美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

世界中の作家が『ドン・キホーテ』を愛するのは、小説の根本にあるべき徹底した善良の魂が決して挫けることなくそこに息づいているから(仁科春彦)

2024年04月27日 | 瓶詰の古本

『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスは、一五四七年(徳川家康が六つの時)スペインの、ある田舎町に生れました。
 その当時でも、名のある学校はあつたのですが、田舎町の没落地主の子であるセルバンテスは、正式の学校教育もうけることができず、二十才ごろから軍隊に入りました。そして、あちこち転戦したり、捕虜となつて苦しんだりして、二十年以上を兵営で送り、その間に、いろいろと世の中を観察して、見聞を広めました。
 軍隊を退いてからも、べつに手馴れた仕事があるわけではないので、その時まで見てきたことを、芝居などにかいて、自作自演をしたりしましたが、かくべつ評判になるでもなく、それも暫くでやめて、相かわらず生活苦と、たたかつていました。
 ところが、五十六才の時、『ドン・キホーテ』の筋書を考えて書きおろし、翌翌、千六百五年に出版してみると、思いもかけぬ大当りをとりました。そして、たちまち、世界各国語に翻訳せられ、今日では、聖書はべつとして、普通の小説で、『ドン・キホーテ』くらい広く読まれた書物は、あるまいとさえ、いわれております。
 二十世紀のはじめ(今から五十年前)の調査では、『ドン・キホーテ』を完全に訳した書物は、世界中で七百余種類に達していたということでした。それに抄訳ものや、抜萃本を計算すると、何千種類でているか、想像もつかないほどでしよう。セクスピアを専門に研究するセクスピア学者があるように、大ぜいのセルバンテス学者があつて、この『ドン・キホーテ』を研究し、作中の出来ごとの由来、考証、注釈等をまとめた書物が、すでに数えきれないほど出版されております。
『ドン・キホーテ』は、世界一、滑稽な書物だといわれ、主人公のドン・キホーテと、従者サンチョーとは、世界の代表的な滑稽人物とされておりますが、それでは、セルバンテスは、なぜ、ドン・キホーテのような、滑稽な人物を描いたのでしょうか。
 その頃のスペインは、軍国の気風が、ほかのヨーロッパの国国よりもさかんで、封建的な騎士道精神が、底ふかくこびりついていました。いい若ものが、なすこともなく、荒唐無稽な騎士廻国物語をよみふけつている有様で、書店は、それをいいことに、いよいよ馬力をかけて、一冊は一冊と、しだいに怪奇きわまる騎士道修業物語を出版して、その若者たちに媚びるという有様でした。
 日本でいえば、岩見重太郎の廻国奇談のようなものを、いい若ものが、仕事も何もそつちのけで読みふけり、それを悉くほんとうと思うばかりか、できれば自分が、重太郎になつて、諸国漫遊にでかけようかと、思うようになつては、もう手がつけられません。
 それと同様に、スペインでも、この、あとからあとから出版される武者修業本には、まつたく手こずつてしまつて、心ある人は、何とか禁止しなくてはと、気をもむものもありましたが、何しろ、国王カルロ五世などが、この騎士本の、いの一番の愛読者なので、どうすることも、できませんでした。
 セルバンテスは、そこへ目をつけて、『ドン・キホーテ』なる愉快な人物をえがきだし、いわゆる武者修業者なるものが、この主人公と大したちがいはないぞということを、戯画化して、みんなに見せました。
『ドン・キホーテ』が広く流布されるにつれ、さすがの騎士本好きも、いたいところを衝かれたとみえ、ばつたりと読者がへり、それからは新しい騎士本は、もう出なくなりました。そして騎士廻国のばからしさを指摘した『ドン・キホーテ』が、騎士本にかわつて、大いに売れるようになりました。
 セルバンテスは、『ドン・キホーテ』をかくことによつて計画したことではないが、『毒をもつて毒を制する』ことに、成功したわけでありました。
 もつとも、『ドン・キホーテ』が全世界に、今日まで最大の愛読者をもつているのはただ、当時のスペインの悪弊をついたばかりでなく、主人公ドン・キホーテの人物に魅力があるのと、その筋立のおもしろさにあることは、いうまでもありません。作者は、これに力を得て、『後篇』を一六一五年に出版しましたが、これも非常に好評でありました。
 セルバンテスは、翌一六一六年、英吉利の大劇作家セクスピアと同じ月、同じ日の四月十三日に死にました。『両巨星同日に陥つ』とでも、いうところでしようか。
 セルバンテスの作品には、『ドン・キホーテ』以外には、これというほどのものはありません。
                                       編  者

(「ドン・キホーテ」 セルバンテス原作 仁科春彦編)

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