害し、次第に家運もかたむき、しまいには自分から鍬鋤を取らねばならぬような身分に落ちぶれた。
 この結末は、私達に、人生についての、色々な面白い興趣と教訓とを与えないではおかない。

(「歴史の謎」 加賀淳子)

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自分自身を小説に投影するを良しとする作家は、ドン・キホーテを鑑として滑稽視される運命を尊しとする(太宰治)

2024年08月07日 | 瓶詰の古本

「ピアノが聞えるね。」
 彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしてゐるけど。」
「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いてゐたい。」
「あの曲は、何?」
「ショパン。」
 でたらめ。
「へえ? 私は越後獅子かと思つた。」
 音痴同士のトンチンカンな会話。どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。
「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだらうね。」
「ばからしい。あなたみたいな淫乱ぢやありませんよ。」
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
 急に不快になつて、さらにウィスキーをがぶりと飲む。こりや、もう駄目かも知れない。しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかはる。どうしても、ねばつて成功しなければならぬ。
「恋愛と淫乱とは、根本的にちがひますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教へてあげませうかね。」
 自分で言つて、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん、少し時刻が早いけど、もう醉ひつぶれた振りをして寝てしまはう。
「ああ、醉つた。すきつぱらに飲んだので、ひどく醉つた。ちよつとここへ寝かせてもらはうか。」
「だめよ!」
 鴉声が蛮声に変つた。
「ばかにしないで! 見えすいてゐますよ。泊りたかつたら、五十万、いや百万円お出し。」
 すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒る事は無いぢやないか。醉つたから、ここへ、ちよつと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」
 キヌ子は立つて、ドアを開け放す。
 田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立つていきなりキヌ子に抱きつかうとした。
 グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎやつといふ甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思ひ出し、慄然として、
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
 とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
 キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。
 しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど……それから、ひものやうなものがありましたら、お願ひします。眼鏡のツルがこはれましたから。」
 色男としての歴史に於いて、かつて無かつた大屈辱にはらわたの煮えくりかへるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろひ、その赤いテープを両耳にかけ、
「ありがたう!」
 ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中階段を踏みはづして、また、ぎやつと言つた。

(「グッド・バイ」 太宰治)

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